ビルの谷間にあります
駒札
大政所御旅所
ここは、祇園祭(八坂神社の祭礼)の神輿渡御のとき、三基の神輿のうち、大政所(素戔嗚尊)神輿と八王子(八柱御子神)神輿の二基が安置される場所であった。
残る少将井(櫛稲田姫命)神輿は中京区の烏丸竹屋町の御旅所に渡御していたが、天正19年(1591)に豊臣秀吉により、四条寺町にある現在のお旅所に移築・統合された。
円融天皇の時代(969~984)に、この地に住んでいた秦助正が、夢の中で八坂大神の神託を受け、また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛が糸を引いているのを見て、朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となったという。
天文5年(1536)に騒乱のため焼失したが、その後に町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めた。今でも神輿還御の時には神輿が立ち寄り、神職が礼拝する。 京都市
八坂の字が 八阪 になっています 八阪大神
この石が置かれている意味はきっと何かあるのだろう
祠 前回の記事 ➡ 祠下003 祇園祭御旅所・ 冠者殿社 土佐坊昌俊・誓文払い・無言詣
石碑は 駒札の下にあります
下の方の文字が隠れて不明だ
龍池山大雲院
大雲院は天正15年( )・・・・
織田信長・信忠父子の菩提・・・・
うために正親天皇の勅命・・・・
開山貞安上人に御池・・・・
( 二条)を賜り信忠公の・・・
因んで大雲院と号した。・・・
豊臣秀吉は寺地の狭・・・
見て同18年当地に・・・
面目を一新した。・・・
寺運の興隆を・・・
真葛ケ原の勝・・・・・
石碑前回の記事 ➡ 石碑下0028 豊園幼稚園創立百周年記念
豊園小学校の碑
京都市立豊園小学校は 明治2年6月8日進取の気風あふれる町衆の力によりわが国最初の小学校のひとつである下京第十番組少雨学校としてこの地に開校 以来百二十有余年にわたり本市小学校教育の範となる豊園教育を推進 八千余名の卒業生を世に送り出した 平成四年三月 21世紀への人づくりを希求する学区民の総意に基づき他の4校とともに新統合校 洛央 にその使命を引継ぎ輝かしい歴史に幕を閉じた 京都市教育委員会
石碑の前回記事 ➡ 石碑右0025 千代の古道 嵯峨野で
盲人總取締所 當道職屋敷址
盲人總取締所 當道職屋敷址 文字の摩耗があり全体を判読できません
室町時代初期平家琵琶・・・剣校別当・当座頭の・・・など目の不自由な人々を保護支配するための制度の創始者・明・・屋敷であった・・聚庵は職屋敷と呼ばれ・・・験裁判等がおこなわれていた。明・・制度の廃止により職・・・
別の資料によると
琵琶法師明石覚一(?~1371)は,平曲家の等級を整備し,当道座と呼ばれる盲人組織を確立した。覚一の邸宅を職屋敷と呼び,盲人の技芸試験・裁判・売官などが行われた。のち当道座は江戸幕府から保護を受け,全国盲人支配機関となるが,明治4(1871)年当道制度が廃止され,同屋敷も廃された。
昭和二十三年十月 京都府立盲学校同窓会 建立 京都当道音楽会
関連記事 ➡ 八橋検校 道場の跡
石碑 前回の記事 ➡ 石碑下0026 豊園小学校の碑
大行寺
長谷山北ノ院と号する真宗佛光寺派の寺である。
寺伝によれば、文政4年(1821)学頭信暁僧都の創建と伝え、当初、佛光寺高倉の月見御殿(豊臣秀吉が月を鑑賞した御殿)跡に建てられたが、嘉永6年(1853)当地に移された。以後、度々の災火により焼失し、現在の本堂は昭和4年に再建されたものである。堂内に安置する本尊阿弥陀如来立像(重要文化財)は、寄木造で玉眼入の来迎の弥陀で、足下に「巧匠法眼快慶」の銘が記されている。境内にあ仏足跡(石)は、足指の指先にそれぞれ「卍」印の入った特異なもので、大行寺型と呼ばれ、現在4系統ある仏足跡の一系統を代表するものである。この仏足跡は、信暁により、安政3年(1856)に建てられたが、災火のため粉砕し、昭和62年に原図を基に復元されたものである。 京都市
寺院 前回の記事 ➡ 寺院上0046 西正寺 浄土宗