年が明けて早3ヶ月が経ちました。
嵐の前の静けさと言われるように、物事というものは或るとき突然にして変わるものではなく、すでに目に見えない形で始まっているものです。
そういう意味で、私たちは激動の真っただ中にいると言えるかもしれません。
水面下には大きなうねりがあります。
しかし表の顔はいたって静かです。
ほんのわずか、変化とも言えないような変化があるだけです。
それが気がついてみればダイナミックな変化と成ります。
地球の姿こそは、まさにそれそのものです。
穏やかな地殻の下ではマントルがパワフルにうねり、時とともに海は山に、山は海に変化し、大地が海を渡っていきます。
大地が大きく変化していくのが自然の姿ならば、私たちの世界が大きく変化していくのも自然の姿と言えるでしょう。
さて今日は、年明け一発目の再出発として今一度原点に立ち返り、「今ここ」について時間・空間の話を交えながら進めていきたいと思います。
見える世界は、穏やかな静的世界。
見えない世界は、エネルギッシュな動的世界。
今年も宜しくお願い致します。
さて、この世というのはスクリーンに透過された幻影に喩えることができました。
そして一瞬というのは一枚絵そのもので、それが一枚一枚、隙間なく存在しているのがこの世の構図でした。
もちろんこれは喩え話ですから、はかない夢まぼろしだから軽んじてもいいということではありません。
そうした一枚一枚の絵画が私たちの前を次々と通り過ぎる、もしくは私たちがその一枚一枚を通り抜けて行っている。
それが「時間」という感覚になっています。
そして本当の私たちというのはスクリーンの上ではなく、もちろんフィルムの上でも、映写機の中でもなく、それら全てを俯瞰する客席に居る
のでした。
そうして、私たちの魂が映写機の光源のようにフィルムへ照射されると、その先のスクリーンに一枚絵が映し出されます。
それが今この一瞬であるわけです。
実際の映画でもスクリーンを離れてフィルムそのものを見てみますと、そこには始まりの一コマから終わりの一コマまでが存在しています。
同様に、スクリーンに映し出される私たちというのもフィルムの一コマですから、スクリーンを離れれば「過去の私たち」も「未来の私たち」も
すべて同時に存在しているということになります。
ここまではこれまでお伝えしてきたとおりです。
(※バシャール 2017『世界は見えた通りではない』参照/ヴォイス出版)
「過去も未来も今この瞬間に存在している」というのは何度聞いても感覚として理解しにくいところかもしれません。
話を先へ進める前に、まずこの部分について説明したいと思います。
今この瞬間において知覚している私たちの魂というのは氷山の一角でしかありません。
それは氷床の割れ目からアザラシがヒョコッと顔を出している姿に喩えることが出来ます。
もちろん氷の下には胴体があります。
この場合、氷から上が現実で、その下は非現実の世界ということになります。
ここまでは漠然と感じているところではないかと思います。
そこで時間の経過というものを考えると、「まずこの穴」「次はこの穴」というように順番に顔を出していく姿をイメージするかもしれません。
私たちが一枚絵を次々と通り抜ける、あるいは一枚絵が次々と私たちを通り抜ける、という表現からすればそのようなイメージになるのが当然
です。
アザラシの頭の一つに意識をフォーカス(集中)させている立場に立てば、次はこっち、その次はこっちと移動しているように感じるのが自然で
しょう。
ただ実際は「全ての穴から顔が出ている」というのが真実です。
地平線の果てまで広がる氷の世界で、見渡すかぎり無限にアザラシが顔を出しているというのがこの世の姿です。(ちょっとしたホラーですが)
そのどれもが自分であり、それぞれが今この瞬間それぞれの一枚絵を体験しているということになります。
順番に、ではなく、同時に味わっています。
そんなことがあり得るのかというと、それらのアザラシは胴体から下ですべて繋がっているので、ごく当たり前にあるということになります。
(絵的にはますますホラーですが 笑)
例えば、私たちの手には指が5本ついています。
それらはすべて私たちに間違いありませんし、もちろん何の違和感もありません。
そして小指の先へ意識を向ければそこを感じ取れます。
人差し指へ意識を向ければ人差し指を、親指に向ければ親指を感じ取れます。
そして小指を感じ取っている時、他の指の感覚は消えています。でも他の指が無くなったわけではありません。
意識は一つにしか向けられませんが、間違いなく他の指は存在していますし、それぞれ今この瞬間を体験しています。
水の中から五本の指を出しますと、水面上の世界ではそれぞれが別々の存在に見えます。
今この瞬間を体験している私たちというのは、小指に意識を向けた状態と同じということです。
他の指は未来や過去の私たちです。
先ほどの雪氷の世界で譬えるなら、無限に顔を出しているアザラシの中のアザラシAが今この瞬間の私たちということになります。
5本指も無限のアザラシも同じことを表現しています。
すべてが存在していて、その中のどこに意識をフォーカスしているかという話です。
一枚の同じ絵画だけを味わうだけではなく、次々と異なる一枚絵を味わうために、この世というのは存在します。
というより、異なる一枚絵を味わっていくという目的がまずあって、結果としてそれがこの世というものに成ったと言った方が正確でしょう。
小指だけを意識し続けるのではなく、小指の次は薬指、その次は中指、、、といったようにそれぞれを次々と味わっているということです。
何故そうなっているかといえば、新しい思い、新しい観測というのは、新しい刺激からしか生まれないからです。
私たちの根源は、まず初めに自己認識のために分化(投影)を行い、そしてさらなる分化を重ねて様々な経験を味わっていくことを目指しました。
経験によって生じる反応、感情や思い、気づきといったものを「観察」することが学び(喜び)と成っているからです。
ですから、この世は凝り固まったり止まったりすることは有り得ません。
流動こそが根源であり、根源の照射たる「一瞬」が、流動に応じて差し代わることによって、この世というものが実体化されているからです。
同じものを観察し続けてもネタに尽きてしまうだけです。
天地に停滞はない。
とどまることは無い。
「いつもと変わらぬ平穏な日々を過ごしたい」という願望は本質的に矛盾した表現だということです。
もしあなたが安定した状態を安心と感じるなら、流れ続けることが一番の安定状態ですから、流動こそが安心ということになります。
変化というのは流動の産物なので「変化こそは安定の実証」ということになります。
変化というものに不安を感じるというのは、天地の理に照らせば本末転倒であるわけです。
その不安の出どころは身のまわりの変化そのものにあるのではなく、変わることを良しとしない自身の信念体系にあるということです。
アザラシの景色に戻りますと、過去の私たちも未来の私たちも無限に存在しているわけですが、単に一つ一つを味わうだけならばその順番は
ランダムであっても何の問題もないはずです。
実は、私たちは一枚絵を一枚絵として味わうのと同時に、その一つ一つを一方向に順番に味わうことによって「変化」というものを体感しています。
つまり、一瞬と連続性、ダブルの経験を得ようと考えたわけです。
私たちは一方向の流れとして順番に味わうことを選択しました。
それが時間として今感じ取っているものです。
「時間は存在せず概念でしかない」と多くの物理学者が言っているのはそういうことです。
私たちが選択した体験方法の、その結果として生じた副産物が時間というわけです。
水面から突き出した五本指で言えば、今の自分は中指、2日前の自分が小指で、2日後の自分が親指というような話です。
全てが存在し、全てが私です。
2日前は小指に意識が向いていて、今は中指にフォーカスしていて、2日後は親指にフォーカスしている。
意識の向け先が次々と変わっているだけで、2日前の私は今この瞬間も存在しているわけです。
昨日の私も、明日の私も、今ここに居る。
言いかえれば、昨日や明日の私たちは今この瞬間においてそっちの私たちが担当しているということです。
全ての瞬間に私たちが存在していて、それはその私たちが受け持っている。
今この私たちが心配しなくても、そっちはそっちでちゃんと何かしらを味わっている。
だから、私たちは今この瞬間だけをしっかりと味わっていればいい。
「よっしゃ!こっちは任せとけ!」
それぞれの私たちにとって、それが共通して言えるわけです。
過去の後悔や未来の不安へ心を向ける必要は全くないということです。
それは、今この自分自身の存在を否定することになってしまいます。
(つづく)
嵐の前の静けさと言われるように、物事というものは或るとき突然にして変わるものではなく、すでに目に見えない形で始まっているものです。
そういう意味で、私たちは激動の真っただ中にいると言えるかもしれません。
水面下には大きなうねりがあります。
しかし表の顔はいたって静かです。
ほんのわずか、変化とも言えないような変化があるだけです。
それが気がついてみればダイナミックな変化と成ります。
地球の姿こそは、まさにそれそのものです。
穏やかな地殻の下ではマントルがパワフルにうねり、時とともに海は山に、山は海に変化し、大地が海を渡っていきます。
大地が大きく変化していくのが自然の姿ならば、私たちの世界が大きく変化していくのも自然の姿と言えるでしょう。
さて今日は、年明け一発目の再出発として今一度原点に立ち返り、「今ここ」について時間・空間の話を交えながら進めていきたいと思います。
見える世界は、穏やかな静的世界。
見えない世界は、エネルギッシュな動的世界。
今年も宜しくお願い致します。
さて、この世というのはスクリーンに透過された幻影に喩えることができました。
そして一瞬というのは一枚絵そのもので、それが一枚一枚、隙間なく存在しているのがこの世の構図でした。
もちろんこれは喩え話ですから、はかない夢まぼろしだから軽んじてもいいということではありません。
そうした一枚一枚の絵画が私たちの前を次々と通り過ぎる、もしくは私たちがその一枚一枚を通り抜けて行っている。
それが「時間」という感覚になっています。
そして本当の私たちというのはスクリーンの上ではなく、もちろんフィルムの上でも、映写機の中でもなく、それら全てを俯瞰する客席に居る
のでした。
そうして、私たちの魂が映写機の光源のようにフィルムへ照射されると、その先のスクリーンに一枚絵が映し出されます。
それが今この一瞬であるわけです。
実際の映画でもスクリーンを離れてフィルムそのものを見てみますと、そこには始まりの一コマから終わりの一コマまでが存在しています。
同様に、スクリーンに映し出される私たちというのもフィルムの一コマですから、スクリーンを離れれば「過去の私たち」も「未来の私たち」も
すべて同時に存在しているということになります。
ここまではこれまでお伝えしてきたとおりです。
(※バシャール 2017『世界は見えた通りではない』参照/ヴォイス出版)
「過去も未来も今この瞬間に存在している」というのは何度聞いても感覚として理解しにくいところかもしれません。
話を先へ進める前に、まずこの部分について説明したいと思います。
今この瞬間において知覚している私たちの魂というのは氷山の一角でしかありません。
それは氷床の割れ目からアザラシがヒョコッと顔を出している姿に喩えることが出来ます。
もちろん氷の下には胴体があります。
この場合、氷から上が現実で、その下は非現実の世界ということになります。
ここまでは漠然と感じているところではないかと思います。
そこで時間の経過というものを考えると、「まずこの穴」「次はこの穴」というように順番に顔を出していく姿をイメージするかもしれません。
私たちが一枚絵を次々と通り抜ける、あるいは一枚絵が次々と私たちを通り抜ける、という表現からすればそのようなイメージになるのが当然
です。
アザラシの頭の一つに意識をフォーカス(集中)させている立場に立てば、次はこっち、その次はこっちと移動しているように感じるのが自然で
しょう。
ただ実際は「全ての穴から顔が出ている」というのが真実です。
地平線の果てまで広がる氷の世界で、見渡すかぎり無限にアザラシが顔を出しているというのがこの世の姿です。(ちょっとしたホラーですが)
そのどれもが自分であり、それぞれが今この瞬間それぞれの一枚絵を体験しているということになります。
順番に、ではなく、同時に味わっています。
そんなことがあり得るのかというと、それらのアザラシは胴体から下ですべて繋がっているので、ごく当たり前にあるということになります。
(絵的にはますますホラーですが 笑)
例えば、私たちの手には指が5本ついています。
それらはすべて私たちに間違いありませんし、もちろん何の違和感もありません。
そして小指の先へ意識を向ければそこを感じ取れます。
人差し指へ意識を向ければ人差し指を、親指に向ければ親指を感じ取れます。
そして小指を感じ取っている時、他の指の感覚は消えています。でも他の指が無くなったわけではありません。
意識は一つにしか向けられませんが、間違いなく他の指は存在していますし、それぞれ今この瞬間を体験しています。
水の中から五本の指を出しますと、水面上の世界ではそれぞれが別々の存在に見えます。
今この瞬間を体験している私たちというのは、小指に意識を向けた状態と同じということです。
他の指は未来や過去の私たちです。
先ほどの雪氷の世界で譬えるなら、無限に顔を出しているアザラシの中のアザラシAが今この瞬間の私たちということになります。
5本指も無限のアザラシも同じことを表現しています。
すべてが存在していて、その中のどこに意識をフォーカスしているかという話です。
一枚の同じ絵画だけを味わうだけではなく、次々と異なる一枚絵を味わうために、この世というのは存在します。
というより、異なる一枚絵を味わっていくという目的がまずあって、結果としてそれがこの世というものに成ったと言った方が正確でしょう。
小指だけを意識し続けるのではなく、小指の次は薬指、その次は中指、、、といったようにそれぞれを次々と味わっているということです。
何故そうなっているかといえば、新しい思い、新しい観測というのは、新しい刺激からしか生まれないからです。
私たちの根源は、まず初めに自己認識のために分化(投影)を行い、そしてさらなる分化を重ねて様々な経験を味わっていくことを目指しました。
経験によって生じる反応、感情や思い、気づきといったものを「観察」することが学び(喜び)と成っているからです。
ですから、この世は凝り固まったり止まったりすることは有り得ません。
流動こそが根源であり、根源の照射たる「一瞬」が、流動に応じて差し代わることによって、この世というものが実体化されているからです。
同じものを観察し続けてもネタに尽きてしまうだけです。
天地に停滞はない。
とどまることは無い。
「いつもと変わらぬ平穏な日々を過ごしたい」という願望は本質的に矛盾した表現だということです。
もしあなたが安定した状態を安心と感じるなら、流れ続けることが一番の安定状態ですから、流動こそが安心ということになります。
変化というのは流動の産物なので「変化こそは安定の実証」ということになります。
変化というものに不安を感じるというのは、天地の理に照らせば本末転倒であるわけです。
その不安の出どころは身のまわりの変化そのものにあるのではなく、変わることを良しとしない自身の信念体系にあるということです。
アザラシの景色に戻りますと、過去の私たちも未来の私たちも無限に存在しているわけですが、単に一つ一つを味わうだけならばその順番は
ランダムであっても何の問題もないはずです。
実は、私たちは一枚絵を一枚絵として味わうのと同時に、その一つ一つを一方向に順番に味わうことによって「変化」というものを体感しています。
つまり、一瞬と連続性、ダブルの経験を得ようと考えたわけです。
私たちは一方向の流れとして順番に味わうことを選択しました。
それが時間として今感じ取っているものです。
「時間は存在せず概念でしかない」と多くの物理学者が言っているのはそういうことです。
私たちが選択した体験方法の、その結果として生じた副産物が時間というわけです。
水面から突き出した五本指で言えば、今の自分は中指、2日前の自分が小指で、2日後の自分が親指というような話です。
全てが存在し、全てが私です。
2日前は小指に意識が向いていて、今は中指にフォーカスしていて、2日後は親指にフォーカスしている。
意識の向け先が次々と変わっているだけで、2日前の私は今この瞬間も存在しているわけです。
昨日の私も、明日の私も、今ここに居る。
言いかえれば、昨日や明日の私たちは今この瞬間においてそっちの私たちが担当しているということです。
全ての瞬間に私たちが存在していて、それはその私たちが受け持っている。
今この私たちが心配しなくても、そっちはそっちでちゃんと何かしらを味わっている。
だから、私たちは今この瞬間だけをしっかりと味わっていればいい。
「よっしゃ!こっちは任せとけ!」
それぞれの私たちにとって、それが共通して言えるわけです。
過去の後悔や未来の不安へ心を向ける必要は全くないということです。
それは、今この自分自身の存在を否定することになってしまいます。
(つづく)