昔は六神丸の店だった 今は ゲストハウス になっている
「六神丸」そして「亀田利三郎薬舗」 HPより
伝統の家庭薬「六神丸」の元祖 心臓をいたわる動物性漢方薬 カメロクの”六神丸” 六神丸は動物性の漢方薬です。 動悸、息切れ、胸の締付けを 感じたら、おすすめします。亀田家は近江国甲賀郡(滋賀県)の出身。 江戸中期・元禄の頃京都へ出て五条室町に店を構えた。 代々、井筒屋利兵衛の名で、紅商を営んでいたが、のち呉服商に転じた。 六代目利兵衛の長男利三郎が親戚の清水焼の陶工・真清水蔵六と景徳鎮へ渡中したとき上海で病気になり、現地で入手した六神丸でたちまち快癒した。そこで、 この六神丸を日本へ輸入し売り広めようと、雷氏方という処方を学んで帰国した。 当初は、蘇州の雷桐君堂の六神丸を中国雑貨(緞子類など)と輸入して販売していたが、明治26年、六神丸の評判がよいため、呉服商から薬屋へ転業。そして六神丸を輸入すると同時に、国産化の研究に精魂を注いだ。 明治32年、輸入している六神丸に鶏冠石(砒素)が含まれていたため輸入禁止となったのを機に、国産の 赤井筒薬六神丸を販売し今日に至っている
京都市北区平野宮本町95 現在の店の場所
中国での六神丸のルーツについては、雷氏方という処方がいちばん古く、清の時代、康熙〜乾隆帝の頃(今から約300年前)にできたとされているが、はっきりしたことはわかっていない。 日本では、当社の亀田六神丸が、一番古い歴史をもっていると思われる。先々代・亀田利三郎が日清戦争(1894〜95)後、中国へ渡航したとき、六神丸の応用・薬効を知り、日本へ持ち帰った。 明治29年(1896)1月15日に博愛新報第一号付録に、発売本舗・亀田利三郎として虔脩六神丸の広告が出されている。この六神丸は清国から直接輸入していたもので、鶏冠石が含まれ、効能は、肺病や腫物、赤痢病などと書かれている。(現在でも中国の六神丸は消炎鎮痛剤として腫物の薬として使われている。) しかし、明治33年に薬制改革があり、鶏冠石は毒薬に指定されて一般に使用できなくなった。このため、鶏冠石を除いた六神丸が製造された。 大正時代、スペイン風邪が大流行した時、問屋が店の前に並んでできたばかりの六神丸を奪うように持ち帰るほど、よく売れた。 戦争中は、出生する兵士がよく買いにきたという話も伝わっている。 昭和24年の薬事法の制定により、心臓や胃腸への効能が前面に押し出された。 昭和48年、辰砂が水銀製剤ということで使用禁止となり、辰砂のかわりに人参を加えた現在のものが作られた。
錺屋はゲストハウス HPより
錺屋の建物は、大正時代に建築された、モダンな町家です。この場所で江戸時代より続く薬屋さんであったため、 正面の壁には薬の名である「六神丸」そして「亀田利三郎薬舗」という屋号の入った、 古い一枚板の看板が飾られています。 木と白壁の洋室やタイル貼りのキッチンなど、生活の中で手入れされ続けてきた屋内は、 長い時間とその空気をそのまま残し、 縁側からゆったりとした中庭の木や草花を眺めるひと時は京都らしくもあり、 時には、街中であることを忘れさせてくれます。また、内装は京町家の伝統と文化を大事にしつつも、どこか西洋の香りも漂う、和洋折衷な、ロマンティックな空間で、 他の宿とはひと味違う、ここにしかない特別な時間が流れています。
前回記事 ➡ 右書き看板31 店衣法安平
本光寺 日蓮宗
伊東甲子太郎外数名殉難跡
安寧自治連合会 油小路町 昭和四十六年十一月 京都市
伊東甲子太郎外数名殉難跡
伊東甲子太郎(1835~67)は常陸国出身の新選組隊士。学問もでき、剣は北辰一刀流の名手であった。近藤勇(1834~68)とともに新選組を結成したが,元治元年(1864)に門弟ら7人を率いて新選組に入隊し参謀として重視された。尊王派であった伊東は次第に隊長の金銅勇と対立するようになり、慶応3年(1867)3月に同志15人とともに新選組を脱退して孝明天皇山御陵衛士と称する別組織をつくり高台寺月真院を屯所とした。その後薩摩藩の援助を受け、盛んに討幕を説いた。しかし,新選組との対立は深く慶応3(1867)年11月18日 近藤勇らは伊東を招いて酒をふるまい酔った伊東をその帰路この地で襲撃され,駆け付けた同志3名も待ち伏せていた新選組数十名の隊士に襲われ共に倒れた。世にこれを油小路七条の変という。
伊東甲子太郎 墓は即成院 泉涌寺山内
即成院の墓石には「常州志筑之人 慶応三丁卯十一月十八日於油小路戦死、年三十二」と刻まれている。その左右には服部武雄(36歳)、毛内監物(33歳)、藤堂平助(24歳)の墓がある。いずれも同日夜、七条油小路に於いて新選組に斬られた人々である。遺骸は壬生墓地に埋葬したが、明治維新後、生き残った衛士達によって即成院に改葬したと伝える。
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芹根水の碑 と 文房四神之碑
また、ここより北にあった木津屋橋は、「月見橋」ともいわれ、ここから東山を眺めると阿弥陀ケ峰と清閑寺山とのあいだからから上る月が、あたかも信州(長野県)の姥捨山の景に似ているといわれ、むかしは月見の名所であった。
芹根水の碑
ここには何が書かれているのか 判読出来ず
芹根水の碑
江戸時代後期 花崗岩(白川石)
芹根水は、むかし洛中七名水の1つに数えられていた。
西本願寺前の堀川は、七条から西南に向かって緩いカーブをなして南流している。
安永9年(1780)の「都名所図会」によれば「芹根水は堀川通木津屋橋の南にあり、近年書家 烏石葛辰 清水に井筒を入れて傍らには芹根水の銘みづから (中略) 書して石面に彫刻す云々」と記し、石の井筒から清水が涌き出して堀川に流れ込むさまを図示している。
江戸時代の著名な書家、烏石葛辰(1700~1779)は葛烏石、烏石山人とも号し、洛中名水の保存と顕彰に努めた。この碑もその代表的な1つであり、惜しくも年銘はないが今から230年前宝暦年間の製作と考えられる。
以来この名水は文人墨客、茶道家、商家一般に永く愛用されたが時移り大正3年(1914)堀川改修に際して濁水混入し井筒も失われ、独り碑のみが護岸中にのこされていた。いま堀川暗渠工事に先立ち、碑を河中より引揚げその保存を図るも、飲水を大切にした古人の心を現代に伝えたい願いにほかならない。
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文房四神之碑
文房四神之碑
江戸時代の書家、烏石葛辰の書と伝えられる葛辰は「芹根水」の書家でもあり、この付近の下魚棚通り西堀川角に居住していたという記録が残されている。文房四神の碑は、南方。朱雀を筆 東方・青龍は硯 西方・白虎を紙 北方・玄武は墨となり、これは筆硯紙墨(ひっけんしぼく)を四神になぞらえて崇敬したものである。この碑は、道祖神社の「書聖天満宮」に建てられていたが、神社の改築に伴い、平成6年7月にここに移設された。
文房四神之碑【篆額】
書契代縄夫降 此宝精爽攸託焉 従枯槁*管赤心上 応朱雀琢磨所至青龍
卞躍文炳将開厥象白 虎自陰顕陽厥神玄武維 茲四神感斯格思秉文
君子其可射思 宝暦三年癸酉歳季秋之月
藤公縄篆岡白駒銘葛辰書 烏石之徒立
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護法堂瓣才天
瓣才天道
扁額には 天女 とあります 石鳥居 大正5年5月の建立 数人の人が訪れていました
手水鉢
赤 朱 が見事でした
黄もよかったです
こちらも いい感じ
こちらも いい感じ
小堂
さらに 進んでいくと
散紅葉
本堂 と 狛犬
狛犬は苔むしていました
こ
本堂 正面から
黄と赤の配合がよかったです なかには 緑も 濃い緑もあります
何度も撮ってしまいました
アングルを変えて
人も入りましたが
池に浮かぶ 祠 鳥居の柱は 八角形です
明治35年2月27日 建立
屋根に草の生えた堂 修理中でしょうか
最後に もう1枚
平成27年11月22日 撮影
たしか 大阪方面から 京都駅に着く直前 南側・進行方向右側 に見えるはずです
京都駅から 大阪方面に行く場合 南側・進行方向左側に見えるはずです