アートプラス京めぐり

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得長寿院址  平安時代

2015年07月25日 20時52分25秒 | 石碑

得長寿院は鳥羽上皇(1103~56)御願寺の一つ。

平忠盛(1096~1153)が造営した観音堂

には十一面観音や等身聖観音千体が安置されており,

現存する蓮華王院(三十三間堂)と同規模の建築であったといわれる。

この石標は得長寿院観音堂跡

 

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要法寺  歴史は古い

2015年07月25日 12時55分59秒 | 寺院

日蓮本宗  京都市左京区法皇寺町448

 

 

昭和の御大典の時の建立

 

 

反対側からみた門

 日蓮本宗の本山として歴史は古い

正和4年(1315年) 日尊上人 上行院と称したのが始まり 開創。 

日尊の弟子 日大は住本寺を建立。

 

天文5年(1536年)ま法乱に堺へ難を避けた。

 

天文11年(1542年) 帰洛し上行・住本を合わせて

綾小路堀川に再建。名も要法寺と改めた。以来寺は隆盛になる。

天正年間(1573~1592年)に秀吉の命により、

二条寺町に移り、宝暦5年(1755年)の大火に類焼して、現在の地に移った。

わが国の印刷史上 銅活字で開板した、

いわゆる、「要法寺版」を有する

 

塔頭・本地院

鐘楼

方丈

薬医門

本堂

 

本堂の扁額

 

 

塔頭・妙種院

 

塔頭・實成院

 

塔頭・法性院

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満足稲荷神社  秀吉ゆかりの神社

2015年07月25日 00時07分03秒 | 神社

文禄年間(1592年~1596年)、豊臣秀吉

文禄征韓にあたって稲荷の神に戦勝を祈ったところ、

霊験著しかったので、伏見城内に祀ったのが起こりと伝わる。

その後 元禄年間(1688~1704年)に徳川将軍綱吉(生母は桂昌院)

によって現在の地に移され、法皇寺の鎮守社となった。

法皇寺は南禅寺に明治11年(1878年)に転居したが、

神社だけが残った。

社号標は昭和5年3月建立  石鳥居は大正2年11月建立

 

南からが表参道  第2鳥居 と 拝殿 その奥に 本殿

 

奉納燈籠  年月は昭和3年10月 昭和の御大典の年です

 

神馬

昭和の御大典の時に記念事業として当社が大改修されたが、

その時青銅の神馬も奉納された、

昭和18年戦時中に戦時供出され撤収された。

そして昭和43年(明治からちょうど100年)に復元建立された。

 

手水舎

万延元年(1860年) 庚申 4月

 

平成 御大典 (平成2年 1990年)

 

神庫

 

拝殿

 

石鳥居は 昭和3年10月建立

 

 

明治34年5月 建立

 

神木のもちの木

 

 

 

本殿

絵馬

 

 

 

奉納額

 

 

末社

 

西門

社号標  昭和2年9月 建立  山田 得多 書

石鳥居 昭和3年5月

 

以前にはここに 鳥居でもあったのか

 

風化かが進んで 何の動物かわかりにくい

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本妙寺  赤穂義士ゆかりの寺

2015年07月24日 09時53分49秒 | 寺院

天正2年(1574年) 日典上人によって創建された。  日蓮宗 妙覚寺派。

 

 

 

 

 鬼子母善神

 

 

 

大正7年建立   南嶺先生墓

 

境内墓地に 赤穂浪士

吉田忠左衛門吉田沢右衛門貝賀弥左衛門の遺髪、

弥左衛門の おさんの4人を合した墓がある。

この墓は、宝永元年(1704年)錦屋利兵衛によって建立された。

彼は歌舞伎芝居「忠臣蔵」の天野屋利兵衛のモデルといわれ、

貝賀が江戸へ行くときその妻子を託されたと伝わる。

彼が義士と交わした書簡が寺宝として所蔵されている。

境内の義士会館には47士の像が安置されている。

 

多田南嶺の墓がある。1750年53歳で亡くなる 

多くの浮世草子を執筆した

 

本堂

 

本堂の扁額

 

 

石碑

矢ツ車 留吉 碑

明治29年3月3日 建立

 

 

会館でしょうか

鐘楼

 

墓がある  横山清暉 画家 1864年 73歳で亡くなる


信行寺  浄土宗  伊藤若冲の天井画

2015年07月24日 06時38分09秒 | 寺院

浄土宗  京都市左京区北門前町472

 

 

伊藤若冲の天井画 「花卉図」  ポターより

 

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                   錦市場 西の入口 画家・伊藤若冲の生家

            海宝寺  伊藤若冲・伊達政宗・大丸百貨店のゆかりの寺


寂光寺  囲碁本因坊の聖地  三宅碑

2015年07月24日 00時31分33秒 | 寺院

顕本法華宗  京都市左京区北門前町469

はじめは、上京区室町出水(京都御所の西)にあったが、

その後 寺町二条に移転し 宝永5年(1708)に今の地に移った

寺町二条から移転

天正の頃、開山日淵上人の弟子に日海(算砂)と囲碁に優れた僧がいて、

塔頭本因坊に住んでいたので、本因坊と呼ばれた。

算砂は信長から名人の名を贈られ、

秀吉からは四石を賜り、棋士の俸禄制を残した。

家康からは将軍家の指南や全国棋士の昇進査定などを行った。

また、毎年3月ごろに、江戸に行き、江戸城で碁を行い、

金銀を賜って帰洛したといわれている。

1623年に64歳で亡くなったが当寺の住職は囲碁に通ずるものであった。

昭和14年(1939)に21世秀哉のとき世襲制から、

試合に勝った実力者が本因坊を襲名することになった。

墓地には本因坊算砂、2世算悦、3世道悦、

4世道策、5世道知の墓がある。

大正12年の建立 京都三宅安兵衛建之

 

 

 

鐘楼  後ろは 本堂

 

本堂の扁額

 

 

 

ムクゲ

 

平成27年7月21日 撮影

関連記事 ➡  本因坊発祥の地

        関連0002  三宅安兵衛の道標

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西方寺  赤穂浪士・小野寺十内等招魂碑

2015年07月23日 13時36分56秒 | 寺院

浄土宗知恩院派    京都市左京区北門前町482

大炊御門家の菩提寺

大炊御門家は関白藤原師実(1042年~1101年)の

第3子経実に始まり、その第4子、左大臣経宗

大炊御門大路(竹屋町通り)の北、富小路の西に

屋敷を構えていたので家名とした。

関連記事か ➡ 大炊御門万里小路殿

 

経宗は藤原信頼とはかって平治の乱を起こしたが、

二条天皇を女装させ御所から脱出した

その後、西方寺と号し 現在の地に三転した。

 

地蔵堂の衣通姫(そとおりひめ)地蔵尊は、

允恭天皇の后衣通姫が7歳のとき、疫病にかかって亡くなったが、

冥土にて生身の地蔵尊を拝し、蘇生することができた。

その報恩のために一体の地蔵尊を造ったのが、本像と伝わる。

古来疫病除け、安産守護の信信仰があり、

洛陽48ケ所地蔵尊、第25番霊場に選ばれている。

 

寺内に 大炊御門家の墓があるが経宗の墓は見当たらない

他に綾小路家五辻家の墓がある

 

赤穂浪士小野寺十内等招魂碑がある

銘には小野寺秀和(十内)・小野寺秀富(幸右衛門)・

岡野包秀(金右衛門)・大高忠雄(源吾)の名がある

十内の母の菩提寺になっているから

十内の妻 丹女が供養塔として建てたものと伝わる

 

また、柴野栗山の墓がある。

寛政の3博士の一人、老中松平定信に登用され、

寛政異学の禁に参画した朱子学の学者 

文化4年(1807)亡くなる 74歳

 

墓地の入口近くに 豊臣秀吉の幼女と伝わる小五輪石塔がある。

本堂にはその位牌がある。

 

 

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大恩寺  

2015年07月23日 08時59分49秒 | 寺院

浄土宗  京都市左京区北門前町479

 

海上隋鷗(うなかみずいおう)の墓所

隋鷗は本名を稲村三伯といい、江戸時代中期の蘭学者

蘭学を研究し、蘭和辞書を編纂する

文化8年(1811年) 54歳で亡くなる

門人に藤林普山、小森桃塢(とうう)らがいる 

 

 

 

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