003 江戸時代の屋敷などに関する
004 平安京 坊名とつながりがある
005 御霊神社と関係がある
006 神明 と名がつく
007 人の名 がつく
008 神楽 とつく
北は三条通1筋南より、南は四条まで
寛文10年(1670)鴨川の改修工事によって出現した町、川原の片側にのぞんで先端だけであったから、先斗町の名が生じたとつたわる。
この地にはじめて水茶屋が設けられたのは正徳2年(1712)の頃といわれ、次いで文化10年(1813)に芸妓渡世が認められた。庶民的なところがあったから、幕末の頃には諸国の浪士も多くここに遊宴し、幾多のロマンスの花を咲かせた。
鴨川をどりにも常に新しいものを大胆にとり入れている。第2次大戦中、強制疎開によってその中央部を削り取られて駐車場となり、景観が落ちた。それでも「べにがら」格子の家がせまい通路の両側に建ちならび、また、東西には50番まで数える大小の路地がある。雨の降る日は、往来する芸妓と傘をかたむけ合って通り抜けねばならないのも、ここならではの風情です。
鴨川をどり
先斗町の歌舞練場で、毎年春秋2回にわたって行われる舞踊。明治5年(1872)裏寺町四条上ル大竜寺横で始められ、明治18年(1885)までつづいたが、いったん中断した。明治28年(1895)平安遷都1100年を記念して、三条橋畔に新築された歌舞練場にて復活された。
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奥まったところにあります
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佐久間象山先生遭難之碑
大村益次郎卿遭難之碑
北へ約壱丁
昭和十年壱月吉辰
新三浦
白井凌三建之
佐久間象山は信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら傑物を輩出しています。元治元年(1864)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、同年7月11日に刺客に斬殺されました。
大村益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となりました。長州藩の軍事指導者として活躍し、その功績から維新後、兵部大輔に仁名され、近代兵制樹立に尽力しました。しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治2年に三条木屋町にて反対派士族に襲われ、同年敗血症で死去しました。
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