これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

生まれ直しのススメ(実践編・前編)

2018-12-12 21:24:35 | 天地の仕組み (Basharサポート)
日々の選択はほとんどが自動モードで行なわれています。

選択というのは、頭を介して意識的に行なうものに限らず、毎瞬毎瞬おこなわれています。

もし毎瞬すべてを自ら選択していたら、それに追われてしまってまわりを見る余裕は無くなってしまいます。
そのためあらゆる生物は大部分を自動運転に任せています。

では自動運転のプログラムはどこから来ているかというと、動物ならば本能となりますが、人間の場合それに信念、習慣、感性といったものが
加わってきます。

命を維持するための自動運転は本能が司っていますが、それ以外の選択は、信念や習慣が運転手になっているということです。

私たちはそうしたものに一日のほとんどハンドルを預け、ごくたまにハンドルを奪ってグイッと回しているということになります。

そのように、これまでの信念や習慣というものがハンドルそのものや車体全体に染み付いていますので、何か普段と違ったことをやろうとすると
不安という形になって表れ、無意識のうちに自動ブレーキがかかることになります。

ですから例えば「今ココの自分を上書きすれば過去も癒される」「その一歩はほんのわずかだ」などと言われても、いざそれをやるとなると断崖の
谷間を跳ぶがごとき一大決心を迫られることになるわけです。





今どきの車でいえば、車線変更のためハンドルを切ろうとしたら安全装置の自動制御がかかって強制的にハンドルが切れないような状態になって
いるようなものです。

それでもなお右に曲がろうとするならば、私たちはあらゆる警告アラームを無視して、力を入れてエイヤーとハンドルを回さなくてはなりません。

車体は大真面目に危険と判断しているわけです。
それを知った上で力づくでハンドルを切るとなると、やはりそれは相当な覚悟が必要となるでしょう。

これは頭で考えてどうにかなるものではありません。

「今ココを上書きするだけ」
「その一歩はほんのわずか」

そうしたものを理屈で理解できたとしても、日々の自動運転によって感覚として染み付いたものをオフにすることはできません。

結局その場でフンフン納得するだけで実際の行動まで辿り着かず終わることになってしまいます。


必要なのは、頭の理解を肌感覚に結びつけていくことです。

ということで、今回は実践編として空想ゲームをしたいと思います。

以前にも触れました、生まれ直しのドラマを題材にします。
本当に私たちが過去に戻ったとしたらどうなるのか。
疑似体験ではありますが、ある意味これはリアル体験とも言えます。

文字を追うだけでは脳内で終わってしまいます。
肌感覚が目的ですので、この空想遊びに感覚を預けることで一時的にも自動運転からスコーンと解放されることになります。

その瞬間、目の前にある断崖の谷間は消え去り、すぐその一歩が鮮やかに見えるようになるでしょう。



フラットな気持ちのまま過去へと思いを馳せてみます。
パッと浮かんだ景色へ心を向けてみます。
たとえば、

小学生の頃。
高校生の頃。
あるいは二十代の頃。

その中で何歳の頃でも構いません。
一つを具体的に思い出してみます。

漠然としたイメージで終わらせてしまうとこの遊び自体が成立しなくなります。
あせらず、ゆっくりお風呂にでも入るように、そこにひたっていきます。

昔の自分。
子どもの頃の自分。
まずはどれか一つにフォーカスしましょう。

大体このくらいの歳の自分というのが浮かんだら、その頃の自分に心を向けます。

何かのイメージが浮かびましたら、そこから次々と浮かぶにまかせて、そのままほっときます。

ポツポツと浮かんできましたら、このゲームのことは忘れて、そこにひたったまま過去の感覚を思い出してみます。

あぁ子供の頃はこういう感じだったなぁ、とか、高校生の頃はこういう感じだったなぁ、とホワーンとした心地を楽しみます。

皮膚感覚を思い出してきますと、感覚記憶がポツポツと蘇ってきます。
それに引っ張られて、心も当時のそれに戻っていきます。



気がつけば、その頃の私たちに生まれ戻っていました。

桜の舞うポカポカ暖かな陽気です。

優しい風を感じられましたら、そこから今日の生活が始まります。

さてこのあとは何でしたっけ?
学校ですか? それとも家族との食事ですか?

視界には私たちの手足が見えます。
まわりにはあの頃の家族や友達がいます。

いや、それはあの頃ではなく、今はもう目の前の家族や友達です。

その生活、その空気感を思い出しましたら、私たちはすっかり生まれ戻ったということです。

まだピンと来ないかもしれませんが、このまま過ごすうちに少しずつそれを実感していくようになります。

私たちは今から何でもできます。

もちろん、昨日と同じように学校に行って授業を受けることもできます。
いきなり休んだらまわりから心配されますしね。
懐かしさに浸ってじっくりそれを味わうのもいいですね。

今の私たちは夢の中です。
縛られず何でも出来ます。

授業は今やチンプンカンプン。
でもそれを一通り受けましたら、あとは放課後です。

心のストッパーを外して、トンデモないことをパーッとやっても全く問題ありません。

だってこれはすでに一度経験してることなんですから。
また同じように真面目にやったって、つまらないじゃないですか。

やりたいことを好きなようにやっても、誰にも咎められませんし、陰口も叩かれません。

何をしてみたいと思いますか?

心に何か浮かんで思わずニヤっとしましたか?

さすがにこれはなぁ〜と思いつつニヤけている自分がいたなら、いったいそれはどんなことでしょう?

あのときは出来ませんでしたが、今ならそれをやってしまえるんですから。。。



さて、これは失敗をやり直すという方向性のものではありません。
突如そこに放り出された時に、私たちは純粋に何をしたいか感じるのが目的です。

なかなかすぐにはイメージが湧いてこないかもしれません。

だから具体的な景色、その肌感覚を思い出すところから始めました。

たとえば高校生の自分でしたら、そこには友人が居て、学校や部活があります。
ツボに入ってゲラゲラと笑いが止まらなくなってしまうあの心地。
一緒に汗を流した時にサーッと吹き抜けた風のなんて気持ちのいいことか。

そうした感覚を思い出したところで、今そこから自分の毎日がスタートすると本気で信じるわけです。

すると、いろんなことが胸に湧き上がってきます。

楽しかった日々をもう一度嚙みしめよう
せっかくだから何か他のこともやってみよう
あ、そうだった
自分はこんなことやりたかったんだ
すっかり忘れてた


体が軽い、疲れもしない、明日も決まっていない、レールもない、何にも染まっていない、何のしがらみもない、未来は無限、何をしてもいい、
私たちはいま何でもできる!

アレしたいコレしたいと思うことがいくつも湧いてきます。

あの頃の私たちはそれをやらなかったけど、今この再スタートした私たちなら、それをやれるし、今すぐやってみたい。

三日坊主とかそんなことは気にしない。
失敗したってカッコ悪くない。
笑われたって構やしない。
転んだところで死にはしない。

頭に流れる「どうせ上手くいかないからやめよう」なんて脳内アナウンス、ちゃんちゃらおかしい。
だって結局何もやらずに今日まで来てしまったんだから。

自分を止めるものは何も無い。
とにかくやろう、やってみよう!



もう一度人生を再生リピートをした私たちは無敵の快進撃です。

何が無敵かって、上手くいっても上手くいかなくても何も気にならないからです。

他の人たちは、歳相応の不安や心配に耳を貸しています。
でも私たちはそんなこと気にするはずもなく、自由気ままに、やれなかったことをやっているのでした。




たとえば一度クリアしたテレビゲームをもう一度やる時、私たちはどんなことをするでしょう。

真面目にただゴールを目指すのではあまりにも退屈です。刺激も何もない。
なので、自ら刺激を求めてわざと馬鹿なことやったり危ないことをやったり、前回は行かなかった寄り道をしたりするでしょう。

はた目を気にすることなく、もちろん何か打算があるでもなく、ただ単純に自分が楽しむために。

それが出来るのはゴールに辿り着くことを知ってるからです。

一方、まだ見ぬゴールに向かっている時は最後まで行けるのか分からず突き進んでいきます。
ゴールに辿り着いてゲームをクリアしたい、ホッとしたいという気持ちが頭の中を占めています。
その結果、足元だけ見て黙々と山道を歩き続けるような状態になるのでした。

しかし一度ゴールしてしまうと、今度はクリアの達成感が追えなくなるので、過程そのものを楽しみたくなります。
もうゴールに着くのが目的ではなくなる。
だから顔をあげてまわりの景色を楽しんだり、あるいは脇道に逸れたりと、心は自由自在に飛びまわります。

まして、テレビゲームと違ってこのリアルゲームはそもそも決められたゴールが存在しません。

どのゴールが正解だなんてものは無い。
全てがゴールですので、ゴールに辿り着くのが目的というのは、もとより成り立たない話であるわけです。

ですからゴールした時に得られるのは達成感などでなく、そこに至るまでの満足感ということになるのです。

テレビゲームでいえば、それはまさに再プレイをする時と同じ状態だと言えます。





子供たちはわざと危ないことをやります。

真面目に型にはまることが生理的に苦痛極まりなく、なぜか危ないギリギリをやると心の底から喜びが湧き上がる。

馬鹿なことよしなさい、何でわざわざそんなことするの、と母親に怒られる。
その言葉の意味は頭で理解できるものの、奥底から湧き上がる喜びは抑えきれない。
説明はできないけれども、心から楽しいのだから仕方ない。

しかしそれが大人になるにつれ、苦痛が麻痺して退屈さに耐えられるようになっていく。
さらには理屈を重ねるほどに頭の中に住むようになり感覚受信が薄れていく。
苦労を知って損得勘定でリスクを避けるようになっていく。

先々のことなんて考えず、今この瞬間に生きていた子供の頃、わざと違ったことや危ないことをやりたくなるのが当たり前でした。

つまりそれこそが、天地宇宙と一つになった私たちの本当の心であるということです。

その結果怪我をしたからといって自分のやったことが間違いだったなんて思うことはありませんでした。
危ないギリギリをやっている時の高揚感はリアルなものだったはずです。
細胞の奥底から湧き上がる喜びだったはずです。

怪我なんていうものは単なる一つの結果に過ぎません。
いや、それどころか私たちが勝手に白黒判断をつけたものでしかないわけです。

血を流したから不幸だ失敗だ不正解だなんて誰が決めたのでしょうか。
それは単に生存本能から導き出された答えに過ぎません。
親から叱られた小言に過ぎません。

そこで得た喜びがあったのならば、それが全てなのです。





因果関係なんてものは単なる物理方程式に過ぎません。
それは白黒評価されるものではなく単なる数式です。

危ない橋を渡って怪我をしたというのは、例えば湯が冷めて水になるのと同じで、ただの現象に過ぎないわけです。

安定、安全というのは平凡、退屈と紙一重です。

何故わざわざ危ないことをしたくなるのか、それは未知に対する欲求そのものだからです。

原始人類が温暖な土地を離れ、わざわざ過酷な土地へと開拓を進めて行ったのも、それが根っこにありました。

子供の頃、危ないことの先にあった高揚感は抑えがたいものでした。
同じように、フロンティア精神に駆られて命懸けで大海原へ飛び出した先人たちの心にはキラキラと輝く虹色の景色があったわけです。

未知というのは現状維持とは真逆のものだと言えます。
つまりそれは安定安全と逆のものと言うことになります。

安定安全の中に居る人から見れば、その外というのはリスクを伴うものに映ります。
でも離れたところから眺めれば、それはリスクなどでなく単に未知という表現のほうが妥当と思うでしょう。

中に居る人にとってはその外というのはハラハラとドキドキが共存する複雑な世界であり、人によっては恐怖にも思えるわけです。

見えない先の景色というのは、ケンケンパの次の一歩、地面に描かれた次の輪っか(サークル)のようなものです。
そこに立って見える景色というのは、一歩手前では決して見えないものです。

怖がりではあればあるほど、見えない景色を必死に想像して、確実に安心できるようになるまでは踏み出せなくなります。
そのうち「足をくじいたらどうしよう」とか余計な心配が始まって、結局踏み出さないことを正当化することになっていきます。

でも、未知に対する衝動というのは誰もが必ず胸に抱いているものです。
宇宙のこと、生命の仕組み、古代の謎など、挙げればキリがありません。

既知というのはすでに今このサークルの中にあるものです。
いわば安全、安心の象徴です。

それに対して未知というのは間違いなく、今のサークル(輪っか)ではなく、次の一歩にあるものです。
それは安全安心を投げ打って飛び出した先にあるものということです。

つまり危うさと未知というのは裏表であるわけです。

身近なところでもアスレチックやジェットコースターなど、わざわざ非日常的な危うさを求めるのは、ひとえに深層意識の潜在的な衝動を満たす
ためだと言えます。

子供の頃はわざわざ危ないことを喜びました。
それは未知を求める魂の咆哮であったわけです。

それが今の私たちは危ないからといって次の一歩を踏み出せずにいる。
現状が壊されてしまうかもしれない、何かトンデモナイことが起きてしまうかもしれない…

でも危ないという気持ちこそが、その一歩が未知であることの証明に他なりません。

「危ない」と思ったならば、それが逆に正解であることを示唆しているわけです。

「危ない橋を渡りたい」

それが本当の私たちの思いなのです。





(後編につづく)



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