疏水の文字
昭和3年10月
旧鹿関町
その昔、三尾神社の祭神である伊弉諾尊が、この辺りに天より降臨した時、一匹の鹿がその先導を務めたところから、「鹿先来」の地名は起こりのち鹿関と改めたと伝えられます。
かせきはし のつもりですが
かせきこ と読める
凝った造りの橋です
疏水 前回の記事 ➡ まち歩き滋賀0213 琵琶湖疏水 第1トンネル 東口 伊藤博文の扁額
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き滋賀0213 琵琶湖疏水 第1トンネル 東口 伊藤博文の扁額
今日の川柳
いつ見ても絵になる男わが夫 /小倉
下のユーザー地図で京都市内の記事探索が出来ます。試してみてください。
伏見城残石
道標
南 右 上醍醐黄檗道
左 大坂舟のり場
東 右 京大津道
左 奈良宇治
発起
山城屋弥兵衛
弘化四丁未年八月 (1846年)
竹田街道の車石・車道
この石列は、京都旧東塩小路村の竹田口から竹田村を経て伏見を結ぶ竹田街道(竹田車道)の棒鼻付近に敷き詰められた石の一部で、車石(輪型石・輪石)と呼ばれている。
車石は、竹田街道以外に、京都~大津間の京津街道や京都~下鳥羽の鳥羽街道(大阪街道)に敷設されていた。絵図Ⅰのように二列に敷かれた車石の上を、米や薪、炭、材木をはじめ多くの物資を積んだ牛車が京の市中へ運んだ。
車石は、東洞院通七条から、延々と伏見町内まで敷設されており、単線のため、午前中は上り、午後は下りと一方通行になっていた。
この区間は、京都市中の小河川が集まる低湿地帯で、雨でも降れば土道である街道はぬかるみ、牛車の車輪がぬかるみに取られてスムーズに通ることができなかった。そこで、車輪の通るところに、板を敷いたり石を敷いたりして、牛車を通りやすくした。その後、規格化された敷石(車石)をレールのように二列に敷き並べた。車道は、通行人の安全確保から、人や馬の通る道より一段低いところに設けられていた。梅雨や台風の時期になると、川の水があふれ、車道に水が流れ込み、絵図2に見られるように小川のようになることが多く、竹田街道の風物詩となった。
鴨川を横切る所では、重量のかさむ牛車は橋を通ることができず川中を通った。車石に残る深い轍の跡は、往時の牛車の交通の激しさを物語っている。(なお、車石の溝のでき方については、車の通行によってできたとする説、初めから浅く彫ったとする説がある。車石敷設の時期や、伏見の町に入ってからの車道のルートやどこまで敷設されていたかのか、ついては諸説あり、まだまだ研究の余地がある。)
(車石は、今も竹田街道、鳥羽街道沿いの民家に残されており、江戸時代の交通の様子を知る貴重な文化財となっている) (石材は、竹田、鳥羽街道は、摂津芦屋あたりの六甲花崗岩と山城笠置あたりの柳生花崗岩が使用されている。下の車石は、六甲花崗岩製である。)
これらの車石は、小谷一夫氏(伏見区)から寄贈されたものである。(資料提供 車石・車道研究会)
平成20年 10月吉日 御香宮
※ 絵図2 竹田の分かれ道 文久元年(1861)
※ 絵図1 竹田街道(旧塩小路付近、想像図 車石・車道研究会) 安政年間正行院額絵を参考に作図、車道・車石が分かるように作成した想像図
絵図 竹田河道・竹田の分かれ道 淀川両岸一覧 文久元年(1861)
車道
東参道 入口
昭和34年4月10日
皇太子殿下御成婚 奉祝記念
奉納 伏見 西浜 樋口利三郎
文化13年(1815)
車石 ⇒ まとめ005 車石 のあるところ
前回の 記事 ➡ 神社伏0076-2 御香宮神社2 伏見義民 桃山天満宮
次回の 記事 ➡ 神社伏0076-4 御香宮神社4 明治維新碑
神社 前回の記事 ➡ 神社山0075 蝉丸神社
今日の川柳
飛びついて来るわが友は一年生 /亀谷