大永6年(1526)薬師寺備後守国長の室、霊雲院清範尼が大休和尚に帰依して創建した妙心寺四派本庵の1つ。大休和尚に後奈良天皇(1497~1557、在位1526~1557)は深く帰依され、しばしば当院に行幸された。
方丈につづく「御幸の間」と称する書院(重文・室町時代)は、3間4面、単層、切妻造り、こけら葺きからなり、内部は四ツ目式に仕切って中央に帳台構えを備える。その左の一畳は、隅に違い棚を造り、上の欄間によって別室のようになっている。これは、明障子の前に机を持ち出し、書見をするようにしたためである。これがのちの書院造りでは、ここに付書院がモウケラレルになるが、ここの書院は簡素実用を旨とする初期書院造りを示すものとして、貴重とされています。内部の障壁画は、狩野元信筆といわれていますが、
片山尚景の筆ともいわれている。
庭園は書院と方丈との間の狭小なところに自然の風趣を生かしてつくられた枯山水の小庭。東部に蓬莱式の石組を配し、そこから西方へと水が流れるさまをあらわしている。
西部の石組は早く荒廃した。作庭者は相国寺の画僧で、
西芳寺(苔寺)の住持をつとめた子建(号是庵)といわれる。
寺宝に紙本水墨淡彩「山水花鳥図」49幅(重文・室町時代)は、狩野元信晩年の筆とつたえる。
元信は大休和尚に帰依し、久しく当院に住まいしてしたといわれ、当院が俗に「元信寺」とも呼ばれるゆえんである。
門内左手に哲学者・西田幾多郎博士の墓があり、
碑面に博士の号「寸心」の二字が刻されている。
西田幾多郎 石川県の人で、いわゆる西田哲学を樹立した哲学者、文学博士。
父得登、母さとの長男で、母校の金沢4高の教授をふりだしに、学習院、京大の教授、同名誉教授、学士院会員となり、昭和15年文化勲章を受章した。数百版を重ねた名著『善の研究』をはじめ『思索と体験』、『働くものから見るものへ』、『無の自覚的限定』、『自覚に於ける直観と反省』、『日本文化の問題』、『西田幾多郎全集』があり、思想界に大きな影響を与えた。晩年は鎌倉に移ったので、姥ケ谷海岸に建った歌碑とともに、墓も鎌倉東慶寺にあるが、ここ霊雲院の墓は分骨のもので、自筆で「寸心」と刻んである。
昭和20年、75歳の没であった。
枯山水庭
書院 と 庭園
狩野元信 筆 山水図
雪舟 筆 福禄寿図
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