維新史跡 池田屋騒動之址
京都市教育會 寄付者 昭和2年11月 佐々木フサ
池田屋外観
明治時代の池田屋
改装はしているものの騒動当時のままである。
池田屋2階内部
映画「蒲田行進曲」で有名な「階段落ち」の階段上部土方役の銀ちゃん(風間杜夫)に倒幕派浪人役のヤス(平田満)が斬られ、階段から転がり落ちる階段。この映画に「ヤス」のモデルになった俳優(故汐路章)も出演していました。
池田屋の見取り図
池田屋騒動顛末記
文久3年(1863)嵐のように吹き荒れた尊攘派の倒幕運動も沈静化の兆しを見せ始め、幕府は市中の治安回復に向け、なお一層の取締りを行っていた。その先鋒を努めたのが、京都守護職直属の新選組でした。
元治元年(1864)6月5日(祇園祭宵々宮 現7月15日)早朝、新選組は、かねてより探索していた、四条小橋西で薪炭商を営む桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕えた。実は古高は、倒幕派の近江郷士で土蔵から武器や具足が発見された。
古高を壬生屯所に連行し、土方が厳しく取り調べた結果、御所を焼打ちし守護職の松平容保を襲う計画が発覚する。近藤は、直ちに守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、夜五つ刻(9時ごろ)に祇園会所で会津藩兵と待ち合わせる。しかし、会津藩は約束の五つになっても来ない。
痺れを切らした新選組は、浪士狩りを一刻の猶予も出来ないと近藤隊は鴨川西側木屋町を北へ、土方隊は鴨川東側縄手を北へと二手に別れて潜伏場所の茶屋、商家、旅籠等を御用改めして行った。一方、古高が連行されたことを知った倒幕派は、新選組の屯所を襲撃し、古高を奪還すべしと主張し潜伏中の倒幕派に、三条小橋西の「池田屋」に集合するよう廻状が送られ、長州藩士桂小五郎も池田屋に来たが早く来すぎて、池田屋裏の対州藩邸に寄っていたので難を逃れたと言う。
近藤隊が三条小橋付近についたのが10時頃、一軒の宿屋「池田屋」に明かりが漏れていることに不信を抱き、10名のうち、6名で表口、裏口をかため、近藤、沖田、永倉、藤堂の4名で屋内へ。近藤は、宿の者に「御用改め」であると告げると主人池田屋惣兵衛が慌てて二階に駆け上がり、後を追って近藤が二階に上がると、そこには集会中の諸藩の倒幕派20数名がいた。
沖田が立ち向かってきた男を斬り、すぐに乱闘になった。屋内で闘う者、二階から外に飛び降りる者、階段を駆け下りる者、これを隊士が迎え撃つ。途中から土方隊らが加わった。闘いは3時間ほど続き、近藤隊からは1名死亡、藤堂、永倉が負傷し、倒幕派は肥後藩士、宮部鼎蔵他6名が斬死した。
一方、予定時間を大幅に遅れて会津藩兵500名が到着したころには、すでに戦いは終わっていました。この事件で倒幕が1年遅れたと言われるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。一方、この事件によって新選組の勇名は世に轟くことになったのです。
池田屋騒動への道程
池田屋騒動の殉難者たち
古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)36歳、近江出身「守山市古高町」攘夷派に傾倒し、梅田雲浜を師事。新選組に捕えられ、壬生屯所で拷問を受け、志士たちの陰謀を白状した。7月20日、六角牢で斬死。墓碑・福勝寺(上京区出水千本西入)古高町に顕彰碑。
宮部鼎蔵(みやべていぞう)45歳、肥後藩熊本藩士「熊本県上益城郡御船町」清河八郎に傾倒した。京都の志士達のリーダー格。近藤勇を相手に奮闘したが、深手を負い力尽きて、自害。6月5日墓・三縁寺(左京区岩倉花園町)御船町に顕彰碑
北添佶摩(きたぞえきつま)30歳、土佐出身庄屋。土佐勤王党に入り、坂本龍馬と蝦夷開拓。池田屋階段上で最初に近藤勇に頭から肩へ一文字に斬り下ろされ闘死。6月5日。墓・三縁寺。
大高又次郎(おおたかまたじろう)44歳。播磨林田藩士。梅田雲浜を師事。忠臣蔵・大高玄吾の子孫・池田屋にて闘死。6月5日。墓・三縁寺。
松田重助(まつだじゅうすけ)45歳。肥後熊本藩士。宮部鼎蔵に師事し、攘夷派。池田屋にて重傷を負い闘死。6月5日。墓・三縁寺
吉田稔磨(よしだとしまろ)24歳。長州藩士。吉田松陰を師事。黒船を見て、江戸・京都で倒幕運動に。池田屋にて奮闘したが、長州藩邸で斬死。6月5日。墓・三縁寺
広岡浪秀(ひろおかなみひで)24歳。長州出身の神官。池田屋にて重傷を負い三条河原町まで逃れたが絶命。6月5日。墓・三縁寺
杉山松介(すぎやましょうすけ)27歳。長州藩士。吉田松陰を師事。久坂玄瑞や真木和泉らと尊攘運動に。池田屋にて永倉新八に小手を打落され、藩邸まで戻ったが、出血多量で翌日死亡。6月6日。墓・三縁寺
望月亀弥太(もちづきかめやた)27歳。土佐藩士。勝海舟神戸海軍塾に入門後、坂本龍馬と蝦夷開拓。池田屋にて奮闘後、二階から出たが会津兵と戦い重傷を負い、角倉邸前で自害。6月6日。墓・三縁寺
石川潤次郎(いしかわじゅんじろう)29歳。土佐藩士。武市瑞山を師事。土佐勤王党。黒谷三条家別邸謹務。望月亀弥太を訪ねて、池田屋へ行く途中、三条大橋高札場あたりで闘死。6月5日。墓・三縁寺
福岡祐次郎(ふくおかゆうじろう)伊予松山藩士。若くから尊攘派。三条実美衛士。池田屋にて闘死。6月5日。墓・霊山
池田屋惣兵衛(いけだやそうべえ)42歳。天保年間より三条小橋西詰で営業する旅籠「池田屋」の主人。長州藩定宿で長州びいき。近藤勇に殴られ、目が覚めると妻子を向かいの家に預け隠れたが、翌日、投獄される。6月13日、牢内で病死。浄円寺(上京区下立売七本松西)
新選組隊士
奥沢英助(おくざわえいすけ) 文久3年入隊。池田屋にて闘死。6月5日。墓・壬生寺
安藤早太郎(あんどうはやたろう)25歳。京都出身。文久3年5月入隊。副長助勤。池田屋にて負傷し、7月22日死亡。墓・壬生寺
新田革左衛門(にったかくざえもん) 元治元年入隊。池田屋にて負傷し、7月22日死亡。墓・壬生寺
その他、志士で池田屋で負傷し後日死亡した者や、捕らわれ六角牢で死亡した者、禁門の変で戦死した者、山崎天王山で自害した者を列記します。
長州出身
有吉熊次郎・23歳、佐伯稜威雄・42歳、佐藤市郎・41歳、山田虎之助・42歳
肥後出身
高木元右衛門・32歳、中津彦太郎・30歳、宮部春蔵・27歳
土佐出身
伊藤弘長・27歳
播磨出身
大高忠兵衛・42歳
但馬出身
今井三郎右衛門・46歳
美作出身
安藤鐵馬・22歳
上州出身
南雲兵馬・29歳
京都出身
西川耕蔵・43歳
越前出身
吉田五郎・35歳
池田屋騒動址
元治元年(1864)旧暦6月5日「祇園祭り宵々山」、四条小橋の古高俊太郎を捕え厳しく取り調べた結果、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新選組は、三条小橋西詰北側の旅籠「池田屋」で密議中の長州、土佐、肥後各藩の尊王攘夷派志士約20名を、近藤勇率いる新選組10名で襲撃し、多くの死傷者を出しました。この事件で倒幕が1年遅れたといわれるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。一方、新選組はこの事件の手柄を機に、一躍名をあげました。
池田屋騒動殉難者供養の日
7月15日(旧暦6月5日・祇園祭宵々山)は池田屋騒動が起こった日です。当三条小橋商店街ではこの日を「池田屋騒動殉難者供養の日」と定め倒幕派・新選組・佐幕派という区別をせずに、国を憂い、近代国家の礎になった方々を供養する日としました。焼香台を設けましたので、ご自由にご焼香して頂き、静かに手を合わしてください。
昭和初期の三条小橋
上部の写真は昭和4年以前の三条小橋の情景です。江戸時代より、木屋町~河原町間の三条通りは現在より道幅が狭く、現在の河原町以西の道幅と同じでした。
又、小橋右側(北側)の旅館『吉岡家』は、江戸時代から続く旅館です。「幕末浪士組」を結成し「新選組」の基礎を作りその後、新選組と袂を分け、江戸の警護をして有名な庄内藩士『清河八郎』が安政2年に書いた紀行文「西遊草」のなかで、三条小橋かたわらの「吉岡や」に泊まったと記してあります。また、左側のアールデコ風の出窓がある旅館も江戸時代から続く「大津屋」(現在は有名な建築家安藤忠雄によるタイムズビル)で、池田屋騒動の「池田屋」は、まだ、この当時までは、建物は残っていました。
又、「京城勝覧」(儒学者・貝原益軒著1630~1714)のなかに「三条小橋高瀬川にわたせり。此下より舟にのり伏見にゆく。此邊より大橋の際まで旅篭屋多し。」と当時の三条小橋周辺を紹介しています。
高瀬川生洲
この絵図には高瀬川の両岸に三条、二条間で、江戸中期から栄えた生洲料理屋が描かれています。鯉、鮒、鰻などの川魚や鴨などを生洲や庭に飼っておいて生鮮な料理を提供し大変繁昌しました。京の人のみならず、観光客も楽しみました。酒は出しましたが、女人禁制で、琴・三味線等の音曲も禁止の男性だけの清遊の場でした。絵図の右端、板の間の向こうに生洲があり、魚が泳いでいるのが見えます。今もこの周辺には飲食店が軒を連ねていて、大いに賑わう生洲料理店の発祥の地です。
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