私たちの心の広がりを風船のイラストでイメージするならば、風船は心の境界線であり、風船の中身は心の濁りに
喩えることができます。
その濁りが薄まるにつれて、風船が膨らんでいく、つまり心が大きくなっていきます。
そして心が広がるほどに、外界との壁も薄まっていくということになります。
風船の中に詰まっているエネルギーも、その膨らみに合わせて広がっていきます。
そうしますと、風船(心)が広がるにつれてエネルギーが広がり増えているように見えますので、風船(心)というものが
エネルギーそのものであるように感じてしまいます。
しかし実際のところは、エネルギー(氣)というものはもともと天地宇宙に万遍なく無限に詰まっているものであって、
風船はそれを囲い込んでしまっているに過ぎません。
詰まり詰まっている空間をただ囲っただけですから、その囲いが大きくなれば当然エネルギーも大きくなるわけです。
ですから、いわゆる「心を広げてエネルギーを大きくしよう」という表現は、ある一面だけを捉えた方便であって、
本来の構図とは微妙に意味合いが違っているということになります。
そのような仕組みの中で、心の濁りが無くなるというのは、風船の囲いが無くなった状態と言うことができます。
もともと同じ、内の空気と外の空気とが、晴れて一つになったということです。
少し理屈っぽいかもしれませんが、今この私たちのまわりの空気と、何万キロ離れたカルフォルニアの空気とは、距離に
関係なく同じ一つのものです。
それらを隔てるものは何もありません。
目の前の空気と、カルフォルニアの空気は完全に一つということです。
ということは、目の前の空気は、そのままカルフォルニアの空気でもあるわけです。
距離というのは関係ありません。
断絶のない、大きな大きな一つ、The Big Oneです。
それと同じように、私たちの心は、無限の天地宇宙の心と全く一つです。
ですから、私たちの心は天地宇宙を縦横無尽に瞬時に動けます。
その何処かに、自ら、風船の囲いを作るか作らないかというだけの違いでしかありません。
そして、心と私たちとは寸分のズレもなく同調していますので、その心が極大まで広がったり極小まで縮こまったり
しても、常にそれと共にある私たちは、なかなかその変化を自覚することができません。
それは安定飛行している飛行機の中に居ると、まるで静止しているかのように勘違いしてしまうのと同じことです。
自覚ができないために、不自然な状態に変化したとしても気がつけず、それを維持しようと自動操縦モードに入って
しまうわけです。
逆に、自分以外の誰かを見ていますと、その人の心の拡大縮小というのは非常によく分かります。
自分はその相手の心と共には無いからです。
すると、何故そんなに小さくなってしまっているのかと余計な一言を言いたくなりますし、あるいは先ほどまで
小さくなっていたのが突如としてパカーッと大きくなっている姿に思わず吹き出してしまったりします。
それなのに、同じことを自分がやっていてもそれには全く気が付けないわけです。
飛行機が動いているかどうかは、窓の外の雲や建物を見ることで分かります。
あるいはガタガタと揺れることで、どうやら動いているようだと想像します。
同じように、私たちの心がどのようであるかは、窓の外の出来事や人の反応を見ることで分かります。
あるいは自分の身辺や体調がガタガタと揺れることで気がつくことが出来ます。
目に映るものは自分の鏡であるというのは、そういうことです。
それをもってストイックに自らを正すことも大切ですが、と言って、そればかりになってしまうと心が疲労困憊して
しまいます。
鏡台を見ながら化粧を100%バッチリにするのも悪くはありませんが、ひとまず鏡を見てみて寝グセがあったら
チャチャッと直したり、顔を洗ったりするくらいで私はイイと思います。
「こうでなければいけない」「こうであってはいけない」という思いは、自分の心を重くさせてしまいますし、さらにまた
自分以外の人たちの姿を見下してしまったり、あるいはその姿に苛立つことにもなり兼ねません。
鏡を見た時には、身だしなみ程度で十分なのです。
そうしていくうちに少しずつ小ざっぱりしていって、わざわざ化粧などせずともそれなりに見れる顔になっていく
ことでしょう。
暗い気持ちになると、心はヒューッと小さくなっていきます。
明るい気持ちになると、心はパーッと大きくなります。
暗い気持ちというのは、苦しみや悲しみ、イライラやモヤモヤなど様々ですが、どれも何かに囚われていることが
スイッチとなって起こります。
ですから、これはこれで「仕方がない」「そういうものだ」と受け入れてしまえば、瞬時に霧散します。
ただ、1%でも囚われが残っているうちは、そのように霧散させてもすぐさまモヤモヤ~と黒い霧が湧き出てきて、
あっという間に充満してしまいます。
そうなると、こんな骨折り損、やっとられんわと、霧散させようとする最初の気持ち自体を折られてしまうわけです。
しかしそれは決してやり方を間違っているわけではありませんし、自分がダメ人間であるわけでもありません。
単なる勘違いであり、誤解をしているだけのことです。
それは家の掃除と同じで、たった一回ですっきりピカピカというのが、そもそも無理な話なわけです。
汚れというのは何度か繰り返すうちに少しずつ薄まっていくものですし、そうしたことを重ねていくうちに出来るだけ
汚さないようにしようという気持ちが生じてくるのです。
もとより部屋というのは、何もしなくとも汚れるものです。
「一回でオールクリアになって掃除は必要なくなる」と期待すること自体が、現実離れした高望みなのです。
初めから、そんなもんだと達観して臨めば、気持ちも軽やかになるでしょう。
そして一見同じように見えるその汚れっぷりも、先ほどと比べると明らかに今の方がマシになっているのが事実です。
「一回でピカピカにしよう」という我執に囚われてしまうと、そのこと自体がさらなる苦しみとなってしまいます。
神社で一番大変な仕事は、庭掃きとも言います。
特に今の時期は掃いたそばから落ち葉が積もってしまい、早起きの苦労があっという間に台無しにされてしまうこと
でしょう。
確かに、チリ一つない境内は見た目にも気持ちがいいものです。
でも、枯葉が落ちるのは止めようがありません。
そんな状況では、結果を求めすぎることが新たな苦悩を生むことになってしまいます。
といって、どうせ同じだからと掃除そのものを放棄してしまうというのでは、根本からおかしくなってしまいます。
達観して、こういうものだと諦めて(=明らかに見極めて)、半ば自動的に粛々と掃除する。
すると、あとから落ち葉が積もろうとも、境内はとても清らかな空気に包まれていきます。
実は、落ち葉という目に見えるものを掃こうとすることで、目に見えない様々な穢れも祓われているのです。
そうなると落ち葉というのは、むしろそこへと誘ってくれる方便とも言えるわけです。
私たちの煩悩というのは、この落ち葉に喩えられます。
私たちは、煩悩の湧き起こる根本そのものを根絶させようとしますが、実際のところそれはなかなか大変なことです。
そして落ち葉の無いスッキリ爽やかな風を求めて頑張り、その徒労に打ちのめされ、挫折し、諦めてしまいます。
でも、それでは意味が無いのです。
煩悩とは誰しも湧くもの。
落ち葉とはもとより降り積もるもの。
木を根元から切り落とそうとするのではなく、落ち葉を箒でシュッシュッと静かに掃いていく作業こそが大事なのです。
それこそが、落ち葉そのものではなくその空間を払う(祓う)ことになります。
つまり煩悩が現れた時には騒いだり流されたりせずに、「それはそういうもの」とサッと払うこと、あるいは流す
ことで、空間(私たち)そのものを祓うことになるのです。
掃いたそばから煩悩がまた湧いてきてしまうとガックリときますが、そこは、煩悩を払っているのではなく、そのたび
自分自身を祓っているのだと分かれば、達観して高望みも無くなるでしょう。
さらには、もしかしたら、煩悩に対してウェルカム感すら覚えるようになるかもしれません。
たとえ一瞬とはいえ煩悩が霧散した時、私たちは明るい気持ちになります。
ということは、人間は本来、明るい心であるものだということになります。
それは赤ちゃんを見れば分かることです。
そして、濁りの無い状態がそうであると言うならば、それそのものであるこの天地宇宙というのは、明るい心に
充ち満ちているということが分かります。
それこそが天地宇宙の姿であるわけです。
目の前の今がどのように映っていようとも、私たちは、間違いなくその明るい世界の中に居るのです。
そして、その明るさこそは、内も外も分け隔てなく、私たちの中にも詰まり詰まっているということなのです。
(つづく)
喩えることができます。
その濁りが薄まるにつれて、風船が膨らんでいく、つまり心が大きくなっていきます。
そして心が広がるほどに、外界との壁も薄まっていくということになります。
風船の中に詰まっているエネルギーも、その膨らみに合わせて広がっていきます。
そうしますと、風船(心)が広がるにつれてエネルギーが広がり増えているように見えますので、風船(心)というものが
エネルギーそのものであるように感じてしまいます。
しかし実際のところは、エネルギー(氣)というものはもともと天地宇宙に万遍なく無限に詰まっているものであって、
風船はそれを囲い込んでしまっているに過ぎません。
詰まり詰まっている空間をただ囲っただけですから、その囲いが大きくなれば当然エネルギーも大きくなるわけです。
ですから、いわゆる「心を広げてエネルギーを大きくしよう」という表現は、ある一面だけを捉えた方便であって、
本来の構図とは微妙に意味合いが違っているということになります。
そのような仕組みの中で、心の濁りが無くなるというのは、風船の囲いが無くなった状態と言うことができます。
もともと同じ、内の空気と外の空気とが、晴れて一つになったということです。
少し理屈っぽいかもしれませんが、今この私たちのまわりの空気と、何万キロ離れたカルフォルニアの空気とは、距離に
関係なく同じ一つのものです。
それらを隔てるものは何もありません。
目の前の空気と、カルフォルニアの空気は完全に一つということです。
ということは、目の前の空気は、そのままカルフォルニアの空気でもあるわけです。
距離というのは関係ありません。
断絶のない、大きな大きな一つ、The Big Oneです。
それと同じように、私たちの心は、無限の天地宇宙の心と全く一つです。
ですから、私たちの心は天地宇宙を縦横無尽に瞬時に動けます。
その何処かに、自ら、風船の囲いを作るか作らないかというだけの違いでしかありません。
そして、心と私たちとは寸分のズレもなく同調していますので、その心が極大まで広がったり極小まで縮こまったり
しても、常にそれと共にある私たちは、なかなかその変化を自覚することができません。
それは安定飛行している飛行機の中に居ると、まるで静止しているかのように勘違いしてしまうのと同じことです。
自覚ができないために、不自然な状態に変化したとしても気がつけず、それを維持しようと自動操縦モードに入って
しまうわけです。
逆に、自分以外の誰かを見ていますと、その人の心の拡大縮小というのは非常によく分かります。
自分はその相手の心と共には無いからです。
すると、何故そんなに小さくなってしまっているのかと余計な一言を言いたくなりますし、あるいは先ほどまで
小さくなっていたのが突如としてパカーッと大きくなっている姿に思わず吹き出してしまったりします。
それなのに、同じことを自分がやっていてもそれには全く気が付けないわけです。
飛行機が動いているかどうかは、窓の外の雲や建物を見ることで分かります。
あるいはガタガタと揺れることで、どうやら動いているようだと想像します。
同じように、私たちの心がどのようであるかは、窓の外の出来事や人の反応を見ることで分かります。
あるいは自分の身辺や体調がガタガタと揺れることで気がつくことが出来ます。
目に映るものは自分の鏡であるというのは、そういうことです。
それをもってストイックに自らを正すことも大切ですが、と言って、そればかりになってしまうと心が疲労困憊して
しまいます。
鏡台を見ながら化粧を100%バッチリにするのも悪くはありませんが、ひとまず鏡を見てみて寝グセがあったら
チャチャッと直したり、顔を洗ったりするくらいで私はイイと思います。
「こうでなければいけない」「こうであってはいけない」という思いは、自分の心を重くさせてしまいますし、さらにまた
自分以外の人たちの姿を見下してしまったり、あるいはその姿に苛立つことにもなり兼ねません。
鏡を見た時には、身だしなみ程度で十分なのです。
そうしていくうちに少しずつ小ざっぱりしていって、わざわざ化粧などせずともそれなりに見れる顔になっていく
ことでしょう。
暗い気持ちになると、心はヒューッと小さくなっていきます。
明るい気持ちになると、心はパーッと大きくなります。
暗い気持ちというのは、苦しみや悲しみ、イライラやモヤモヤなど様々ですが、どれも何かに囚われていることが
スイッチとなって起こります。
ですから、これはこれで「仕方がない」「そういうものだ」と受け入れてしまえば、瞬時に霧散します。
ただ、1%でも囚われが残っているうちは、そのように霧散させてもすぐさまモヤモヤ~と黒い霧が湧き出てきて、
あっという間に充満してしまいます。
そうなると、こんな骨折り損、やっとられんわと、霧散させようとする最初の気持ち自体を折られてしまうわけです。
しかしそれは決してやり方を間違っているわけではありませんし、自分がダメ人間であるわけでもありません。
単なる勘違いであり、誤解をしているだけのことです。
それは家の掃除と同じで、たった一回ですっきりピカピカというのが、そもそも無理な話なわけです。
汚れというのは何度か繰り返すうちに少しずつ薄まっていくものですし、そうしたことを重ねていくうちに出来るだけ
汚さないようにしようという気持ちが生じてくるのです。
もとより部屋というのは、何もしなくとも汚れるものです。
「一回でオールクリアになって掃除は必要なくなる」と期待すること自体が、現実離れした高望みなのです。
初めから、そんなもんだと達観して臨めば、気持ちも軽やかになるでしょう。
そして一見同じように見えるその汚れっぷりも、先ほどと比べると明らかに今の方がマシになっているのが事実です。
「一回でピカピカにしよう」という我執に囚われてしまうと、そのこと自体がさらなる苦しみとなってしまいます。
神社で一番大変な仕事は、庭掃きとも言います。
特に今の時期は掃いたそばから落ち葉が積もってしまい、早起きの苦労があっという間に台無しにされてしまうこと
でしょう。
確かに、チリ一つない境内は見た目にも気持ちがいいものです。
でも、枯葉が落ちるのは止めようがありません。
そんな状況では、結果を求めすぎることが新たな苦悩を生むことになってしまいます。
といって、どうせ同じだからと掃除そのものを放棄してしまうというのでは、根本からおかしくなってしまいます。
達観して、こういうものだと諦めて(=明らかに見極めて)、半ば自動的に粛々と掃除する。
すると、あとから落ち葉が積もろうとも、境内はとても清らかな空気に包まれていきます。
実は、落ち葉という目に見えるものを掃こうとすることで、目に見えない様々な穢れも祓われているのです。
そうなると落ち葉というのは、むしろそこへと誘ってくれる方便とも言えるわけです。
私たちの煩悩というのは、この落ち葉に喩えられます。
私たちは、煩悩の湧き起こる根本そのものを根絶させようとしますが、実際のところそれはなかなか大変なことです。
そして落ち葉の無いスッキリ爽やかな風を求めて頑張り、その徒労に打ちのめされ、挫折し、諦めてしまいます。
でも、それでは意味が無いのです。
煩悩とは誰しも湧くもの。
落ち葉とはもとより降り積もるもの。
木を根元から切り落とそうとするのではなく、落ち葉を箒でシュッシュッと静かに掃いていく作業こそが大事なのです。
それこそが、落ち葉そのものではなくその空間を払う(祓う)ことになります。
つまり煩悩が現れた時には騒いだり流されたりせずに、「それはそういうもの」とサッと払うこと、あるいは流す
ことで、空間(私たち)そのものを祓うことになるのです。
掃いたそばから煩悩がまた湧いてきてしまうとガックリときますが、そこは、煩悩を払っているのではなく、そのたび
自分自身を祓っているのだと分かれば、達観して高望みも無くなるでしょう。
さらには、もしかしたら、煩悩に対してウェルカム感すら覚えるようになるかもしれません。
たとえ一瞬とはいえ煩悩が霧散した時、私たちは明るい気持ちになります。
ということは、人間は本来、明るい心であるものだということになります。
それは赤ちゃんを見れば分かることです。
そして、濁りの無い状態がそうであると言うならば、それそのものであるこの天地宇宙というのは、明るい心に
充ち満ちているということが分かります。
それこそが天地宇宙の姿であるわけです。
目の前の今がどのように映っていようとも、私たちは、間違いなくその明るい世界の中に居るのです。
そして、その明るさこそは、内も外も分け隔てなく、私たちの中にも詰まり詰まっているということなのです。
(つづく)