この一帯は水車動力による大正の町工場「竹中精麦所」のほぼ外郭を残しています。現存する水路は直径4.5mもある大水車を回すために大正6年、竹中亀吉によって改修石積みされたものです。疎水より引かれ母屋の下をくぐり、下にある「お稲荷さん」の裏で白川に合流しています。
当時はそれなりの水量があり、その水車動力よより24時間稼働で精麦の臼をついておりました。精白された麦は俵詰めされ、初期は荷馬車、後には三輪トラックで卸す麦問屋を営んでいました。麦は主食・味噌材料用などの他、兵士の「脚気」予防のため陸軍省などにも納めていたそうです。
昭和45年頃に工場主要部分は解体され、現在の空地となりました。現存するのは後部の建物のみです。北側の建物は住居家屋周囲は従業者の住居などで、お稲荷さんは水車及び水路と一帯の安全祈願のため水路傍に祀られたものです。
昭和15年、国の食糧管理令の強化などのため工場は閉じられました。疎水の水力利用の水車は岡崎や夷川一帯に数多くありましたが、すべて暗渠となり水車水路として元の形で残る唯一のものです。この水路の疎水の水利用申請は疎水の出来た明治23年に出されており、竹中亀吉は五代目の所有者になります。よって、この前の小路を「水車の竹中みち」と名付けています。
「もっこ橋」の由来
白川分水から少し下ったところにある鉄製の一本橋に正式な名前はありませんが、通称「もっこ橋」と呼んでいます。゛もっこ゛とは持籠(もちこ)の詰まったことばで、藁筵(わらむしろ)の四隅につり縄紐をつけて天秤棒に吊って土砂や農産物などを運ぶ用具のことです。明治31年(1898)、京都で最初の「龍紋氷室」という製氷会社ができました。(川向いのマンション「ポルト・ド・岡崎」の建つ敷地)。当時は、気体アンモニアを圧縮させて氷点下にする製造方法でした。その後も昭和55年(1980)まで日本冷蔵株式会社などの変遷を経て現在のニチレイに合併され、製氷工場として稼働していました。
この橋は、氷の保存で湿った「おが屑」(鋸切りから出る木屑)をもっこに盛り、二人の人夫が前後で担ぎ天日干しにするために対岸にあった広場(現・文教小学校校庭)に運ぶ通路として架けられた橋です。
長い歴史上、天然氷室(ひむろ)から運ばれ高貴な人にしか届かなかった夏場の氷が、明治の文明開化以後は流通の発達や氷式冷蔵庫の普及により大衆の需要に供する一大産業となりました。北海道の天然氷を大都市へ船輸送するなどを経て、間もなく機械による人工製氷へと変わって行きます。京都から身を起こした明治の実業家・山田啓介創立の「龍紋氷室」はアメリカ直輸入の機械を設置した草分け工場のひとつでした。
氷に関しては、保存・運送の過程で溶解を防ぐ手立てが大きな問題でした。そこで注目されたのが熱伝導率の低い「おが屑」でしたが,需要が一挙に高まったために安価なものではなくなり、濡れたおが屑を天日乾燥させ再利用されたのです。
電力製氷・冷凍の時代とともに、この橋の元の用途は終わりましたが、岡崎のこの辺りが明治・大正・昭和の一時期、近代先端産業の工場地帯であった数少ない名残です。
今もこの橋の持つレトロな雰囲気は、由来を知る人も少ないまま、ますます多くのファンをもつ存在となっています。
私たちは、この橋の保存運動をしております。
「水車の竹中みち」実行委員会
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