1 北野天満宮の道標
2 妙心寺北門の道標
3 妙心寺内の道標
4 遭難地
幕末の勤皇家で海防論者。信州松代の藩士、佐久間一学の長男で、名は啓之助。28歳にして修理と通称したか「しょうざん」「ぞうざん」そのよび方が2説に分かれている。
佐藤一斎に蘭学を学び、高島秋帆からその技を習得した。嘉永6年(1853)、浦賀に黒船入港の際、海防の急務を主張し、軍議によってその役を免ぜられたが、逆に多くの心酔者も輩出した。吉田松陰もその心酔者の1人で、折から長崎に来航していたロシアの船に乗り、外国事情の吸収に脱出を試みんと企てたが発覚、その密航事件に師としての立場から引責幽閉されたのが安政元年(1854)のことであった。
元治元年(1864)2月、徳川14代将軍家茂の入洛とともに、各藩の京屋敷は藩士の数をぞくぞく増やし、屋敷で収容できない者は、陣屋を設けて集められ、無気味な緊張感がただよっていた。勤王、佐幕、新選組、天誅組などが入れ乱れ、にらみあっている。そんな京都へ奇妙な男が現れた。テテッポウ(長野地方でフクロウのこと)と呼ばれたその顔は、色白で目と鼻が異様に大きく、ロングヘアーの大男。松代藩士 佐久間象山である。象山が将軍の招きで入洛してきたのは3月の末。洋風の鞍をつけた馬にまたがり、京を行くさまは、しばしば外国人と間違えられたという。
象山は儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術(技術)とし、この2つを融合させ、早くから開国と公武合体論を説いていた。
彼はこの理論をつらぬくことが、やがて日本が世界に号令を発する近道だと主張。この構想は勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰らに影響した。また、象山は吉田松陰の密航をそそのかした罪で投獄された。(安政元年 1854)が、このとき獄中で考えた「省けん録」は幕府の無能をそしり、儒学の無識を嘆いた時世論で、このため多くの敵をつくっていた。
入洛後の象山は、4月3日付で幕府の辞令を受けている。「海陸御備向掛手附」というややこしい役だが実際は公武合体の政変(前半)後の朝幕間パイプ役、幕府からの条件は20人扶持に15両の手当。これでは尊攘党の巣くつ京都で安心して役目を果たせない。天下の英傑を自任の象山のプライドは傷つけられた。が、いまはわが身の利害にこだわるときではない。また、自分を京都へ招いてくれた長州や土州藩士の顔が立たない。象山はこの役目を引き受けた。
4月14日、象山は浪士がうろうろする「越前屋」(中京区六角通り東洞院西入ル)から丸太町の鴨川西岸に転居した。これは梁川紅蘭のすすめであったが、部屋が狭く、5月中旬には中京区木屋町三条上ルへ転居した。ここは部屋数も多く、東山や大文字、三条大橋が一望できる。また、親しい長州藩や彦根藩の京屋敷がすぐ近くにあるところ。象山は大いに気に入り、風流にも「煙雨楼」と名付けた。この間、一橋慶喜や将軍家茂らとあって彼一流の時世論、天下治平の策を述べた。そして6月5日に「煙雨楼」から目と鼻のところで溏田屋事件が起きると、天皇の御身を案じ、京は物騒だからと彦根遷都をすすめる・・象山の誠実さの一面であった。7月11日、朝食をすませた象山は、塚田五左衛門、坂口義次郎、馬丁半平、ぞうり取りの音吉の4人をガードに山階宮邸を訪問した。あいにく宮が不在のため、執事の国分番長と面会した。ここで大切な世界地図を持たせて塚田五左衛門を先に帰らせ、残る3人と松代藩の宿陣本覚寺(下京区五条寺町上ル)へ。しかし、ここでも目当ての門人蟻川賢之助、三沢刑部丞の両人が外出中。ついてなかった。象山は本覚寺から「煙雨楼」へ帰るとき、前日から風邪気味の坂口義次郎に音吉をつきそわせ、ゆっくりして還るように言い残した。これも象山の思いやりだった。この後、口取りの半平と家路につき、午後5時ごろ木屋町三条へさしかかった。「煙雨楼」まであと数十メートルほどのところで突然2人の刺客が襲い掛かった。足を切られた象山は馬を走らせた。馬は「煙雨楼」を通り越し、木屋町通を一気に御池へ。ここで待ち伏せしていた別の刺客7、8人に捕えられ、全身に13ケ所の刀傷を受けて死亡した。象山52歳。その日の夕方、三条大橋には「会津・彦根の2藩に組みした国賊につき、天誅を加えた・・・」とかかれていたという。後にこの事件を知った山階宮は次の様な歌を詠んで象山を偲んだ。
浅間山煙りと消えしその人の
名こそ雲井に立ちのこりけり
いま事件現場の木屋町御池上ルに「象山先生遭難之碑」が建つ。故新村出博士を会長とする顕彰会がこの地で長く続けられた。遭難の翌々13日に遺骸は妙心寺大法院に葬られた。墓は松代藩にゆかりの深い妙心寺大法院にある。埋葬の翌7月14日、佐久間家断絶の命が降った。象山が生前心配していた通り、この事件の8日後に蛤御門の変が現実となり、「京のどんどん焼け」の大惨事となった。この時の被害状況は焼失家屋、民家27000余り、土蔵1207、寺社253といわれる。
銅鐘 (国宝・白鳳時代)はもと境内の鐘楼に在ったが、近年法堂内に移された。
この鐘は『徒然草』に「黄鐘調の鐘」として知られる名鐘で、その音色が雅楽12律の黄鐘調に合うところから名づけられた。
高さ1.5m、口径86㎝、青銅製。内面に「戊戌4月13日 壬寅収糠屋評造春米連広国鋳鐘」の銘文あり、わが国最古の鐘であることが知られる。
口径に比べて丈が高く、また鐘をつく撞座の位置が高いのは、平安以前の古格をあらわしたものか。
この鐘は、もと嵯峨の浄金剛院または花園の法金剛院の遺物と伝わるが明らかでない。
嵯峨にあった貴族の別業や持仏堂などがのちに改めた寺院のものであろう。
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大永3年(1523)美濃の土岐氏が天蔭和尚を開山として建立した。
妙心寺四派本庵の1つ。
寺宝に絹本著色「摩利支天像」一幅(重文)がある。
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享和3年(1803) 正月の文字が刻まれている
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