私たちは、「今」を存分に味わえるように、忘れるという能力を授かっています。
過去をいつまでも引きずらないで、今に集中できるようにとの天地の計らいです。
ただ、なかなか忘れられない思い出もあります。
あの頃に戻りたいという執着や、あの時のことは思い出したくないというトラウマがあると、心は過去に散れ散れになり忘れようにも忘れられ
なくなります。
見ようによっては、いくつにも分身しているような状態とも言えます。
今だけに心を向けていれば、過去の「今」は、時の流れとともに少しずつ薄まっていくようになっています。
しかし、その薄まっていく過去に自分の思いを塗り重ねてしまうと、今なお鮮明な記憶として残ってしまいます。
しかもこの場合、それは元の姿とは似て非なるものになっていくというややこしさがミックスされます。
実際はそこまでのものではなかったのに、思いが乗って美化されすぎたり、逆に恨みつらみで無惨に泥まみれにされたり。
そうなると私たちは、自分の創作物にしがみ付いているということになってしまいます。
そもそも、そこまで必死にならなくても過去が無くなることはありません。
忘れるという現象は、あたかも過去が消えてしまうかのような錯覚を生みますが、それはただ心の向き方の問題でしかなく、過去そのものは
何も変わらず存在しています。
いつでも私たちはそこに繋がることが出来るわけです。
ですから、忘れたら大変だとか、忘れたら冷たいなどと心配する必要はないということです。
今の瞬間それが頭に無かったとしても、心さえ向ければ、次の瞬間にはそれはすぐに蘇ります。
今の瞬間に「忘れている」ということは、むしろ今だけに集中できているということです。
そこが大事なのです。
「今」という一枚絵が隙間なく連なることで、私たちは「時間」という概念を作り出しています。
一つ一つの今は、その瞬間にしか存在していません。
それらがスムーズに差し替わることを私たちは「変化」として認識しています。
パラパラ漫画を早くやれば違和感なく受け入れられますが、今の私たちはまさにその状態といえます。
ですからそれをどんどん遅くしていけば、感覚的にこのことが分かってくるかと思います。
たとえば最近の写真立てには、デジタル画像が自動で差し変わるものがあります。
静止画が、時間とともに自動でスライドされていくやつです。
あるいは、プレゼン発表などのパワーポイント画面でもいいかもしれません。
こうしたものを想像すると、一つ一つの「今」が明確になってくると思います。
今そこに映っている静止画面が「今」の全てです。
その「今」にしがみつこうとしても、強制的に次の画面に切り替わっていくわけです。
「ちょっと待って、今のところまだ見てる途中!」と叫んでも、お構いなしに切り替わっていきます。
今の画面と前の画面とは、一から作り直された異なるものなのですが、ほとんど同じに見えるためにそのことを感じ取ることはできません。
そうしてその入れ替えを私たちは自然な「流れ」として受け入れることが出来ています。
実際にはトランプカードの全取っ替えなのですが、ほんの一部分だけのわずかな変化しか起きて無いと私たちは見なしているわけです。
とても良いと感じる一枚絵があったり、とても嫌だと感じる一枚絵があっても、静止画は強制的に
次の画面へとスライドしていきます。
あっ、と思う間もなく、次々と切り替わっていきます。
そこに執着しようにも、それが出来ないような仕組みになっているということです。
そうこうするうちにスライドはドンドンと進んでいきますので、遥か遠くへ去っていった一枚絵は、そこに心を向けようとしてもフォーカス
が緩んでいきます。
それを、私たちは「忘れる」という概念で捉えているのです。
それらの一枚絵は、今もすべて存在しています。
そこに心を向ければ、いつでも観られる。
それを、私たちは「思い出す」と言っています。
心のフォーカスが100%に近ければ近いほど、その景色も鮮明に見えるということになりますが、なかなか100%とはいきません。
そこで補正が働くわけですが、心が他の何かに囚われて本当の一枚絵に向いていなければ、それだけ補正が大きくなることになります。
心を向けるというのは、全てを向けるということです。
気持ちだけではなく、皮膚感覚など五感の全てがフル稼働の状態です。
心は時間とともに変化していきますので、他の五感まで薄まってしまうと、一枚絵そのものがボヤけていくことになります。
そういう意味では、何もかもすべてが天地に溶けあった状態になると、過去の一枚絵は、全てありのままの姿で鮮明に見えることになります。
死ぬ間際に観る走馬灯や、あるいは、死んだ後に観るかもしれない閻魔帳(閻魔画像)とは、そういうことなのかもしれません。
意識というものは色どりが付きやすいものですが「感覚」の方はそうではありません。
どのような観念に囚われようと感覚というのはなかなか変質しないものです。
ですから、感覚からのアプローチであれば過去の一枚絵へのフォーカス精度は高まるといえます。
実際、誰にでも五感がきっかけで過去を鮮明に思い出すといった経験があると思います。
草木や花の香り、食べ物の味、田舎の空気や風の匂い、肌感や手触り、街並みや家などの空間感覚。
それらが同期した瞬間、意識よりも感覚優位となり、想念や囚われが消し飛び、当時の自分、当時の世界に戻ります。
そうして、当時の一枚絵が鮮明に観える状態になると、記憶がはっきり戻ったとか、思い出がよみがえったという感覚になるわけです。
感覚や肉体というのは、心や意識よりも確実なものと言えます。
我欲の影響を受けず、状態として確立しています。
頭でアレコレ考えるよりも、実際に身体を動かして実行する方がいいというのは、そういうことでもあります。
この世では、行動こそが、今この一枚絵へ自分を刻みこめる唯一の方法です。
魂や心は、単に一枚絵を観ることしかできないのです。
”霊主体従”として、体を下位に置くのは間違いでしかありません。
魂や心も主であり、肉体もまた主なのです。
それぞれが別個のもの。
同じ一つのものとして考えるから、おかしくなるわけです。
この現実世界が光に輝いているように、この肉体も光に輝いています。
物質世界を卑下して、自分の肉体までも見下すのは、魂や心すらもフタしてしまうことになります。
さて、過去の一枚絵はすべてそのままの形で今も存在していると言いました。
ただ、当時それをどのように見ていたか、心をどのくらい向けていたか、どのような色をつけてしまっていたか…
それによって私たちの中では自分オリジナルの形で存在している状態となっています。
本来の絵がそこかしこに存在しているのに対して、そちらには目を向けず、自分の中の絵を見ているような状態とも言えます。
ですから、自分が見方を変えることによって、その一枚絵の景色(見え方)も変わってきます。
自分の心の純度・濃度によって、少しずつ変わっていくわけです。
それが「過去は変えられる」という意味になります。
これは比喩ではありません。
私たちにとって、そのように見えるものは、間違いなくそれが現実です。
たとえば何人かで同じ景色を見ていても、誰一人として同じものには見えていません。
それは、それぞれの想念や観念といった囚われがフィルターとなって、心を様々に彩っているからです。
ですから、今の私たちに見えている過去の一枚絵は、私たちにとっては本当にそれが現実です。
だかは、その景色が変わるということは、実際に自分の過去が変わるということになるわけです。
本当は、私たちがどのように見えているかということに関係なく、一枚絵は最初の姿のままで存在しています。
その一枚絵のありのままの姿というのは、光り輝くものであります。
それは、天地と溶け合い無限に広がった状態、すなわち天地の心になった時に感じられるものです。
視覚の次元ではなく、その中に溶け合っている状態であるため、それは観るのではなく、感じるということになります。
映画「レインマン」の題材にもなったサヴァン症候群の中には、過去に一度見た光景をまるで目の前にあるかのように鮮明に記憶している能力が
あります。
これなどは、本当に過去の一枚絵を、いま目の前で見ているということではないかと感じます。
何らかの方法で、その時の一枚絵に、自分の全てを100%向けている。
完全にその絵に溶け込んで一体になっている、ということではないかと思います。
サヴァンとは違いますが、未来や過去を観れる能力もこれと同じ理屈かもしれません。
過去が一枚絵として残っているということは、そこに繋がっているパーセンテージが、「記憶」に関係しているのではないかとも言えます。
そうなると、記憶は頭の中ではなく、頭の外(空間)に存在しているということになります。
そうなると老化とともに記憶が薄れてくるのも、過去へのリンクがうまく行かなくなっていると考えることができます。
また、直近の記憶は忘れてしまうけど昔の記憶は忘れないという現象は、今の自分より、当時の自分に理由があるのかもしれません。
活力溢れてた頃は、様々な五感鋭く全ての感覚で一枚絵をしっかりと感じていたので、いわば画素数(情報量)の多い状態となっており、
年老いて意識からのリンクするが弱まっても、五感でもって身体全体でその景色にリンクすることができる。
若い頃は肌感覚を開放させて景色に接していたため、年老いても感覚優位でそこに同期しやすいということなのではないかと思います、
さて、過去の次は未来です。
こうして連綿と連なる過去に対して、未来もまた無限の一枚絵が存在しています。
ただ未来に関しては、全方向にあらゆるパターンの一枚絵が存在していると言えます。
どの一枚絵にも私たちが描き込まれていて、そのうちのどれか一枚に、私たちの全て(心と魂と感覚)が向くことでそれが「今」となります。
これは、私たちの行動が刻まれることで一枚絵が完成するともいえますし、すでに描き込まれている一枚絵のうち、どれに心を向けるかで
それが行動の刻まれた現実になるともいえます。
いずれもどちら側から見るかの違いであって、どちらも同じことを言っています。
そして、世の中にはこうした仕組みを踏まえて、自分の望む形を強くイメージしてそこに心を向けることで現実化させるというテクニックが
あります。
心だけでなくその他のこともそこに向かなければ現実にはならないため、1%や2%といった弱い状態から、少しずつ10%、20%と積み上げ
て確率を上げていくわけです。
ただ、こうしたテクニックは明らかに囚われや執着を強化させる危険があるので、あまりお薦めできません。
過去の景色でさえも、私たちは曇った目でしか見られていないように、未来の場合も、狭い視野でしか見えていないからです。
仮にテクニック的なことで想いが実現したとしても、そこに我欲が入ってしまっている時は、その種を蒔いてしまうことになります。
自分の視野には夢描いたものが現実化しているように映ふかもしれませんが、その視野の外、つまり見えていないところでは種が育っていくと
いうことです。
蒔いた種は、自分で刈ることになります。
その芽というものは、見えていなかった場所に目を向けさせるためのものであり、視野を広げさせるものですから、否定したり忌み嫌うもの
ではありません。
囚われという重荷をおろすために、心を広げ、軽くしてくれるもの。まさにお陰様です。
ですから、ぶっちゃけ、この一連の流れに良いも悪いもなく、ただ世の中うまく出来ているということでしかありません。
要は、虫のいい話などないということです。
囚われを無くすにも色々な道があります。
エネルギーを送らないようにして執着を小さくしていく道もあれば、逆に、そこにガンガンと栄養を注ぎまくって破裂させる道もあります。
前者は、大ケガはしないけども根治するのに時間がかかるものですし、後者は、大ケガ一発で根っこから治るかもしれませんが、最後のギリギリ
のところでさらに酷い執着へ飛び移って逃げるというリスクもあります。
あとは好みの問題です。
いずれにしても執着に囚われ続けると、何も見えない何も聞こえない世界から抜け出せなくなってしまうので、私たちの芯の部分がそれを
どこまで耐えられるかということに尽きます。
人間考えの狭い視野に固執せず、天地にまかせてまだ見ぬ世界に飛び込んだ方が、ずっと楽しめるのが事実です。
私たちの目には、一枚絵の全景は見えていないものです。
見えているつもりになっていても、やはり、それは一部でしかないのです。
天地の心になって、目の前の「今」をそのまま受け入れますと、これまで見えていなかったものが見えてくるようになります。
過去の一枚絵は全てそのまま存在していますし、未来の一枚絵もそのまま存在しています。
ですから、心配しないで全て手放していいわけです。
この、前後左右上下に広がる無限の時空のなかで、今の私たちはその中心にいます。
それを全身に感じることが、目の前の今をより深く味わえることに繋がっていきます。
そして、それら無限の一枚絵をスライドさせているのは天地の力です。
私たちの目には見えない、数多くのお蔭さまです。
この大河に乗って、数々の一枚絵が、私たちの目の前に現われます。
その流れに逆らい、ガリガリ(我利我利)と自分好みの一枚絵に辿り着くこともあるでしょう。
あるいは、不安や恐れに手足を丸めて、川の底に沈むこともあるでしょう。
そしてまた、何かの一枚絵にしがみついて、激流の水しぶきに苦しむことだってあるでしょう。
そのどれもこれもが、尊い経験に変わりありません。
どれが正解ということはないわけです。
ただ、もしも私たちが、もっとこの世界を面白く感じたい、もっと楽しみたいと思うのならば、大河の流れやお蔭さまの存在へ心を開いていく
のがいいということです。
私たちの視野を遥かに上まわる、天地の視点にまかせれば、より味わい深い一枚絵が姿を現わす
ことでしょう。
そして、その一枚絵に対して100%フルオープンの天地の心を向けることができれば、さらに深い味わいを得ることができるわけです。
ですから、行き着くところは同じになります。
ご先祖様や天地宇宙のお蔭さまに感謝し、「今」に集中する。
それが、この世界を最大限に楽しむための秘訣です。
天地は、素直な子どもには最高の遊び場所をプレゼントしてくれるということです。
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過去をいつまでも引きずらないで、今に集中できるようにとの天地の計らいです。
ただ、なかなか忘れられない思い出もあります。
あの頃に戻りたいという執着や、あの時のことは思い出したくないというトラウマがあると、心は過去に散れ散れになり忘れようにも忘れられ
なくなります。
見ようによっては、いくつにも分身しているような状態とも言えます。
今だけに心を向けていれば、過去の「今」は、時の流れとともに少しずつ薄まっていくようになっています。
しかし、その薄まっていく過去に自分の思いを塗り重ねてしまうと、今なお鮮明な記憶として残ってしまいます。
しかもこの場合、それは元の姿とは似て非なるものになっていくというややこしさがミックスされます。
実際はそこまでのものではなかったのに、思いが乗って美化されすぎたり、逆に恨みつらみで無惨に泥まみれにされたり。
そうなると私たちは、自分の創作物にしがみ付いているということになってしまいます。
そもそも、そこまで必死にならなくても過去が無くなることはありません。
忘れるという現象は、あたかも過去が消えてしまうかのような錯覚を生みますが、それはただ心の向き方の問題でしかなく、過去そのものは
何も変わらず存在しています。
いつでも私たちはそこに繋がることが出来るわけです。
ですから、忘れたら大変だとか、忘れたら冷たいなどと心配する必要はないということです。
今の瞬間それが頭に無かったとしても、心さえ向ければ、次の瞬間にはそれはすぐに蘇ります。
今の瞬間に「忘れている」ということは、むしろ今だけに集中できているということです。
そこが大事なのです。
「今」という一枚絵が隙間なく連なることで、私たちは「時間」という概念を作り出しています。
一つ一つの今は、その瞬間にしか存在していません。
それらがスムーズに差し替わることを私たちは「変化」として認識しています。
パラパラ漫画を早くやれば違和感なく受け入れられますが、今の私たちはまさにその状態といえます。
ですからそれをどんどん遅くしていけば、感覚的にこのことが分かってくるかと思います。
たとえば最近の写真立てには、デジタル画像が自動で差し変わるものがあります。
静止画が、時間とともに自動でスライドされていくやつです。
あるいは、プレゼン発表などのパワーポイント画面でもいいかもしれません。
こうしたものを想像すると、一つ一つの「今」が明確になってくると思います。
今そこに映っている静止画面が「今」の全てです。
その「今」にしがみつこうとしても、強制的に次の画面に切り替わっていくわけです。
「ちょっと待って、今のところまだ見てる途中!」と叫んでも、お構いなしに切り替わっていきます。
今の画面と前の画面とは、一から作り直された異なるものなのですが、ほとんど同じに見えるためにそのことを感じ取ることはできません。
そうしてその入れ替えを私たちは自然な「流れ」として受け入れることが出来ています。
実際にはトランプカードの全取っ替えなのですが、ほんの一部分だけのわずかな変化しか起きて無いと私たちは見なしているわけです。
とても良いと感じる一枚絵があったり、とても嫌だと感じる一枚絵があっても、静止画は強制的に
次の画面へとスライドしていきます。
あっ、と思う間もなく、次々と切り替わっていきます。
そこに執着しようにも、それが出来ないような仕組みになっているということです。
そうこうするうちにスライドはドンドンと進んでいきますので、遥か遠くへ去っていった一枚絵は、そこに心を向けようとしてもフォーカス
が緩んでいきます。
それを、私たちは「忘れる」という概念で捉えているのです。
それらの一枚絵は、今もすべて存在しています。
そこに心を向ければ、いつでも観られる。
それを、私たちは「思い出す」と言っています。
心のフォーカスが100%に近ければ近いほど、その景色も鮮明に見えるということになりますが、なかなか100%とはいきません。
そこで補正が働くわけですが、心が他の何かに囚われて本当の一枚絵に向いていなければ、それだけ補正が大きくなることになります。
心を向けるというのは、全てを向けるということです。
気持ちだけではなく、皮膚感覚など五感の全てがフル稼働の状態です。
心は時間とともに変化していきますので、他の五感まで薄まってしまうと、一枚絵そのものがボヤけていくことになります。
そういう意味では、何もかもすべてが天地に溶けあった状態になると、過去の一枚絵は、全てありのままの姿で鮮明に見えることになります。
死ぬ間際に観る走馬灯や、あるいは、死んだ後に観るかもしれない閻魔帳(閻魔画像)とは、そういうことなのかもしれません。
意識というものは色どりが付きやすいものですが「感覚」の方はそうではありません。
どのような観念に囚われようと感覚というのはなかなか変質しないものです。
ですから、感覚からのアプローチであれば過去の一枚絵へのフォーカス精度は高まるといえます。
実際、誰にでも五感がきっかけで過去を鮮明に思い出すといった経験があると思います。
草木や花の香り、食べ物の味、田舎の空気や風の匂い、肌感や手触り、街並みや家などの空間感覚。
それらが同期した瞬間、意識よりも感覚優位となり、想念や囚われが消し飛び、当時の自分、当時の世界に戻ります。
そうして、当時の一枚絵が鮮明に観える状態になると、記憶がはっきり戻ったとか、思い出がよみがえったという感覚になるわけです。
感覚や肉体というのは、心や意識よりも確実なものと言えます。
我欲の影響を受けず、状態として確立しています。
頭でアレコレ考えるよりも、実際に身体を動かして実行する方がいいというのは、そういうことでもあります。
この世では、行動こそが、今この一枚絵へ自分を刻みこめる唯一の方法です。
魂や心は、単に一枚絵を観ることしかできないのです。
”霊主体従”として、体を下位に置くのは間違いでしかありません。
魂や心も主であり、肉体もまた主なのです。
それぞれが別個のもの。
同じ一つのものとして考えるから、おかしくなるわけです。
この現実世界が光に輝いているように、この肉体も光に輝いています。
物質世界を卑下して、自分の肉体までも見下すのは、魂や心すらもフタしてしまうことになります。
さて、過去の一枚絵はすべてそのままの形で今も存在していると言いました。
ただ、当時それをどのように見ていたか、心をどのくらい向けていたか、どのような色をつけてしまっていたか…
それによって私たちの中では自分オリジナルの形で存在している状態となっています。
本来の絵がそこかしこに存在しているのに対して、そちらには目を向けず、自分の中の絵を見ているような状態とも言えます。
ですから、自分が見方を変えることによって、その一枚絵の景色(見え方)も変わってきます。
自分の心の純度・濃度によって、少しずつ変わっていくわけです。
それが「過去は変えられる」という意味になります。
これは比喩ではありません。
私たちにとって、そのように見えるものは、間違いなくそれが現実です。
たとえば何人かで同じ景色を見ていても、誰一人として同じものには見えていません。
それは、それぞれの想念や観念といった囚われがフィルターとなって、心を様々に彩っているからです。
ですから、今の私たちに見えている過去の一枚絵は、私たちにとっては本当にそれが現実です。
だかは、その景色が変わるということは、実際に自分の過去が変わるということになるわけです。
本当は、私たちがどのように見えているかということに関係なく、一枚絵は最初の姿のままで存在しています。
その一枚絵のありのままの姿というのは、光り輝くものであります。
それは、天地と溶け合い無限に広がった状態、すなわち天地の心になった時に感じられるものです。
視覚の次元ではなく、その中に溶け合っている状態であるため、それは観るのではなく、感じるということになります。
映画「レインマン」の題材にもなったサヴァン症候群の中には、過去に一度見た光景をまるで目の前にあるかのように鮮明に記憶している能力が
あります。
これなどは、本当に過去の一枚絵を、いま目の前で見ているということではないかと感じます。
何らかの方法で、その時の一枚絵に、自分の全てを100%向けている。
完全にその絵に溶け込んで一体になっている、ということではないかと思います。
サヴァンとは違いますが、未来や過去を観れる能力もこれと同じ理屈かもしれません。
過去が一枚絵として残っているということは、そこに繋がっているパーセンテージが、「記憶」に関係しているのではないかとも言えます。
そうなると、記憶は頭の中ではなく、頭の外(空間)に存在しているということになります。
そうなると老化とともに記憶が薄れてくるのも、過去へのリンクがうまく行かなくなっていると考えることができます。
また、直近の記憶は忘れてしまうけど昔の記憶は忘れないという現象は、今の自分より、当時の自分に理由があるのかもしれません。
活力溢れてた頃は、様々な五感鋭く全ての感覚で一枚絵をしっかりと感じていたので、いわば画素数(情報量)の多い状態となっており、
年老いて意識からのリンクするが弱まっても、五感でもって身体全体でその景色にリンクすることができる。
若い頃は肌感覚を開放させて景色に接していたため、年老いても感覚優位でそこに同期しやすいということなのではないかと思います、
さて、過去の次は未来です。
こうして連綿と連なる過去に対して、未来もまた無限の一枚絵が存在しています。
ただ未来に関しては、全方向にあらゆるパターンの一枚絵が存在していると言えます。
どの一枚絵にも私たちが描き込まれていて、そのうちのどれか一枚に、私たちの全て(心と魂と感覚)が向くことでそれが「今」となります。
これは、私たちの行動が刻まれることで一枚絵が完成するともいえますし、すでに描き込まれている一枚絵のうち、どれに心を向けるかで
それが行動の刻まれた現実になるともいえます。
いずれもどちら側から見るかの違いであって、どちらも同じことを言っています。
そして、世の中にはこうした仕組みを踏まえて、自分の望む形を強くイメージしてそこに心を向けることで現実化させるというテクニックが
あります。
心だけでなくその他のこともそこに向かなければ現実にはならないため、1%や2%といった弱い状態から、少しずつ10%、20%と積み上げ
て確率を上げていくわけです。
ただ、こうしたテクニックは明らかに囚われや執着を強化させる危険があるので、あまりお薦めできません。
過去の景色でさえも、私たちは曇った目でしか見られていないように、未来の場合も、狭い視野でしか見えていないからです。
仮にテクニック的なことで想いが実現したとしても、そこに我欲が入ってしまっている時は、その種を蒔いてしまうことになります。
自分の視野には夢描いたものが現実化しているように映ふかもしれませんが、その視野の外、つまり見えていないところでは種が育っていくと
いうことです。
蒔いた種は、自分で刈ることになります。
その芽というものは、見えていなかった場所に目を向けさせるためのものであり、視野を広げさせるものですから、否定したり忌み嫌うもの
ではありません。
囚われという重荷をおろすために、心を広げ、軽くしてくれるもの。まさにお陰様です。
ですから、ぶっちゃけ、この一連の流れに良いも悪いもなく、ただ世の中うまく出来ているということでしかありません。
要は、虫のいい話などないということです。
囚われを無くすにも色々な道があります。
エネルギーを送らないようにして執着を小さくしていく道もあれば、逆に、そこにガンガンと栄養を注ぎまくって破裂させる道もあります。
前者は、大ケガはしないけども根治するのに時間がかかるものですし、後者は、大ケガ一発で根っこから治るかもしれませんが、最後のギリギリ
のところでさらに酷い執着へ飛び移って逃げるというリスクもあります。
あとは好みの問題です。
いずれにしても執着に囚われ続けると、何も見えない何も聞こえない世界から抜け出せなくなってしまうので、私たちの芯の部分がそれを
どこまで耐えられるかということに尽きます。
人間考えの狭い視野に固執せず、天地にまかせてまだ見ぬ世界に飛び込んだ方が、ずっと楽しめるのが事実です。
私たちの目には、一枚絵の全景は見えていないものです。
見えているつもりになっていても、やはり、それは一部でしかないのです。
天地の心になって、目の前の「今」をそのまま受け入れますと、これまで見えていなかったものが見えてくるようになります。
過去の一枚絵は全てそのまま存在していますし、未来の一枚絵もそのまま存在しています。
ですから、心配しないで全て手放していいわけです。
この、前後左右上下に広がる無限の時空のなかで、今の私たちはその中心にいます。
それを全身に感じることが、目の前の今をより深く味わえることに繋がっていきます。
そして、それら無限の一枚絵をスライドさせているのは天地の力です。
私たちの目には見えない、数多くのお蔭さまです。
この大河に乗って、数々の一枚絵が、私たちの目の前に現われます。
その流れに逆らい、ガリガリ(我利我利)と自分好みの一枚絵に辿り着くこともあるでしょう。
あるいは、不安や恐れに手足を丸めて、川の底に沈むこともあるでしょう。
そしてまた、何かの一枚絵にしがみついて、激流の水しぶきに苦しむことだってあるでしょう。
そのどれもこれもが、尊い経験に変わりありません。
どれが正解ということはないわけです。
ただ、もしも私たちが、もっとこの世界を面白く感じたい、もっと楽しみたいと思うのならば、大河の流れやお蔭さまの存在へ心を開いていく
のがいいということです。
私たちの視野を遥かに上まわる、天地の視点にまかせれば、より味わい深い一枚絵が姿を現わす
ことでしょう。
そして、その一枚絵に対して100%フルオープンの天地の心を向けることができれば、さらに深い味わいを得ることができるわけです。
ですから、行き着くところは同じになります。
ご先祖様や天地宇宙のお蔭さまに感謝し、「今」に集中する。
それが、この世界を最大限に楽しむための秘訣です。
天地は、素直な子どもには最高の遊び場所をプレゼントしてくれるということです。
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