アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

岡崎神社から黒谷へ抜ける道

2015年07月29日 14時12分32秒 | まち歩き

 

 

身近いけど  歩いていて 落ち着ける 感じがする

 

  サルビア・ガラニチカ  が咲いていました

 

歩いた道

 


岡崎別院   真宗大谷派東本願寺 別院

2015年07月29日 14時08分15秒 | 寺院

享和元年(1801)東本願寺の達如上人が宗祖親鸞上人の遺跡を慕い、

一宇を創建したのが起こり、はじめ岡崎御坊と称したが、

明治9(1878)に今の名に改めた。もとこの地は親鸞屋敷とよばれ、

叡山より下山した親鸞がしばらくこの地に仮寓し、

承元流罪の折には、ここから越後の配所へ赴いたと伝わる。

そのとき、姿を映した姿見の池(鏡池)が、今も本堂の傍らにある。

上人手植えの「八房の梅」と称する紅梅がある。

 

石碑には 親鸞聖人草庵遺蹟 と書かれています

 

 

東門

 


岡崎神社 うさぎが安産人気

2015年07月29日 07時11分19秒 | 神社

 

祭神として、素戔嗚尊、櫛稲田媛命 及びその御子三女五男八柱を祀る。

延暦13年(794)、桓武天皇の平安京遷都の際に、王城守護のために建立された社の1つといわれ、

都の東方に鎮座することから東天王と称した。西天王社は須賀神社

清和天皇が、貞観11年(869)に造営し、

播磨国(現在の兵庫県)広峯から祭神を迎え祀ったといわれる。

治承2年(1178)に、中宮の御産の奉幣を賜ったことから安産の神として信仰され、

また創始時の王城守護方除けの勅願により、今も方除厄除神としての信仰が絶えない。

古くから、うさぎが氏神の使いと伝えられ、祭神が子宝に恵まれ、

うさぎが多産であることから子授けの神として祈願信仰されている。

境内にはうさぎの彫刻が多く見られ、

特に手水屋形にある子授けうさぎ像は参拝者の人気を集めている。

 

社号標  明治25年10月 建立    

 

 

手水舎   貞享元年(1684)9月

 

赤く塗られた 石鳥居

手前から 大正6年7月

2番目 明治41年12月

一番奥 昭和3年11月10日  昭和御大典紀念

 

 

奉納絵馬堂

見えにくいのは省きました

 

 

 

 

末社

 

 

神楽殿

 

 

 

きれいに並んでいます   うさぎと出会いました

関連記事 ➡ このシンボルはどこ

 

大正 御大典の時と  同じ年

 

 

かわいいですね

 

 

 

 

 

本殿前の うさぎ

 

 

 

手水屋形

ウサギの絵馬で埋め尽くされています

 

 

 

 

御旅所  社号標は 大正6年10月 建立

 

雨神社 末社の1つ。鹿ケ谷山中にあった如意寺の鎮守として祀られていたもので

大正6年(1917)4月にこの地に移したといわれ、雨乞い祈願の信仰がある。

 

石鳥居は 大正5年10月建立

 

 

西鳥居

 

西鳥居 境内から見る

 

これらは同じ時期に整備されたようです

 

 関連記事 ➡  関連0008  御大典記念のあるところ  


平安宮001  朝堂院跡  大極殿がよみがえった

2015年07月29日 00時22分20秒 | 平安宮

 朝堂院とは大内裏の正庁で,即位等の国家的儀礼や諸政を行う場であった。

大極殿と14棟の殿舎から構成されていた

朱雀門の正面,内裏の南西に位置する。

応天門の変(866)で創建後初めて炎上し,その後も再三の被災で修復再建が繰り返されたが,

安元3(1177)年の大火で焼失して以降,再建されなかった

 

 西向き

 

北向き

 

 

平安宮朝堂院跡

朝堂院は八省院とも呼ばれ、天皇の即位や外国使節の謁見などさまざまな儀礼や国事の行われるところで、朝政の中心の場であった。宮域の正面の朱雀門を入った所に位置し、北は中和院、西は豊楽院、東は太政官や民部省などの官衙に接していた。

その規模は、東西約60(180)南北約150(450)で、全体が回廊で囲まれていた。正面には応天門があり、両翼に栖鳳・翔鸞の二楼が建ち、応天門を入ると左右に朝集堂があった。さらに会昌門を入ると、大礼の際に諸司宮人の列した十二堂が建ち並び、正面の一段高い龍尾壇の上には左右に蒼龍・白虎の二楼を従えて、朝堂院の正殿である大極殿がその威容を誇っていた。東西11間・南北4間の規模を有する大極殿は、緑彩の瓦で葺かれた大屋根の下に朱塗りの柱の並ぶ華やかな殿堂であった。

朝堂院は、平安京造都開始の翌年の延暦14(795)にはまず大極殿が造営され、次々に整備されていった。その後数度の火災に会いながらもそのたびに再建されてきたが、安元3(1177)の大火で全焼し、以後再び建てられることはなかった。

現在のこの地は、ほぼ大極殿の西端ないしその西側の回廊付近にあたり、昭和50年に平安博物館が発掘調査を行った。後世の攪乱が著しく、遺構を確認することはできなかったが、大極殿に関係すると思われる多量の瓦類や緑彩の鵄尾(しび)の破片などが出土した。 平安博物館

 

 

 

平安宮と 現代を 地図で重ねると  赤丸が 石碑のある所になります

 

 

大極殿は 平安神宮に 5/8の大きさで復元されています

この建物が 1200年前にあったということです

 

 関連記事 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所

 

 

  


白河院・法勝寺 址・・・・平安時代

2015年07月28日 07時35分21秒 | 平安京

白河院並びに法勝寺跡

白河院はもと藤原良房の別荘 白河別業であり、藤原氏北家によって代々受け継がれてきたが、

藤原師実(もろざね)の時、白河天皇(1053~1129年)に献上され、

承保2年(1075年)白河天皇によってこの地に法勝寺が建立された。

法勝寺は尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺とともに六勝寺と総称された寺の一つで、

東は岡崎道より300メートル東、西は岡崎道、

南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50メートル南に囲まれた広大な寺域を有し、

五大堂・八角堂・常行堂などの諸堂が立ち並んでいた。

中でも、池の中島に建つ「八角九重塔」は高さ約80メートルの壮大な塔であったといわれている

文治元年(1185年)の大地震により、九重塔以外の諸堂の大半が倒壊し、

承元2年(1208年)には九重塔も落雷により焼失したが、

この時は栄西禅師が大勧進となって一部再建した。

しかし、康永元年(1342年)の火災により残る堂舎も焼失し、

その後、覚威和尚によって一部再建されたが、衰退の一途を辿り、やがて廃寺となった。

 

京都市指定名勝  白河院庭園

 

 

 

 

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内裏 と 大内裏  平安時代  歩いてみませんか

2015年07月27日 15時09分10秒 | 平安宮

内裏(だいり)と大内裏(だいだいり)

 

 内裏とは,天皇が住み,儀式や執務などを行う宮殿のことで,

禁中・禁裏・御所などともいいます。

平安宮内裏は延暦年間(782~806)に造営されました。

内裏の周囲には朝堂院(ちょうどういん)・豊楽院(ぶらくいん)や

二官八省をはじめとした官庁が並び,

諸官庁のまわりは大垣(築地)で囲まれていました。

その囲まれた区域を大内裏あるいは平安宮と呼んでいます。

 

平安時代の内裏大内裏がどこにあったかは判明しています

グリーンは現在の道

 

 

左下(南西角) ➡ 朱雀門  道順1

朱雀門  ➡  右下(南東角)  道順2

         ゴールが二条城の中なので 途中省略

右下(南東角) ➡ 右上 (北東角) 道順3

 

右上(北東角) ➡ 左上(北西角)  道順4

左上(北西角) ➡ 左下(南西角)  道順5

 

平安宮を歩いて回れば 体感出来るのではないでしょうか

今は暑いのでやめといた方がいいです

 気候が歩くのに適するようになれば 歩いてみたいと思っています

   


琵琶湖疏水の功労者  北垣国道

2015年07月27日 12時08分27秒 | まち歩き

第3代 京都府知事 北垣国道 銅像

北垣知事の銅像は、琵琶湖疏水の建設のために尽力された功績をたたえて、

市参議会の議決により明治35年8月に建立されましたが、

第2次世界大戦中の金属供出のため撤去され、台座だけが残っていました。

このたび、琵琶湖疏水春光100周年記念事業の1つとして、

その台座を使用して再建しました。台座に刻まれている碑文は、左のとおりです。

(原文のまま) 平成2年 京都市

田辺朔郎に委嘱する(当時23歳)

 

北垣国道(1836年~1916年)1881年~1892年の在任中に、

東京遷都による京都再生のため琵琶湖疏水を計画し

 広く市民にその有用性を説いて1890年の完成させた。

発電、運河、灌漑、飲料水、防火、工業などその水利は効用はきわめて大きく

感謝の意をこめて1902年この地に知事の像が建立された。

しかし、第2次世界大戦中に供出により失われたため

琵琶湖疏水100周年と京都桂ライオンズクラブ結成25周年記念を期し再建された。

 

近くにある 石柱 これは 何のためにあるのか 不明

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妙伝寺  関西の身延山

2015年07月27日 10時59分42秒 | 寺院

日蓮宗勝劣派 本山

文明9年(1477年) 日意上人が甲州身延の参詣が不便とのことから

京都に創建した。その後宝永の大火後、現在の地に移った

境内には 日蓮の遺骨を納めた廟堂と塔頭5院がある

 

俳人 蒼虬(そうきゅう)の墓 がある 

天保13年(1842年)亡くなる 83歳

 

 

寺号標  昭和9年10月建立

 

維新七卿 四條隆謌 卿 の墓

 

本堂

 

 

扁額は 「関西身延」 

 

 

 

 

 

 

 

廟堂

 

  

 

 

ethelvine  の意味は何でしょう

 

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蒲生君平・小沢蘆庵  石碑

2015年07月27日 03時49分33秒 | 石碑

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蒲生君平先生仮寓御趾

小沢蘆庵宅址

蒲生君平(1768~1813)は下野宇都宮出身の尊皇論者である。

水戸藩士藤田幽谷(1774~1826、藤田東湖の父)に感化を受けて,

寛政8(1796)年初めて上洛し,天皇陵を調査した。

その後,水戸へ赴くが,同12年再び入洛して

調査をすすめ『山陵誌』を完成させた。

在京中は,歌人小沢蘆庵(1723~1801)のもとに寄宿していた。

この石標は,蒲生君平が仮寓した蘆庵邸跡を示すものである。

 

紀元二千六百年紀元節ノ日建之  神戸参陵会

 

 

歌人小沢蘆庵(1723~1801)は,大坂生まれ。

上洛して鷹司家に出仕した。

和歌を冷泉為村(1712~74)に学ぶが破門される。

香川景樹(1768~1843)らを指導し,

澄月(1714~98),伴蒿蹊(1733~1806),慈延(1748~1805)

とともに京都歌壇の四天王と称された。

京都ではたびたび居を移したが,晩年は岡崎で過ごした。

この石標はその邸宅跡を示すものである。

 

大正六年三月建之   京都市教育会

藤田幽谷      蒲生君平

      

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聞名寺  光孝天皇ゆかりの寺・明眼地蔵  

2015年07月26日 00時09分32秒 | 寺院

時宗  京都市左京区北門前町485

光孝天皇 ゆかりの寺

弘安2年(1279年) 一遍上人によって再興される。 

宝永の大火で類焼し 現在の地に移った。

本堂には、阿弥陀如来像、光孝天皇の位牌を安置する

関連記事 ➡ 光孝天皇陵道標1

光孝天皇陵 道標2

 

 

 

光孝天皇塔  7重の塔 

光孝天皇は盲人を哀れみ、

下京の左女牛(さめうじ)に収容施設をつくり保護した。

盲人に官を下賜して座頭と称し、

検校・匂当の官に任ずるなど盲人の庇護にあたったと伝わる。

 

明眼地蔵は「あけ眼地蔵」ともいい、

光孝天皇ゆかりの地蔵尊とされています。

寺伝によると、天皇が時康親王と呼ばれていた頃、

お眼を患い、平癒祈願のために慈覚大師に勅して造らせたといわれる。

いまも、毎月24日の厨子開帳には多くの人々とが参拝に訪れる

関連記事 ➡ 洛陽48地蔵尊 他

 

 

阿弥陀石仏  境内墓地入口にある 

上京区の石像寺の阿弥陀三尊石仏と同系の石仏

 

香川家の墓 歌人 香川景樹夫妻の墓をはじめ 香川家一族の墓がある

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