今日も朝から、シュッ、シュッとホウキで掃く音が聞こえてきます。
前回まで触れたように、私たちは、もともと明るく輝く存在です。
光り溢れる明るい世界というのは、同時にまた私たち自身の姿でもあります。
実際、私たちは誰もがそのままに生まれて来ました。
生まれてからしばらくは、疑うことなく自然に当たり前に、明るく輝いていました。
ただ、光を隠した仮初めの景色に包まれるうちに、少しずつ私たち自身も光を隠すようになりました。
それは自分でも知らず知らず、無意識のうちに感覚として調整されていったものです。
誰がいいとか、悪いとかいうことではありません。
「隠す」と表現すると悪いことのように聞こえますので、それは「演じている」と言い換えた方がいいかもしれません。
ですから、それは残念な過程でも何でも無く、むしろそれを分かった上で私たちはそうなることを選んで生まれてきて
いるということです。
行けばそうなることなど、天から見ていれば一目瞭然です。
そもそもこの世界は楽しむために存在します。
何故わざわざ「自分はそうはならない!」などと必死の覚悟で降りてくる必要があるでしょうか。
答えは簡単なのです。
私たちは、光を隠してまでして、色々なことを演じたいがためにこの世界にやってきてるのです。
演じることを通じて、これ以上ないほど数多くの経験と学びを得ることができます。
それは、元々の輝き溢れる状態のままでは得られなかったものであるわけです。
役に没頭しすぎて分からなくなってしまっていますが、それこそ私たちの狙い通りと言えるのではないでしょうか。
そしてそうした演技の節目節目で、メッキの隙間から溢れ出る光に触れて、私たちは故郷を思い出し癒されているので
しょう。
そうであるならば、この世の苦労や喜びというのはそれほどに貴重なものであるということです。
光り輝く世界や、私たちの本当の姿のままでは得ることの出来ない、超レア物であるわけです。
ですから、私たちの本来の姿は光り輝いてるはずなのに今がそうではないからといって、今の状態を悲観したり、卑下
したりする必要はないのです。
大切なのは、この紙一重の裏側が光り輝く世界であり、私たちもまた光り輝く存在であるということを分かった上で、
今この地味色の渋い世界で、同色の自分をしっかり味わい尽くすところにあるわけです。
本来の姿を知らずに路頭をウロウロさまよい歩くのと、全貌を分かった上で裏道をスイスイ歩くのとでは、心の持ちようが
全く違って来ます。
暗く沈んだ気持ちで鉛のように重い足を引きずり歩いている時には、薄暗い小道にしか見えなかったものが、心が軽やかに
大きく広がった途端、野に咲く花や射し込む木漏れ日といった、小道ならではの思いがけない発見が映るようになるのです。
まさに私たちは、この世界を味わいに来ています。
トラブルや災難というものも、もしかしたら小道にピュッと跳び出てきたウサギやリスのようなものかもしれません。
とはいえ、暗闇の中でのたうち回っている真っ最中には、そんな話を聞いても綺麗事にしか思えないでしょう。
実際、私自身がそうでした。
次々と跳び出してくる生き物を見てもイラっとしてしまい、それを愛くるしいと笑って受け入れることなど到底できない
わけです。
ひとたび萎縮した心は、ガチガチに凝り固まってしまい、次々と押し寄せる小動物や、降りしきる落ち葉に対して
ますます頑なになっていくものです。
「心を広げましょう」「開きましょう」などと言われても、それこそ心が付いていきません。
そんな時には、いま一度、原点に戻ってみるしかありません。
そして、心よりも脳が優位になっている時には、まず脳の方をラクにしてあげましょう。
脳優位の緊張状態が長く続いてしまうと、いくら感覚の方を追おうとしても脳に引っ張られてしまい、全く切り替える
ことができなくなります。
そうすると、あの感覚に戻りたいのに戻れないというもどかしさに、心は落ち込み、ますます萎縮し枯渇して行きます。
心の感覚を追いたいばかりに脳や理屈を忌み嫌ってしまうのは、結局は囚われの世界でしかないということです。
感覚の世界が遠のいてしまっている時には、理屈の世界から進んでいくのが一番です。
そのこと自体をネガティヴに捉える必要は全くありません。
もう一度、整理してみたいと思います。
明るい気持ちというものは、霧散させることはできません。
翳らせることは出来ても、霧散させることはできないのです。
それはつまり、明るさというものは湧き出ているものではなく、当たり前の状態であることを示しています。
逆に、暗く翳っている状態を明るくさせるためには、その翳りを払うしかありません。
ですから、気持ちが暗くなっている時に、上書きで明るくしようとするのは道理に反するということになります。
空一面に暗雲がかかった状態でランタンの薄明かりを灯しても、空が晴れることはないのです。
悲しい時は悲しい、苦しい時は苦しいのです。
それが今の自分の正直な姿であるわけです。
それを認めずに、悲しむまい、苦しむまいと、素の自分に蓋をしてしまうのでは、いつまで経ってもその先には進めません。
つらい時はそれを認めてしまうのが、まず第一歩となります。
悲しみや苦しみといったものは、己の執着がその火種となっているのは確かです。
しかしだからといって、悲しみや苦しみといったものに浸ってはいけないということでは無いわけです。
囚われてはいけないと思い詰めて、本当の自分を直視せず受け入れないことこそが、いけないのです。
誰だって聖人君子ではありません。
人は、囚われるのが当たり前なのです。
執着があるうちは、それをしっかりと認める(見て止める)ことが必要です。
無理して明るくしようとするよりは、しっかりと暗さを噛みしめたほうが、風を呼び込む近道になります。
それはつまり、「仕方がない」と諦めるということです。
そしてそれは、目の前の景色を受け入れることに通じます。
目の前の景色とは、仕事や家庭、身のまわりで巻き起こる様々なことだけでなく、心の内に湧き上がる今の正直な自分の
ことも指しています。
遠くの夢物語ばかり追わず、「仕方がない」と割り切って、粛々と足元の落ち葉を掃いていく。
実は、煩悩だけに限らず、目の前で起きる様々な出来事もまた、ハラハラと足元へと降り積もる落ち葉であるわけです。
そしてその落ち葉を縁(よすが)とし、それを掃き払うことで、私たち自身も祓われていくのです。
竹ボウキで舞い上がる風こそが、罪穢れを祓う風となります。
自ら呼び起こした暗雲を吹き払う風とは、やはりまた自らが呼び起こすものなのです。
何処か遠くの空から神風が吹くということはありません。
私たちの日々や、会社、家庭は、自らの神風を呼び起こすためのよすがです。
私たちが手にする竹ボウキを存分に振るえるように、そうした様々なことがハラハラと舞い降りてきているのです。
そうして私たち自身も祓われていくわけです。
そのように知れば、一つ一つに囚われてヒステリーになることもなくなっていくのではないでしょうか。
これまでは、道にうずくまって受け身になっていたために、まるで落ち葉の嵐が自分に押し寄せてくるように感じて
いたかもしれません。
そして我が身を守るために、その無数の一枚一枚に目を向け続け、心は疲れ果ててしまったことでしょう。
しかし、落ち葉はもとより落ちるものであり、それはただの方便に過ぎず、そもそも私たちの頬を撫でるようにして
私たちを清らかにしてくれるものだと分かれば、心は一変するはずです。
落ち葉の方から押し寄せてくるのではなく、逆に、小道を軽快に歩く私たちの方から、ハラハラと落ちる葉っぱに
触れていっている姿へと変わります。
そして、何の苛立ちもなく淡々と、サッと手でそれを払う姿へと変わります。
そうして、凝り固まっていた心は、自ずと天地へ溶け出していくことでしょう。
悩みや苦しみ、不満やツラさがあると、心はギューッと肉体の奥へと小さくなり、それとともに氣やエネルギーも
自分の奥深くへと小さく縮こまった状態になります。
それは周囲との断絶がより一層、深まった状態でもあります。
心が内側へ小さく凝縮してしまうと、一瞬一瞬が本当に生き苦しくなります。
「自分」と「自分以外」という分け方が際立つと、圧倒的な数の「自分以外」に押しつぶされ、参ってしまいます。
しかし「自分以外」というのはそもそもが幻想であるわけです。
自らの壁によって作られた幻想です。
繰り返しになりますが、天地宇宙というのは、「自分」でも「自分以外」でもなく、ただ一つの海しかありません。
個の存在として小さな意識に縮こまるのではなく、もっと大きな感覚に身を預けてみて下さい。
私たちは、誰もがこの天地宇宙の海そのものです。
その中でそれぞれが小さな手で囲って、それを自分だと思い込んでいるだけです。
私たちが海になれば、「自分以外」というものは無くなります。
すべてが自分になります。
この海の中では、他の人たちが小さく囲おうとも、一つの同じ海でしかありません。
ということはつまり、この世の全ては自分の外側に存在するのではなく、全て自分の内に在るということになります。
他の人たちは、この大きな私たち自身のあちこち所々を、小さく囲っているだけなのです。
そして私たちは、この大きな私たちの中でまた、自分自身をも同じく見守っているのです。
日々の暮らしの中で、まわりの人が何かを言ったり、何かをやったりしても、それは私たちの海の中を小さな手で囲い、
演じているということなのです。
そして、誰もがそのような演じることで色々なことを経験し吸収し、持ち帰るのです。
それは私たちもまた同じことです。
自分と自分以外とに切り分けず、そのように心を広げることで、まわりの人たちを外からではなく内から感じられる
ようになります。
そして、そうであればこそ、他人事には感じられなくなるのです。
これは家族愛や兄弟愛を遥かに越えるものです。
何故ならば、それは新たに湧き上がるようなものではなく、一心同体の
不可分の自分自身としての感覚であるからです。
つまりは「状態」ということです。
それこそが、天地宇宙は愛で詰まっているということであり、みんな愛に生きましょうという昔から繰り返される決まり
文句の本当の意味です。
上っ面の絵空事ではありません。
愛とは、湧いたり生じたり失ったり消えたりするものではなく、単なる「状態」なのです。
だから、与えるものではありませんし、得るものでもありません。
目指すものなどではなく、それは、もともとの状態であるわけです。
母なる海というのは、まさに真理をついた表現だと言えます。
この母なる海に、私たちも全てを預け、包まれるに任せて溶けていくだけです。
ただ、その前提として、一つだけ大事なことがあります。
それは何処まで行っても、己の意識を失ってはいけないということです。
ボンヤリと意識が薄れて行って自分が無くなってしまうというのでは、単なる漂流になってしまいます。
これは逆に非常に危険な状態です。
我執を無くすということと、自分を無くすということは、根本的に全く違うものです。
海と一つになっても自分の意識はあります。
他の人たちもまた、海と一つになっても、それぞれに自分の意識はあります。
つまり、それこそが「一人一人が天地の中心の一点である」ということなのです。
今一度、天地宇宙の母なる海の大きな心になって、この世界を、そしてまわりの人たちを感じてみて下さい。
何故かは分からず、ジンワリと幸せな気持ちに包まれるのではないかと思います。
それが天地の心であるわけです。
そしてその時、誰も彼もが、あなた自身となっています。
今、それを自分の全体で感じています。
それこそが、肉体の枠に縛られない、本当の自分なのです。
そして、先に言ってしまいますが、これは今ここだけで終わってしまっても全く構わないものです。
日常において、ムカッと来た相手を前にして、そんな聖人君子になれというのは無茶な話です。
ただ、その時は無理だとしても、少し時間を置いてから一人その感覚に身を投じてみると、イライラしていた気持ちも
スーッと消えて無くなっていくことでしょう。
そうした時に「いや、そうは言ってもあれはおかしい」と自我が湧きあがってくるかもしれませんが、ここでの目的は
自分の正当化でも相手への非難でも無いはずです。
モヤモヤを消えて無くすことだけが全てですから、他の余計なことは考える必要はありません。
それが「落ち葉を掃く」ということです。
道端の落ち葉を相手に自問自答して、悶々として手を止めてしまうのでは、何の意味も無いではないですか。
とはいえ、これもまたガツガツやりすぎは良くありません。
日常万般そのように淡々と掃ければ理想的ですが、そこまで完璧を望まなくても大丈夫です。
たとえ時々であったとしても、天地宇宙の母なる海へと自らを同化
させることで、私たちは少しずつ祓われていくことになります。
ですから、いつでもそのようにあろうと欲をかいても意味がありません。
その我執が新たな苦しみとなり堂々巡りとなってしまいます。
なにごとも、身の丈にあった自然体が一番です。
清らかな景色も爽やかな心も、一瞬で消えてなくなり、また元に戻ってしまう...
そんなことは別に落ち込む話ではないわけです。
もとより、そのようなものなのです。
私たちは人間です。
聖人君子や神様になろうとする必要はありません。
この世というのは、枯葉が落ちるのが当たり前。
そのように出来ているのです。
そして、私たちはそんな中で粛々と、落ち葉を掃くために生まれてきたのです。
繰り返しになりますが、それは決して因業などではありません。
チリ一つ無い景色に囚われてしまうと苦しくなるだけです。
先のことを期待するのではなく、ホウキで掃くこと自体が、幸せな心地となり、爽やかな風となります。
そのための落葉であり、煩悩であるわけです。
心を広げようとすると目の前のことがおろそかになってしまいます。
といって、目の前ことに囚われてしまうと、今度は心が狭くなっていきます。
何かを追おうとするほどに、それは遠ざかって行くものです。
天地へ心を開いて、大きな大きな一つの海を感じたまま、目の前の一つ一つを、シュッ、シュッと掃いていきましょう。
大海を感じようとするのではなく、そうであることを私たちは知っているということが全てです。
見えなければ分からない、感じなければ分からない、というものではありません。
もとより私たちは、天地宇宙のチリ一つ無い、母なる海と一心同体です。
そこを離れて存在することはできません。
それは遠くにあるものでなく、私たちはもとよりその中に居て、忘れたフリをして楽しんでいるだけです。
苦しみや悲しみを無理に楽しみに変えようとすることはありません。
落ち葉の一つ一つに強引な意味づけは不要です。
苦しみは苦しみとして、悲しみは悲しみとして、自分の心を素直に映して、一つ一つを丁寧に掃いていきましょう。
大丈夫です。
私たちは、天地宇宙そのものなのですから。
(おわり)
前回まで触れたように、私たちは、もともと明るく輝く存在です。
光り溢れる明るい世界というのは、同時にまた私たち自身の姿でもあります。
実際、私たちは誰もがそのままに生まれて来ました。
生まれてからしばらくは、疑うことなく自然に当たり前に、明るく輝いていました。
ただ、光を隠した仮初めの景色に包まれるうちに、少しずつ私たち自身も光を隠すようになりました。
それは自分でも知らず知らず、無意識のうちに感覚として調整されていったものです。
誰がいいとか、悪いとかいうことではありません。
「隠す」と表現すると悪いことのように聞こえますので、それは「演じている」と言い換えた方がいいかもしれません。
ですから、それは残念な過程でも何でも無く、むしろそれを分かった上で私たちはそうなることを選んで生まれてきて
いるということです。
行けばそうなることなど、天から見ていれば一目瞭然です。
そもそもこの世界は楽しむために存在します。
何故わざわざ「自分はそうはならない!」などと必死の覚悟で降りてくる必要があるでしょうか。
答えは簡単なのです。
私たちは、光を隠してまでして、色々なことを演じたいがためにこの世界にやってきてるのです。
演じることを通じて、これ以上ないほど数多くの経験と学びを得ることができます。
それは、元々の輝き溢れる状態のままでは得られなかったものであるわけです。
役に没頭しすぎて分からなくなってしまっていますが、それこそ私たちの狙い通りと言えるのではないでしょうか。
そしてそうした演技の節目節目で、メッキの隙間から溢れ出る光に触れて、私たちは故郷を思い出し癒されているので
しょう。
そうであるならば、この世の苦労や喜びというのはそれほどに貴重なものであるということです。
光り輝く世界や、私たちの本当の姿のままでは得ることの出来ない、超レア物であるわけです。
ですから、私たちの本来の姿は光り輝いてるはずなのに今がそうではないからといって、今の状態を悲観したり、卑下
したりする必要はないのです。
大切なのは、この紙一重の裏側が光り輝く世界であり、私たちもまた光り輝く存在であるということを分かった上で、
今この地味色の渋い世界で、同色の自分をしっかり味わい尽くすところにあるわけです。
本来の姿を知らずに路頭をウロウロさまよい歩くのと、全貌を分かった上で裏道をスイスイ歩くのとでは、心の持ちようが
全く違って来ます。
暗く沈んだ気持ちで鉛のように重い足を引きずり歩いている時には、薄暗い小道にしか見えなかったものが、心が軽やかに
大きく広がった途端、野に咲く花や射し込む木漏れ日といった、小道ならではの思いがけない発見が映るようになるのです。
まさに私たちは、この世界を味わいに来ています。
トラブルや災難というものも、もしかしたら小道にピュッと跳び出てきたウサギやリスのようなものかもしれません。
とはいえ、暗闇の中でのたうち回っている真っ最中には、そんな話を聞いても綺麗事にしか思えないでしょう。
実際、私自身がそうでした。
次々と跳び出してくる生き物を見てもイラっとしてしまい、それを愛くるしいと笑って受け入れることなど到底できない
わけです。
ひとたび萎縮した心は、ガチガチに凝り固まってしまい、次々と押し寄せる小動物や、降りしきる落ち葉に対して
ますます頑なになっていくものです。
「心を広げましょう」「開きましょう」などと言われても、それこそ心が付いていきません。
そんな時には、いま一度、原点に戻ってみるしかありません。
そして、心よりも脳が優位になっている時には、まず脳の方をラクにしてあげましょう。
脳優位の緊張状態が長く続いてしまうと、いくら感覚の方を追おうとしても脳に引っ張られてしまい、全く切り替える
ことができなくなります。
そうすると、あの感覚に戻りたいのに戻れないというもどかしさに、心は落ち込み、ますます萎縮し枯渇して行きます。
心の感覚を追いたいばかりに脳や理屈を忌み嫌ってしまうのは、結局は囚われの世界でしかないということです。
感覚の世界が遠のいてしまっている時には、理屈の世界から進んでいくのが一番です。
そのこと自体をネガティヴに捉える必要は全くありません。
もう一度、整理してみたいと思います。
明るい気持ちというものは、霧散させることはできません。
翳らせることは出来ても、霧散させることはできないのです。
それはつまり、明るさというものは湧き出ているものではなく、当たり前の状態であることを示しています。
逆に、暗く翳っている状態を明るくさせるためには、その翳りを払うしかありません。
ですから、気持ちが暗くなっている時に、上書きで明るくしようとするのは道理に反するということになります。
空一面に暗雲がかかった状態でランタンの薄明かりを灯しても、空が晴れることはないのです。
悲しい時は悲しい、苦しい時は苦しいのです。
それが今の自分の正直な姿であるわけです。
それを認めずに、悲しむまい、苦しむまいと、素の自分に蓋をしてしまうのでは、いつまで経ってもその先には進めません。
つらい時はそれを認めてしまうのが、まず第一歩となります。
悲しみや苦しみといったものは、己の執着がその火種となっているのは確かです。
しかしだからといって、悲しみや苦しみといったものに浸ってはいけないということでは無いわけです。
囚われてはいけないと思い詰めて、本当の自分を直視せず受け入れないことこそが、いけないのです。
誰だって聖人君子ではありません。
人は、囚われるのが当たり前なのです。
執着があるうちは、それをしっかりと認める(見て止める)ことが必要です。
無理して明るくしようとするよりは、しっかりと暗さを噛みしめたほうが、風を呼び込む近道になります。
それはつまり、「仕方がない」と諦めるということです。
そしてそれは、目の前の景色を受け入れることに通じます。
目の前の景色とは、仕事や家庭、身のまわりで巻き起こる様々なことだけでなく、心の内に湧き上がる今の正直な自分の
ことも指しています。
遠くの夢物語ばかり追わず、「仕方がない」と割り切って、粛々と足元の落ち葉を掃いていく。
実は、煩悩だけに限らず、目の前で起きる様々な出来事もまた、ハラハラと足元へと降り積もる落ち葉であるわけです。
そしてその落ち葉を縁(よすが)とし、それを掃き払うことで、私たち自身も祓われていくのです。
竹ボウキで舞い上がる風こそが、罪穢れを祓う風となります。
自ら呼び起こした暗雲を吹き払う風とは、やはりまた自らが呼び起こすものなのです。
何処か遠くの空から神風が吹くということはありません。
私たちの日々や、会社、家庭は、自らの神風を呼び起こすためのよすがです。
私たちが手にする竹ボウキを存分に振るえるように、そうした様々なことがハラハラと舞い降りてきているのです。
そうして私たち自身も祓われていくわけです。
そのように知れば、一つ一つに囚われてヒステリーになることもなくなっていくのではないでしょうか。
これまでは、道にうずくまって受け身になっていたために、まるで落ち葉の嵐が自分に押し寄せてくるように感じて
いたかもしれません。
そして我が身を守るために、その無数の一枚一枚に目を向け続け、心は疲れ果ててしまったことでしょう。
しかし、落ち葉はもとより落ちるものであり、それはただの方便に過ぎず、そもそも私たちの頬を撫でるようにして
私たちを清らかにしてくれるものだと分かれば、心は一変するはずです。
落ち葉の方から押し寄せてくるのではなく、逆に、小道を軽快に歩く私たちの方から、ハラハラと落ちる葉っぱに
触れていっている姿へと変わります。
そして、何の苛立ちもなく淡々と、サッと手でそれを払う姿へと変わります。
そうして、凝り固まっていた心は、自ずと天地へ溶け出していくことでしょう。
悩みや苦しみ、不満やツラさがあると、心はギューッと肉体の奥へと小さくなり、それとともに氣やエネルギーも
自分の奥深くへと小さく縮こまった状態になります。
それは周囲との断絶がより一層、深まった状態でもあります。
心が内側へ小さく凝縮してしまうと、一瞬一瞬が本当に生き苦しくなります。
「自分」と「自分以外」という分け方が際立つと、圧倒的な数の「自分以外」に押しつぶされ、参ってしまいます。
しかし「自分以外」というのはそもそもが幻想であるわけです。
自らの壁によって作られた幻想です。
繰り返しになりますが、天地宇宙というのは、「自分」でも「自分以外」でもなく、ただ一つの海しかありません。
個の存在として小さな意識に縮こまるのではなく、もっと大きな感覚に身を預けてみて下さい。
私たちは、誰もがこの天地宇宙の海そのものです。
その中でそれぞれが小さな手で囲って、それを自分だと思い込んでいるだけです。
私たちが海になれば、「自分以外」というものは無くなります。
すべてが自分になります。
この海の中では、他の人たちが小さく囲おうとも、一つの同じ海でしかありません。
ということはつまり、この世の全ては自分の外側に存在するのではなく、全て自分の内に在るということになります。
他の人たちは、この大きな私たち自身のあちこち所々を、小さく囲っているだけなのです。
そして私たちは、この大きな私たちの中でまた、自分自身をも同じく見守っているのです。
日々の暮らしの中で、まわりの人が何かを言ったり、何かをやったりしても、それは私たちの海の中を小さな手で囲い、
演じているということなのです。
そして、誰もがそのような演じることで色々なことを経験し吸収し、持ち帰るのです。
それは私たちもまた同じことです。
自分と自分以外とに切り分けず、そのように心を広げることで、まわりの人たちを外からではなく内から感じられる
ようになります。
そして、そうであればこそ、他人事には感じられなくなるのです。
これは家族愛や兄弟愛を遥かに越えるものです。
何故ならば、それは新たに湧き上がるようなものではなく、一心同体の
不可分の自分自身としての感覚であるからです。
つまりは「状態」ということです。
それこそが、天地宇宙は愛で詰まっているということであり、みんな愛に生きましょうという昔から繰り返される決まり
文句の本当の意味です。
上っ面の絵空事ではありません。
愛とは、湧いたり生じたり失ったり消えたりするものではなく、単なる「状態」なのです。
だから、与えるものではありませんし、得るものでもありません。
目指すものなどではなく、それは、もともとの状態であるわけです。
母なる海というのは、まさに真理をついた表現だと言えます。
この母なる海に、私たちも全てを預け、包まれるに任せて溶けていくだけです。
ただ、その前提として、一つだけ大事なことがあります。
それは何処まで行っても、己の意識を失ってはいけないということです。
ボンヤリと意識が薄れて行って自分が無くなってしまうというのでは、単なる漂流になってしまいます。
これは逆に非常に危険な状態です。
我執を無くすということと、自分を無くすということは、根本的に全く違うものです。
海と一つになっても自分の意識はあります。
他の人たちもまた、海と一つになっても、それぞれに自分の意識はあります。
つまり、それこそが「一人一人が天地の中心の一点である」ということなのです。
今一度、天地宇宙の母なる海の大きな心になって、この世界を、そしてまわりの人たちを感じてみて下さい。
何故かは分からず、ジンワリと幸せな気持ちに包まれるのではないかと思います。
それが天地の心であるわけです。
そしてその時、誰も彼もが、あなた自身となっています。
今、それを自分の全体で感じています。
それこそが、肉体の枠に縛られない、本当の自分なのです。
そして、先に言ってしまいますが、これは今ここだけで終わってしまっても全く構わないものです。
日常において、ムカッと来た相手を前にして、そんな聖人君子になれというのは無茶な話です。
ただ、その時は無理だとしても、少し時間を置いてから一人その感覚に身を投じてみると、イライラしていた気持ちも
スーッと消えて無くなっていくことでしょう。
そうした時に「いや、そうは言ってもあれはおかしい」と自我が湧きあがってくるかもしれませんが、ここでの目的は
自分の正当化でも相手への非難でも無いはずです。
モヤモヤを消えて無くすことだけが全てですから、他の余計なことは考える必要はありません。
それが「落ち葉を掃く」ということです。
道端の落ち葉を相手に自問自答して、悶々として手を止めてしまうのでは、何の意味も無いではないですか。
とはいえ、これもまたガツガツやりすぎは良くありません。
日常万般そのように淡々と掃ければ理想的ですが、そこまで完璧を望まなくても大丈夫です。
たとえ時々であったとしても、天地宇宙の母なる海へと自らを同化
させることで、私たちは少しずつ祓われていくことになります。
ですから、いつでもそのようにあろうと欲をかいても意味がありません。
その我執が新たな苦しみとなり堂々巡りとなってしまいます。
なにごとも、身の丈にあった自然体が一番です。
清らかな景色も爽やかな心も、一瞬で消えてなくなり、また元に戻ってしまう...
そんなことは別に落ち込む話ではないわけです。
もとより、そのようなものなのです。
私たちは人間です。
聖人君子や神様になろうとする必要はありません。
この世というのは、枯葉が落ちるのが当たり前。
そのように出来ているのです。
そして、私たちはそんな中で粛々と、落ち葉を掃くために生まれてきたのです。
繰り返しになりますが、それは決して因業などではありません。
チリ一つ無い景色に囚われてしまうと苦しくなるだけです。
先のことを期待するのではなく、ホウキで掃くこと自体が、幸せな心地となり、爽やかな風となります。
そのための落葉であり、煩悩であるわけです。
心を広げようとすると目の前のことがおろそかになってしまいます。
といって、目の前ことに囚われてしまうと、今度は心が狭くなっていきます。
何かを追おうとするほどに、それは遠ざかって行くものです。
天地へ心を開いて、大きな大きな一つの海を感じたまま、目の前の一つ一つを、シュッ、シュッと掃いていきましょう。
大海を感じようとするのではなく、そうであることを私たちは知っているということが全てです。
見えなければ分からない、感じなければ分からない、というものではありません。
もとより私たちは、天地宇宙のチリ一つ無い、母なる海と一心同体です。
そこを離れて存在することはできません。
それは遠くにあるものでなく、私たちはもとよりその中に居て、忘れたフリをして楽しんでいるだけです。
苦しみや悲しみを無理に楽しみに変えようとすることはありません。
落ち葉の一つ一つに強引な意味づけは不要です。
苦しみは苦しみとして、悲しみは悲しみとして、自分の心を素直に映して、一つ一つを丁寧に掃いていきましょう。
大丈夫です。
私たちは、天地宇宙そのものなのですから。
(おわり)