人の心というのは本当に不思議なものです。
幸せな時にはパーッと無限に天地の彼方まで広がりますし、悲しい時にはヒュルルルと針の穴ほど小さくなります。
その時その時の気分によって自由自在この上なしです。
このような時、心とともに、或る感覚的な実体があります。
別な表現をすると「氣」と言ったり「エネルギー」と言ったりもします。
それは、天地に満ちているご神気と同じものです。
天地宇宙のエネルギーと同じものが、私たちにも充ち満ちています。
全宇宙に詰まり詰まっているように、私たちにも詰まり詰まっている...
ということは、その間に壁がなければ、すべては一つの海となります。
そして全てが同じ素成ですので、一瞬にして隅々にまでシュッと通ります。
イメージとしては、分子の球体が横一列にピッタリくっついて並んでいるとすると、一番右端の情報が瞬間的に
一番左端の分子に伝わるような感じです。
これは、右から左へ一つ一つ順番に伝わっていくのではなく、全てが同質であるために全てに同時に伝わっている
状態です。
そうした球体が横一列ではなく、全方向360°にビッチリ詰まっているのがこの天地宇宙です。
そして、実際はそうした分子の壁すらなく、全てが一体となっています。
そこには自他の別がありませんので、瞬時に共有されるということです。
つまり、私たちも天地に溶け合い、同じ一つの海となった瞬間、時間や距離に関係なく、天地の隅々までが
この全細胞にスッと通った状態になるということです。
そうなると、感じることと分かることが同時となります。
それが天地宇宙、そして私たちの本来の姿です。
早い話、肉体を離れれば、誰もがそのようになります。
他人(人間に限らず)の心が分かる。というより、分け隔てなく自分の心と一つとなります。
肉体のままでも、心に壁さえ無ければ同じような状態となります。
心が開放されている存在は、皆そうであるということです。
いわゆるテレパシーというのは、相手の心をキャッチしたり読み取ったりするものではなく、自他の別なくただ一つに
なった状態であるわけです。
少し脱線してしまいますが、そのようなわけですから、神社を前にして自分の住所や名前など浮かべる必要など
全くないということが分かります。
さらに言えば、手を合わせるよりも前、それこそ家を出るよりもさらに前の、最初に参拝を思い立った瞬間から
あちらからすれば、すでに心一つになっているということです。
手を合わせる寸前になって慌てて心つくろって畏まっても、何でもお見通しの神様はプッと吹き出していることでしょう。
でも、それはそれでイイのだと私は思っています。
それも含めて神様は優しく見守って下さっていますし、そんな子供のような必死さこそが私たちの素の姿だからです。
お澄ましを気取って、つれなくクールに繕うほうがよっぽど可愛くありません。
ただ、お社に手を合わせてから必死にあれこれ唱えたり、願い事にしがみついたりすることだけは、やめたほうが
いいと思います。
己の壁を余計に分厚くしていくことにしかなりませんし、そうした我利我利の暗闇であっても神様の方では分け隔て
なく一つになってしまいます。
大変に悲しいお気持ちにさせてしまうだけで、どちらも救われません。
とはいえ、なにも無理して明るく手を合わせろと言っているわけではありません。
苦しかったり、悲しかったり、その時の自分に正直になって、ただ手を合わせるだけです。
手を合わせる前から、神様は全て分かって下さっていますからガンガンとアピールする必要はないということです。
さて、話を元に戻したいと思います。
私たちは肉体や現実に囲まれて日々の我利我利に埋没していると、脳(理屈)優位な状態が習慣化してしまい、
針の穴ほどにギューッと押し潰された小さな感覚の中でジタバタすることになります。
自分の心とエネルギー(氣)がこの頭や胸に小さく縮こまった状態で日々を送っていると、自分の外界は全てが
「自分以外」となります。
つまり、縮こまった「自分」が、数多の「自分以外」に囲まれた状態ということです。
それは朝の通勤ラッシュに例えられるかもしれません。
ラッシュの人混みに揉まれてキュウキュウになっている心が、日常生活で続いているわけです。
その満員電車の中でたまたま知り合いに会ったり、ちょっとした楽しみに遭遇した時だけ、ホッと心が緩んだり
アドレナリンが出て元気になったりしますが、それ以外の時は、いつ終わるとも知れぬラッシュの中で日に日に
弱り果てていきます。
そのように、内(自分)と外(自分以外)を完全に分断させてしまうと、生きづらくなってしまいます。
何故ならば、それは天地宇宙や私たちの本来の姿ではないからです。
先ほどの話に戻りますが、距離に関係なく果ての果てまでをも瞬時に感じる感覚というのは、自分の体に置き換えると、
指先の感覚を瞬間的に全身で共有するあの感覚と同じようなものだと言えるかもしれません。
身近すぎて分かりにくいところですが、実際それも距離など関係なく同時にやってきています。
神経とかそういうものとは違う、私たちを包むものがあるわけです。
指先までが自分の一部となっているからこそ、自分全体で感じるような状態になるのです。
「自分の指なんだからそんなの当たり前だ」と言ってしまえばそれまでなのですが、その当たり前であることが、
他のあらゆることにも当てはまります。
つまりは、天地宇宙と私たちの間でも全く同じであるということです。
宇宙全体を我がこととして感じる...
「私たちは宇宙の一部なんだからそんなの当たり前だ」
断絶がなく全てが溶け合っていますと、果ての果てのことも自分自身として感じられます。
騙されたと思って、ためしにこれまでの思い込みを捨てて、宇宙全体が我がことであるのは「そんなの当たり前すぎる
だろう」と思ってみて下さい。
肩の重荷が降りたように、天地宇宙の広がりが細胞の底へとストンと落ちるかもしれません。
本来あたりまえであることを当たり前でなくしてしまっているのは、私たち自身です。
余計な心や意識が介在すると、そのオープンな状態がキュッと閉められてしまいます。
壁が出来た瞬間、断絶が生じてしまいます。
裏を返せば、そのような壁を作れるほどに、私たちの心は強大で自由自在なエネルギーであるということです。
先ほどの喩えで言えば、私たちは自分の指先までの全てが自分であると分かっている(=信じきっている)ため、
どんなに疲れていても四肢が自分以外のものだと思うようなことはありません。
しかし、もし「自分の体はこの肩までだ」と信じたならば、肩から先の腕や手は何も感じられなくなるでしょう。
何を訳のわからないことをと思われるかもしれませんが、私たちはそれと同じようなことを今この瞬間やっている
わけです。
自分の外界の感覚がブツブツと切れまくっているのは、つまりはそういうことです。
もともと私たちは、天地宇宙と一つに溶け合っている状態が当たり前だったのです。
心というのが難しいのは、わずかでも我欲が生じると瞬時に反応してしまうところです。
我欲というのは、心に伴うエネルギーや氣を固めたり縮めたり鈍化させてしまいます。
「よし、天地と溶け合おう」という気持ちが出てしまうと、一見すれば前向きでありながら、その我心こそがそれを
阻害する張本人になってしまいます。
先ほどの喩えを振り返っても、私たちは、もとよりこの身体の指先まで私たち自身であるわけです。
「よし、一つに溶け合おう」などと思ったりする必要もありません。
溶け合っているというのは、意識して能動的に混ぜて溶け合うというものではなく、単に元の状態に過ぎません。
異なる状態に何かを上書きをして元に戻るということはありません。
「元の状態に戻る」というのは、今の状態をリセットすることです。
表現を変えれば、今の状態を手放す、あるいは諦めるとも言えます。
とはいえ、後ろ髪を引かれているうちは、たとえ一時的にやめられたとしても、不完全燃焼の思いが最後の1%の
塊となって、何時までもくすぶり続けてしまいます。
完全に諦めるためには、懲りずに何度も痛い目にあって、疲れ果てるまでトコトンやり切ることが必要であるわけです。
それが何度も生まれ変わりを繰り返す理由の一つでもあります。
その意味では、我欲や我執というのは、忌み嫌ったり毛嫌いするものではないということになります。
それらに引っ張られるうちは、トコトンそれを味わい尽くすしかありません。
これもまた「諦めるしかない」「割り切るしか無い」ということです。
但し、それをそうと分かった上でやるのと、そうでないのとでは、天地の違いが出てきます。
分かった上で諦め切っていれば、泥水が少しずつ清まるようにして囚われが薄れていくでしょう。
もともとは当たり前の自然な状態だったものが、不自然な状態になるには、意識的な努力をしなくてはいけません。
これは、自分の指先に当てはめればすぐに分かります。
つまり「この指は自分自身ではない」と意識を使った時にだけ、当たり前なことが当たり前ではなくなります。
それを当たり前な状態に戻すには、「この指は自分自身だ」という新たな意識を上書きするのではなく、ただ
最初の意識を手放すだけです。
言ってしまえば、知らず知らずに私たちは、今この瞬間も、そうした分断のための努力を続けていることになります。
まずはそれに気がつくことが第一歩です。
今のこの感覚が当たり前なのではなく、これは不自然なのだと。
それを知ることで、左右に揺れ動く場面がさらに増えてしまうかもしれません。
右往左往したり、一歩進んで二歩下がったり、ダラダラと我欲に引かれて煮え切らなかったりする自分に苛立つ
かもしれません。
でも、それこそは必要な過程であるわけです。
何度も生まれ変わりながら、我執に負けて同じような生き方を繰り返し、それでもほんの少しずつ進んで生きます。
それを劣等生と見て、たった一回の人生で挽回しようとするのは、ラクしようとし過ぎかもしれません。
何度生まれ変わっても同じことを繰り返してるくらいなのですから、一回の人生の中で懲りずに何度か同じことを
繰り返したところで、気にすることではないではないですか。
何度だって繰り返せばいいのです。
私たちの魂というのは、それこそ永遠です。
たった一回で三段跳びに上がろうなどと焦る必要はありません。
気負うことなく、そのくらいのいい加減さで気楽にやった方が、かえってスイスイと行くものです。
何ごとも、眉間にシワ寄せて我利我利やるより、楽しみながらやっていった方が、結果的に三段跳びになるという
ものです。
心に一切の迷いなく自然に手を放すためには、優等生的に分かったフリをするのではなく、不恰好だろうと疲れる果てる
までギューッと力強く握り締めることが素への道となります。
気になってしまう時は、見て見ぬフリをするよりも、面と向かった方が素直です。
そのことで自分を非難する必要は全くありません。
それをやるために今回もこの世に生まれてきているわけです。
甘い言葉というのは、未来永劫、無くなることはありません。
しかし自分の心に正直になって、しっかり向き合っていくうちに、いつしかそれは雑音となり、そのうちその音も
全く気にならなくなっていくでしょう。
(つづく)
幸せな時にはパーッと無限に天地の彼方まで広がりますし、悲しい時にはヒュルルルと針の穴ほど小さくなります。
その時その時の気分によって自由自在この上なしです。
このような時、心とともに、或る感覚的な実体があります。
別な表現をすると「氣」と言ったり「エネルギー」と言ったりもします。
それは、天地に満ちているご神気と同じものです。
天地宇宙のエネルギーと同じものが、私たちにも充ち満ちています。
全宇宙に詰まり詰まっているように、私たちにも詰まり詰まっている...
ということは、その間に壁がなければ、すべては一つの海となります。
そして全てが同じ素成ですので、一瞬にして隅々にまでシュッと通ります。
イメージとしては、分子の球体が横一列にピッタリくっついて並んでいるとすると、一番右端の情報が瞬間的に
一番左端の分子に伝わるような感じです。
これは、右から左へ一つ一つ順番に伝わっていくのではなく、全てが同質であるために全てに同時に伝わっている
状態です。
そうした球体が横一列ではなく、全方向360°にビッチリ詰まっているのがこの天地宇宙です。
そして、実際はそうした分子の壁すらなく、全てが一体となっています。
そこには自他の別がありませんので、瞬時に共有されるということです。
つまり、私たちも天地に溶け合い、同じ一つの海となった瞬間、時間や距離に関係なく、天地の隅々までが
この全細胞にスッと通った状態になるということです。
そうなると、感じることと分かることが同時となります。
それが天地宇宙、そして私たちの本来の姿です。
早い話、肉体を離れれば、誰もがそのようになります。
他人(人間に限らず)の心が分かる。というより、分け隔てなく自分の心と一つとなります。
肉体のままでも、心に壁さえ無ければ同じような状態となります。
心が開放されている存在は、皆そうであるということです。
いわゆるテレパシーというのは、相手の心をキャッチしたり読み取ったりするものではなく、自他の別なくただ一つに
なった状態であるわけです。
少し脱線してしまいますが、そのようなわけですから、神社を前にして自分の住所や名前など浮かべる必要など
全くないということが分かります。
さらに言えば、手を合わせるよりも前、それこそ家を出るよりもさらに前の、最初に参拝を思い立った瞬間から
あちらからすれば、すでに心一つになっているということです。
手を合わせる寸前になって慌てて心つくろって畏まっても、何でもお見通しの神様はプッと吹き出していることでしょう。
でも、それはそれでイイのだと私は思っています。
それも含めて神様は優しく見守って下さっていますし、そんな子供のような必死さこそが私たちの素の姿だからです。
お澄ましを気取って、つれなくクールに繕うほうがよっぽど可愛くありません。
ただ、お社に手を合わせてから必死にあれこれ唱えたり、願い事にしがみついたりすることだけは、やめたほうが
いいと思います。
己の壁を余計に分厚くしていくことにしかなりませんし、そうした我利我利の暗闇であっても神様の方では分け隔て
なく一つになってしまいます。
大変に悲しいお気持ちにさせてしまうだけで、どちらも救われません。
とはいえ、なにも無理して明るく手を合わせろと言っているわけではありません。
苦しかったり、悲しかったり、その時の自分に正直になって、ただ手を合わせるだけです。
手を合わせる前から、神様は全て分かって下さっていますからガンガンとアピールする必要はないということです。
さて、話を元に戻したいと思います。
私たちは肉体や現実に囲まれて日々の我利我利に埋没していると、脳(理屈)優位な状態が習慣化してしまい、
針の穴ほどにギューッと押し潰された小さな感覚の中でジタバタすることになります。
自分の心とエネルギー(氣)がこの頭や胸に小さく縮こまった状態で日々を送っていると、自分の外界は全てが
「自分以外」となります。
つまり、縮こまった「自分」が、数多の「自分以外」に囲まれた状態ということです。
それは朝の通勤ラッシュに例えられるかもしれません。
ラッシュの人混みに揉まれてキュウキュウになっている心が、日常生活で続いているわけです。
その満員電車の中でたまたま知り合いに会ったり、ちょっとした楽しみに遭遇した時だけ、ホッと心が緩んだり
アドレナリンが出て元気になったりしますが、それ以外の時は、いつ終わるとも知れぬラッシュの中で日に日に
弱り果てていきます。
そのように、内(自分)と外(自分以外)を完全に分断させてしまうと、生きづらくなってしまいます。
何故ならば、それは天地宇宙や私たちの本来の姿ではないからです。
先ほどの話に戻りますが、距離に関係なく果ての果てまでをも瞬時に感じる感覚というのは、自分の体に置き換えると、
指先の感覚を瞬間的に全身で共有するあの感覚と同じようなものだと言えるかもしれません。
身近すぎて分かりにくいところですが、実際それも距離など関係なく同時にやってきています。
神経とかそういうものとは違う、私たちを包むものがあるわけです。
指先までが自分の一部となっているからこそ、自分全体で感じるような状態になるのです。
「自分の指なんだからそんなの当たり前だ」と言ってしまえばそれまでなのですが、その当たり前であることが、
他のあらゆることにも当てはまります。
つまりは、天地宇宙と私たちの間でも全く同じであるということです。
宇宙全体を我がこととして感じる...
「私たちは宇宙の一部なんだからそんなの当たり前だ」
断絶がなく全てが溶け合っていますと、果ての果てのことも自分自身として感じられます。
騙されたと思って、ためしにこれまでの思い込みを捨てて、宇宙全体が我がことであるのは「そんなの当たり前すぎる
だろう」と思ってみて下さい。
肩の重荷が降りたように、天地宇宙の広がりが細胞の底へとストンと落ちるかもしれません。
本来あたりまえであることを当たり前でなくしてしまっているのは、私たち自身です。
余計な心や意識が介在すると、そのオープンな状態がキュッと閉められてしまいます。
壁が出来た瞬間、断絶が生じてしまいます。
裏を返せば、そのような壁を作れるほどに、私たちの心は強大で自由自在なエネルギーであるということです。
先ほどの喩えで言えば、私たちは自分の指先までの全てが自分であると分かっている(=信じきっている)ため、
どんなに疲れていても四肢が自分以外のものだと思うようなことはありません。
しかし、もし「自分の体はこの肩までだ」と信じたならば、肩から先の腕や手は何も感じられなくなるでしょう。
何を訳のわからないことをと思われるかもしれませんが、私たちはそれと同じようなことを今この瞬間やっている
わけです。
自分の外界の感覚がブツブツと切れまくっているのは、つまりはそういうことです。
もともと私たちは、天地宇宙と一つに溶け合っている状態が当たり前だったのです。
心というのが難しいのは、わずかでも我欲が生じると瞬時に反応してしまうところです。
我欲というのは、心に伴うエネルギーや氣を固めたり縮めたり鈍化させてしまいます。
「よし、天地と溶け合おう」という気持ちが出てしまうと、一見すれば前向きでありながら、その我心こそがそれを
阻害する張本人になってしまいます。
先ほどの喩えを振り返っても、私たちは、もとよりこの身体の指先まで私たち自身であるわけです。
「よし、一つに溶け合おう」などと思ったりする必要もありません。
溶け合っているというのは、意識して能動的に混ぜて溶け合うというものではなく、単に元の状態に過ぎません。
異なる状態に何かを上書きをして元に戻るということはありません。
「元の状態に戻る」というのは、今の状態をリセットすることです。
表現を変えれば、今の状態を手放す、あるいは諦めるとも言えます。
とはいえ、後ろ髪を引かれているうちは、たとえ一時的にやめられたとしても、不完全燃焼の思いが最後の1%の
塊となって、何時までもくすぶり続けてしまいます。
完全に諦めるためには、懲りずに何度も痛い目にあって、疲れ果てるまでトコトンやり切ることが必要であるわけです。
それが何度も生まれ変わりを繰り返す理由の一つでもあります。
その意味では、我欲や我執というのは、忌み嫌ったり毛嫌いするものではないということになります。
それらに引っ張られるうちは、トコトンそれを味わい尽くすしかありません。
これもまた「諦めるしかない」「割り切るしか無い」ということです。
但し、それをそうと分かった上でやるのと、そうでないのとでは、天地の違いが出てきます。
分かった上で諦め切っていれば、泥水が少しずつ清まるようにして囚われが薄れていくでしょう。
もともとは当たり前の自然な状態だったものが、不自然な状態になるには、意識的な努力をしなくてはいけません。
これは、自分の指先に当てはめればすぐに分かります。
つまり「この指は自分自身ではない」と意識を使った時にだけ、当たり前なことが当たり前ではなくなります。
それを当たり前な状態に戻すには、「この指は自分自身だ」という新たな意識を上書きするのではなく、ただ
最初の意識を手放すだけです。
言ってしまえば、知らず知らずに私たちは、今この瞬間も、そうした分断のための努力を続けていることになります。
まずはそれに気がつくことが第一歩です。
今のこの感覚が当たり前なのではなく、これは不自然なのだと。
それを知ることで、左右に揺れ動く場面がさらに増えてしまうかもしれません。
右往左往したり、一歩進んで二歩下がったり、ダラダラと我欲に引かれて煮え切らなかったりする自分に苛立つ
かもしれません。
でも、それこそは必要な過程であるわけです。
何度も生まれ変わりながら、我執に負けて同じような生き方を繰り返し、それでもほんの少しずつ進んで生きます。
それを劣等生と見て、たった一回の人生で挽回しようとするのは、ラクしようとし過ぎかもしれません。
何度生まれ変わっても同じことを繰り返してるくらいなのですから、一回の人生の中で懲りずに何度か同じことを
繰り返したところで、気にすることではないではないですか。
何度だって繰り返せばいいのです。
私たちの魂というのは、それこそ永遠です。
たった一回で三段跳びに上がろうなどと焦る必要はありません。
気負うことなく、そのくらいのいい加減さで気楽にやった方が、かえってスイスイと行くものです。
何ごとも、眉間にシワ寄せて我利我利やるより、楽しみながらやっていった方が、結果的に三段跳びになるという
ものです。
心に一切の迷いなく自然に手を放すためには、優等生的に分かったフリをするのではなく、不恰好だろうと疲れる果てる
までギューッと力強く握り締めることが素への道となります。
気になってしまう時は、見て見ぬフリをするよりも、面と向かった方が素直です。
そのことで自分を非難する必要は全くありません。
それをやるために今回もこの世に生まれてきているわけです。
甘い言葉というのは、未来永劫、無くなることはありません。
しかし自分の心に正直になって、しっかり向き合っていくうちに、いつしかそれは雑音となり、そのうちその音も
全く気にならなくなっていくでしょう。
(つづく)