西ノ京 左馬寮町(さまりょうちょう)
平安時代の大内裏図のなかに 左馬寮の屋敷・敷地の名前がある。
大内裏の南西方面
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大原女 のようだ
こちらは 野仏かな
古来風光明媚の地として知られ、行き折々の眺めも市中とはちがつた趣があり、人気の地である。
もとは愛宕郡に属し、大原荘または大原郷といい、戸寺・上野・来迎院・勝林院・草生・野村・井出の八ケ村からなっていたが、明治22年(1889)大原の北部に散在する小出石・百井・大見・尾越の4ケ村を合併して大原村となり、昭和24年(1949)4月京都市左京区に編入され、今は「大原」を冠する13ケ町から成っている。
元来のこの地は山林を業とし、薪炭を生産販売する「炭窯の里」・「炭焼きの里」であり、宮中で使用される「みかま木」の供給地であった。平安時代中期ごろ、比叡山延暦寺の俗化を嫌った一部の僧たちが大原に着目し、ここに草庵や房舎を建て、仏道修行の場とするに至った。中でも長和2年(1013)勝林院をひらいた寂源が最初で。次いで嘉保元年(1094)良忍が来住して来迎院をひらき、融通念仏を唱導した。現在残っているのは三千院の本堂、寂光院である。
大原は嵯峨とともに隠棲者の里でもあった。惟高親王、源顕基(権中納言。後一条天皇崩御を慎んで出家。法名円昭。宇治大納言隆国の兄)・良暹法師(りょうせん)・藤原貞憲(少納言信西入道の息。平治の乱に連座し、37歳で出家。建礼門院を大原に誘った阿波内侍の父にあたる)・藤原惟方(平治の乱の主役の1人。法名寂信。歌人)・平親範(正三位民部卿。承安4年・1174年38歳で出家。法名円智房、伯母の真如房尼から往生極楽院をゆずられたが、何かの理由で来迎院に住した)・加茂氏久(鎌倉初期の上賀茂神社の祠官。後鳥羽上皇の皇胤)・なかでも寂念・寂然・寂超は「大原3寂」と知られた。
大原の自然は厳しく、長続きしない。鴨長明、建礼門院は5年ぐらいで大原を去っている。
近世以降は「大原御幸」ゆかりの地として人気を浴びている。
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