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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まとめ024 妙心寺

2018年04月25日 20時20分56秒 | テーマ数々

 

  

     寺院右0461 鐘楼(浴鐘)   妙心寺内 東

     寺院右0460 通玄院 妙心寺塔頭

      寺院右0459 玉龍院 妙心寺塔頭

    寺院右0458 大龍院  妙心寺塔頭 

    寺院右0457 徳雲院  妙心寺塔頭

    寺院右0456  霊雲院  妙心寺塔頭  西田幾多郎墓所

    寺院右0455  鐘楼 北西にある  妙心寺内 日本最古・国宝

    道標右0167 佐久間象山 墓道

    寺院右0454  聖澤院 妙心寺塔頭

    寺院右0453 鐘楼(南西にある) 妙心寺内

    寺院右0452 法堂 妙心寺内  雲龍図の天井図

      寺院右0451 天授院 妙心寺塔頭

     寺院右0450  井戸  妙心寺内

       寺院右0449 経蔵  妙心寺内

   寺院右0448 仏殿 妙心寺内 

   石碑右0165   名勝 史蹟    妙心寺庭園

    寺院右0446  明智風呂  浴室 妙心寺内

   寺院右0445  龍泉庵  妙心寺 塔頭

   寺院右0444 慈雲院  妙心寺 塔頭  

   寺院右0432 妙心寺 境内図

   寺院右0442 妙心寺 勅使門

   寺院右0433 智勝院  斎藤利三の墓がある

   妙心寺塔頭 麟祥院 は 春日局の菩提寺

   ポスター0093  白隠禅師 250年遠忌 妙心寺

        寺院右0603  妙心寺 玉鳳院 重要文化財

   寺院右0604 妙心寺 涅槃堂

   退蔵院 

        寺院右0602 妙心寺 塔頭 東海庵  重要文化財

   寺院右0605 妙心寺 東林院 沙羅双樹の寺 

       寺院右0606 妙心寺 養源院

       寺院右0607 妙心寺 宝蔵

   寺院右0608 妙心寺 衝梅院(こうばいいん)

   寺院右0609 妙心寺 長興院(ちょうこういん)

   寺院右0610 妙心寺 塔頭 春浦園(しゅんほえん)  境外塔頭 重文

   寺院右0611 妙心寺 大心院

   寺院右0612 妙心寺 小方丈 重要文化財

        寺院右0613 妙心寺 福壽院

   寺院右0614 妙心寺 如是院

   寺院右0615 妙心寺 微妙殿

         寺院右0616 妙心寺 雑華院(ざつげいん)

   寺院右0617  妙心寺 海福院 福島正則の墓

   寺院右0618 妙心寺 蟠桃院(ばんとういん)  前田玄以の墓

         寺院右0619 妙心寺 大雄院(だいおういん) 柴田是真の寺

        寺院右0620 妙心寺 桂春院 重文

   寺院右0621 妙心寺 雲祥院 方広寺の梵鐘に関わる話

   寺院右0622 妙心寺 長慶院 北の政所 寧々の姉

   寺院右0623 妙心寺 光國院(こうこくいん) 亀姫と関係がある

    愛宕灯籠  妙心寺北門前にあり

   寺院右0443 妙心寺 三門 

   ポスター0009  妙心寺 三門 

   衣笠山の頂に到着 衣笠山をめざして7

   妙心寺 南総門 

   お精霊送り  8月16日  妙心寺

        道標右0249  如是院・福寿院 妙心寺

        まち歩き右1072 妙心寺 境内 歌碑とかかれた石

  

  

方500m四方におよぶ広大な寺域に多数の伽藍がある。禅宗寺院で、正法山と号し、妙心寺派の大本山。当寺は花園天皇がこの地にあった離宮(萩原殿)を禅寺に改められたのが起こり、その創建年月については諸説があるが、およそ南北朝時代の康永元年(1342)頃とみられる。

 

開山は大徳寺の大灯国師妙超のすすめにより、その高弟関山慧玄が招かれてより、上皇もまた傍らに玉鳳院を建てて塔所とし、間もなく崩御された。開山の関山慧玄は無相大師といわれるごとく、形式的な読経や規式にこだわらず、堂宇の壮厳にも心をとめず、ひたすら人材の養成のみにつとめられたから、創立当初は規模も小さく、大徳寺の末寺として位置づけられた。

 

さらに応永6年(1399)、大内義弘足利義満に叛旗をひるがえしたとき、義弘がときの住持拙堂宗朴(六世)と親しく、また妙心寺の壇越でもあったため、寺は義満によってその寺領を没収され、寺名もまた竜雲寺と改称し、一時は廃絶の憂き目にあった。

 

 

 

しかし、永享4年(1432)以降、寺領の一部が返還され始め、さらに日峰宗舜が7世住持となるにおよんで、細川持之、・勝元の支援を得て、伽藍の復興もようやく軌道にのるに至った。

 

応仁の乱の兵火によって焼失したが細川勝元政元父子の援助によってふたたび復興され、大徳寺の支配を脱して独立寺院となるに至った。その頃、9世住持雪江宗舜の高弟に景川・悟溪・特芳・東陽の4傑が現れ、それぞれ竜泉・東海・霊雲・聖澤のいわゆる本四庵を山内にかまえ、この本四庵を中心として関山禅の浸透につとめたから、五山禅の衰退をよそに妙心寺禅は臨済宗の主流の地位を占めるに至った。

 

 

 

とくに戦国武将の帰依をうけ、多くの敷地の寄進をうけた。なかでも永正6年(1509)美濃国・加納の城主斎藤利国の室利貞尼は、御室仁和寺真乗院の領地を買収し、永代供養にと妙心寺に寄進した。これが妙心寺が現在の広大な境内地を占めるに至った。

 

江戸時代には将軍や諸侯の帰依するもの多く、塔頭子院90余宇のうち、武将の建立するものは38宇におよんだ。今日につたわる三門や諸堂宇もあいついで建立され、白隠禅師ら多くの名僧の輩出によって、寺運は隆昌になった。

 

明治以降も臨済9派の随一としてさかえ、今、末寺は全国に3500寺の多きを有している。

 

   

 


寺院右0452 法堂 妙心寺内  雲龍図の天井図

2018年04月25日 20時15分53秒 | 寺院

 

重文・江戸時代 管長が法要儀式を行うところで、仏像はなく、須弥壇を設けるだけである。五間四面、単層、裳階付であるため、外観は7間6面となっている。仏殿と同じく入母屋造り、本瓦葺きであるが、仏殿より一層大きく、また一段と禅宗様(唐様)に徹した造りとなっている。明暦3年(1657)の建造で、内部の鏡天井には狩野探幽筆になる「八方にらみの龍」の画が描かれている。

 

法堂から 大方丈を見る

 

法堂から 寝堂につづく

関連記事 ➡  まとめ024 妙心寺

寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0451 天授院 妙心寺塔頭

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寺院右0451 天授院 妙心寺塔頭

2018年04月25日 18時05分35秒 | 寺院

 

妙心寺二世授翁宗弼の塔頭として康暦2年(1380)に創建された塔頭中、

最も古い創建年である塔頭。

現在は専門道場となっている。今の方丈は寛永2年(1625)の建造であるが、桃山時代の書院造りになり、内部には桃山時代の狩野派系画家になる山水・人物・花鳥を主とした障壁画32面がある。

寺宝に藤原宣房筆の「法華経譬喩品」1巻(重文・鎌倉時代)、絹本著色「授翁宗弼頂相」一幅(室町時代)等がある。

関連記事 ➡ まとめ024 妙心寺

寺院 前回の 記事 ➡ 寺院右0450  井戸  妙心寺内

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問題017  見えないものの 合計は 

2018年04月25日 13時03分12秒 | まち歩き

向かい合う 面の合計が7のサイコロを4個 

次のように テーブルの上に並べます。

このとき、どこから見ても見えない隠れているサイコロの面10個の

面の目の数の合計は最大でいくらになりますか

 

 

今までの問題選び ➡ 問題の検索  どれにしますか 


石碑中0166 池田屋騒動址

2018年04月25日 11時27分26秒 | 石碑

 

維新史跡 池田屋騒動之址

京都市教育會 寄付者 昭和2年11月 佐々木フサ

 

池田屋外観

明治時代の池田屋

改装はしているものの騒動当時のままである。

池田屋2階内部

映画「蒲田行進曲」で有名な「階段落ち」の階段上部土方役の銀ちゃん(風間杜夫)に倒幕派浪人役のヤス(平田満)が斬られ、階段から転がり落ちる階段。この映画に「ヤス」のモデルになった俳優(故汐路章)も出演していました。

 

池田屋の見取り図

 

池田屋騒動顛末記

文久3年(1863)嵐のように吹き荒れた尊攘派の倒幕運動も沈静化の兆しを見せ始め、幕府は市中の治安回復に向け、なお一層の取締りを行っていた。その先鋒を努めたのが、京都守護職直属の新選組でした。

元治元年(1864)6月5日(祇園祭宵々宮 現7月15日)早朝、新選組は、かねてより探索していた、四条小橋西で薪炭商を営む桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕えた。実は古高は、倒幕派の近江郷士で土蔵から武器や具足が発見された。

古高を壬生屯所に連行し、土方が厳しく取り調べた結果、御所を焼打ちし守護職の松平容保を襲う計画が発覚する。近藤は、直ちに守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、夜五つ刻(9時ごろ)に祇園会所で会津藩兵と待ち合わせる。しかし、会津藩は約束の五つになっても来ない。

痺れを切らした新選組は、浪士狩りを一刻の猶予も出来ないと近藤隊は鴨川西側木屋町を北へ、土方隊は鴨川東側縄手を北へと二手に別れて潜伏場所の茶屋、商家、旅籠等を御用改めして行った。一方、古高が連行されたことを知った倒幕派は、新選組の屯所を襲撃し、古高を奪還すべしと主張し潜伏中の倒幕派に、三条小橋西の「池田屋」に集合するよう廻状が送られ、長州藩士桂小五郎も池田屋に来たが早く来すぎて、池田屋裏の対州藩邸に寄っていたので難を逃れたと言う。

近藤隊が三条小橋付近についたのが10時頃、一軒の宿屋「池田屋」に明かりが漏れていることに不信を抱き、10名のうち、6名で表口、裏口をかため、近藤、沖田、永倉、藤堂の4名で屋内へ。近藤は、宿の者に「御用改め」であると告げると主人池田屋惣兵衛が慌てて二階に駆け上がり、後を追って近藤が二階に上がると、そこには集会中の諸藩の倒幕派20数名がいた。

沖田が立ち向かってきた男を斬り、すぐに乱闘になった。屋内で闘う者、二階から外に飛び降りる者、階段を駆け下りる者、これを隊士が迎え撃つ。途中から土方隊らが加わった。闘いは3時間ほど続き、近藤隊からは1名死亡、藤堂、永倉が負傷し、倒幕派は肥後藩士、宮部鼎蔵他6名が斬死した。

一方、予定時間を大幅に遅れて会津藩兵500名が到着したころには、すでに戦いは終わっていました。この事件で倒幕が1年遅れたと言われるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。一方、この事件によって新選組の勇名は世に轟くことになったのです。

 

池田屋騒動への道程

 

池田屋騒動の殉難者たち

古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)36歳、近江出身「守山市古高町」攘夷派に傾倒し、梅田雲浜を師事。新選組に捕えられ、壬生屯所で拷問を受け、志士たちの陰謀を白状した。7月20日、六角牢で斬死。墓碑・福勝寺(上京区出水千本西入)古高町に顕彰碑。

宮部鼎蔵(みやべていぞう)45歳、肥後藩熊本藩士「熊本県上益城郡御船町」清河八郎に傾倒した。京都の志士達のリーダー格。近藤勇を相手に奮闘したが、深手を負い力尽きて、自害。6月5日墓・三縁寺(左京区岩倉花園町)御船町に顕彰碑

 

北添佶摩(きたぞえきつま)30歳、土佐出身庄屋。土佐勤王党に入り、坂本龍馬と蝦夷開拓。池田屋階段上で最初に近藤勇に頭から肩へ一文字に斬り下ろされ闘死。6月5日。墓・三縁寺。

大高又次郎(おおたかまたじろう)44歳。播磨林田藩士。梅田雲浜を師事。忠臣蔵・大高玄吾の子孫・池田屋にて闘死。6月5日。墓・三縁寺。

 

松田重助(まつだじゅうすけ)45歳。肥後熊本藩士。宮部鼎蔵に師事し、攘夷派。池田屋にて重傷を負い闘死。6月5日。墓・三縁寺

 

吉田稔磨(よしだとしまろ)24歳。長州藩士。吉田松陰を師事。黒船を見て、江戸・京都で倒幕運動に。池田屋にて奮闘したが、長州藩邸で斬死。6月5日。墓・三縁寺

 

広岡浪秀(ひろおかなみひで)24歳。長州出身の神官。池田屋にて重傷を負い三条河原町まで逃れたが絶命。6月5日。墓・三縁寺

 

杉山松介(すぎやましょうすけ)27歳。長州藩士。吉田松陰を師事。久坂玄瑞や真木和泉らと尊攘運動に。池田屋にて永倉新八に小手を打落され、藩邸まで戻ったが、出血多量で翌日死亡。6月6日。墓・三縁寺

 

望月亀弥太(もちづきかめやた)27歳。土佐藩士。勝海舟神戸海軍塾に入門後、坂本龍馬と蝦夷開拓。池田屋にて奮闘後、二階から出たが会津兵と戦い重傷を負い、角倉邸前で自害。6月6日。墓・三縁寺

 

石川潤次郎(いしかわじゅんじろう)29歳。土佐藩士。武市瑞山を師事。土佐勤王党。黒谷三条家別邸謹務。望月亀弥太を訪ねて、池田屋へ行く途中、三条大橋高札場あたりで闘死。6月5日。墓・三縁寺

 

福岡祐次郎(ふくおかゆうじろう)伊予松山藩士。若くから尊攘派。三条実美衛士。池田屋にて闘死。6月5日。墓・霊山

 

池田屋惣兵衛(いけだやそうべえ)42歳。天保年間より三条小橋西詰で営業する旅籠「池田屋」の主人。長州藩定宿で長州びいき。近藤勇に殴られ、目が覚めると妻子を向かいの家に預け隠れたが、翌日、投獄される。6月13日、牢内で病死。浄円寺(上京区下立売七本松西)

 

新選組隊士

奥沢英助(おくざわえいすけ) 文久3年入隊。池田屋にて闘死。6月5日。墓・壬生寺

 

安藤早太郎(あんどうはやたろう)25歳。京都出身。文久3年5月入隊。副長助勤。池田屋にて負傷し、7月22日死亡。墓・壬生寺

新田革左衛門(にったかくざえもん) 元治元年入隊。池田屋にて負傷し、7月22日死亡。墓・壬生寺

 

その他、志士で池田屋で負傷し後日死亡した者や、捕らわれ六角牢で死亡した者、禁門の変で戦死した者、山崎天王山で自害した者を列記します。

長州出身

  有吉熊次郎・23歳、佐伯稜威雄・42歳、佐藤市郎・41歳、山田虎之助・42歳

 

肥後出身

  高木元右衛門・32歳、中津彦太郎・30歳、宮部春蔵・27歳

 

土佐出身

 伊藤弘長・27歳

 

播磨出身 

 大高忠兵衛・42歳

 

但馬出身

 今井三郎右衛門・46歳

 

美作出身

安藤鐵馬・22歳

 

上州出身

南雲兵馬・29歳

 

京都出身

西川耕蔵・43歳

 

越前出身

吉田五郎・35歳

池田屋騒動址

元治元年(1864)旧暦6月5日「祇園祭り宵々山」、四条小橋の古高俊太郎を捕え厳しく取り調べた結果、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新選組は、三条小橋西詰北側の旅籠「池田屋」で密議中の長州、土佐、肥後各藩の尊王攘夷派志士約20名を、近藤勇率いる新選組10名で襲撃し、多くの死傷者を出しました。この事件で倒幕が1年遅れたといわれるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。一方、新選組はこの事件の手柄を機に、一躍名をあげました。

池田屋騒動殉難者供養の日

7月15日(旧暦6月5日・祇園祭宵々山)は池田屋騒動が起こった日です。当三条小橋商店街ではこの日を「池田屋騒動殉難者供養の日」と定め倒幕派・新選組・佐幕派という区別をせずに、国を憂い、近代国家の礎になった方々を供養する日としました。焼香台を設けましたので、ご自由にご焼香して頂き、静かに手を合わしてください。

昭和初期の三条小橋

上部の写真は昭和4年以前の三条小橋の情景です。江戸時代より、木屋町~河原町間の三条通りは現在より道幅が狭く、現在の河原町以西の道幅と同じでした。

又、小橋右側(北側)の旅館『吉岡家』は、江戸時代から続く旅館です。「幕末浪士組」を結成し「新選組」の基礎を作りその後、新選組と袂を分け、江戸の警護をして有名な庄内藩士『清河八郎』が安政2年に書いた紀行文「西遊草」のなかで、三条小橋かたわらの「吉岡や」に泊まったと記してあります。また、左側のアールデコ風の出窓がある旅館も江戸時代から続く「大津屋」(現在は有名な建築家安藤忠雄によるタイムズビル)で、池田屋騒動の「池田屋」は、まだ、この当時までは、建物は残っていました。

又、「京城勝覧」(儒学者・貝原益軒著1630~1714)のなかに「三条小橋高瀬川にわたせり。此下より舟にのり伏見にゆく。此邊より大橋の際まで旅篭屋多し。」と当時の三条小橋周辺を紹介しています。

高瀬川生洲

この絵図には高瀬川の両岸に三条、二条間で、江戸中期から栄えた生洲料理屋が描かれています。鯉、鮒、鰻などの川魚や鴨などを生洲や庭に飼っておいて生鮮な料理を提供し大変繁昌しました。京の人のみならず、観光客も楽しみました。酒は出しましたが、女人禁制で、琴・三味線等の音曲も禁止の男性だけの清遊の場でした。絵図の右端、板の間の向こうに生洲があり、魚が泳いでいるのが見えます。今もこの周辺には飲食店が軒を連ねていて、大いに賑わう生洲料理店の発祥の地です。

関連記事 ➡ 新選組 ゆかりの地  

石碑前回の記事 ➡ 石碑右0165   名勝 史蹟    妙心寺庭園

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寺院右0450  井戸  妙心寺内

2018年04月25日 06時28分39秒 | 寺院

大きな井戸です

関連記事 ➡  まとめ024 妙心寺

寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0449 経蔵  妙心寺内

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