風邪をひきました(笑)
体はダルいし、頭もボーッとするし、ホント嫌なもんですね。
なぜ人間は体調が悪くなるのか?と自問したところで、動物だって具合は悪くなるわけですから、
あれこれ考えても仕方ないところです。
ただ、理屈っぽい話は抜きにして、体調を崩した時の純粋な気持ちとしては、誰しも
「はやく元の状態に戻りたい」と思うでしょう。
痛みや苦しみ、シンドさを感じるのは、その対として、何のツラさもない状態があるからです。
あるいはまた、頭の回転が鈍り、体も思うように動かせなくなることで、不自由さを感じるように
なりますが、これもその対として、自由な状態があるからです。
何のツラさもなく自由な状態、それが普段の自分です。
アタリマエの状態を求めるということは、アタリマエのありがたさを感じている瞬間でも
あります。
ですから「ありがたいと心の底からしっかりと思わねば」などと気負う必要はありません。
求めているという時点で、すでに、ありがたく思っているわけですから。
病気というものは、自ら引き付けたものだったり、身体を休ませるためのものだったり、何かを
学ぶためだったり、その理由はいくつもあるわけですが、アタリマエの状態に気付かせるという点
だけはすべてに共通しています。
アタリマエなことは、常日頃それに馴染んでいると、完全に、空気のようになってしまいます。
その意味では、文字通りの「空気」と同じだといえるでしょう。
空気が無くなるとすぐ死ぬことは、誰もが頭で知っていますが、日常その有りがたさが思い浮かぶ
ことなんてまずありません。
そんなことは、溺れかかった時か、空気の汚れた場所にいった時くらいではないでしょうか。
つまり、普通ではない状態の時になって、ようやく気がつけるわけです。
こうした麻痺状態というのは、私たちのまわりに山ほどあります。
アタリマエすぎてスルーしてしまうわけです。
ただ、それ自体を責める必要はありません。
いつでもすべてに「ありがたいなぁ」と思えるようになるのは、何百年かあとのこと。
先送りにするのが賢明です(笑)
いま必要なのは、一つ一つの感謝。
たとえ次の瞬間に消滅してしまったとしても、アタリマエのことに心を向けて「ありがたいよなぁ」
と思えることが大事なのです。
元気になったらケロッと忘れて、遊びに興じてしまってもいいんです。
一瞬であっても刻むことに意味があるのです。
また、風邪をひくと頭がボーっとして、あれこれ考える気力も失せます。
日ごろの悩みや不満、不安も、風邪で頭痛がひどいとそれどころではなくなります。
いつもはあちこちに移ろう心が、強制的にジッと静かになって、謙虚になっていきます。
そして、体が弱ると、心まで弱ってくるものです。
「弱気になると治るものも治らない」とはいいますが、どうしても滅入ってしまった時には、
とことん弱気になってもいいんじゃないかと、私は思います。
「心を明るくしましょう」なんて言うのは無茶。無責任な気がします。
総じて、ハイテンションな人ほど、反動でガクンと沈むものです。
逆に、日頃から落ち着いている人は、体が弱ってもあまり波が起きません。
どっちがいいというのはありません。
前者も人間味があって、私はいいと思います。
ただ、我執が薄まってくると自然と落ち着いた心になっていくというだけです。
心が弱まると、自ずと押しが弱くなります。
ガリガリ(我利我利)しなくなります。
もともと他人をかえりみずブルド-ザーのような生き方をしていた人が、大病を患ってコロッと
変わったという話はよく聞きます。
弱さを知ったことによって、自分は一人だけで生きているのでは無いと気付いたり、あるいは
他人の弱さをおもんばかれるようになったということだと思います。
大病とまではいかなくても、普通の風邪でも、いつものように頭が回らず動けない自分に、
心が弱くなります。
ですから、しょっちゅう風邪をひくような人は、幸いかもしれません。
その都度、我欲を祓われているわけですから。
で、元気になったらなったで、そんなことなどスッカリ忘れて、ヤル気マンマンで走りまわる。
そのうち体調が悪くなると、また、アタリマエを欲してやまない。
やたら弱々しく、謙虚になる(笑)
でもそれが、それこそが、人間です。
自画自賛してもしょうがないですが、それでいいと思うのです。
悟りきった高僧のようになろうと思わなくても宜しいと。
いつかはそうなるかもしれないし、ならないかもしれない。
でも、今は、こんな人間くさい自分をやりたくて、ここに居るのです。
自分をトンデモナイ大物にしようだなんて、肩ひじを張ったところで疲れるだけです。
気の遠くなるほどの日々があるのですから、先のことは先に放ってしまっていいわけです。
「今」やれることを、「今」やるだけです。
来世でも来々世でも来々々世でも、いくらでも先はあります。
先のことなど考えず、悲しい時は悲しみきるのがいいですし、体調が悪いときはその体調の
悪さを、しっかりと受け入れるのがいいのです。
それを忌み嫌って、目をそむけたりしないということです。
どうせ何もできないわけですから、諦めて、何もしないということに徹しきる。
早く治そうとか、そういう先のことは考えない。
昨日の後悔も、明日の不安も、すべて放り投げ、
「あーあ、ホンマどうしょーもないわ」
と諦めきる。
良寛さんも
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候」
と仰ってます。
言葉がドギつすぎるので、打ちひしがれている人に向かってこれを言うのは酷だと思いますが、
ただ、言わんとしていることは、誰もが忌み嫌って避けようとする事柄であっても、目の前にある
「今」に100%心を向けるんだよ、ということなんだと思います。
そうすると、心が少しはラクになる。
「是は、これ災難をのがるゝ妙法にて候」
どうにもならないことをどうにかしようと思うのが、苦しみの元凶です。
仕方がないことは、仕方がないと諦めて、受け入れるわけです。
病気もそうですが、人生の浮き沈みなども、結果的にアタリマエに目を向けさせるための一助に
なっています。
アタリマエに対する麻痺状態がリセットされる瞬間です。
そして、「普通」であったことが、どれだけ有りがたかったか気がつくわけです。
ただ、あくまでそれは一助です。
それが全てではないので、そこで止まらないことが肝心です。
「必然だナンだ」と、思考停止はいけません。
また、これを逆にとらえて
「身のまわりにあるアタリマエのことに普段から感謝していれば、それを気付かせるための
病気や不幸も起きなくなる」
という考えかたもありますが、これは慎重になる必要があります。
確かに理屈としてはそうなりますが、結果を期待する思いが続いてしまうと、我執が強化される
だけで、むしろ逆効果になる恐れがあります。
一つ一つに、人間らしく一喜一憂する方が、私は透き通っているように思えます。
そうして、その時その時に感謝を刻めば、そのうち自然に身のまわりのことに感謝できるように
なっていくのです。
何のツラさもなく自由な状態。
今こうして風邪に苦しんでいますと、常日頃のアタリマエがなんて恵まれているのかと思います。
この世は、すでに極楽なんではないか、とさえ思います。
このアタリマエというものは、「お蔭さま」にも繋がるものです。
私も「今」だけは、頭で考えるのはやめて、心の底からジンワリと湧きあがる気持ちに、
耳を澄ませてみたいと思います。
体はダルいし、頭もボーッとするし、ホント嫌なもんですね。
なぜ人間は体調が悪くなるのか?と自問したところで、動物だって具合は悪くなるわけですから、
あれこれ考えても仕方ないところです。
ただ、理屈っぽい話は抜きにして、体調を崩した時の純粋な気持ちとしては、誰しも
「はやく元の状態に戻りたい」と思うでしょう。
痛みや苦しみ、シンドさを感じるのは、その対として、何のツラさもない状態があるからです。
あるいはまた、頭の回転が鈍り、体も思うように動かせなくなることで、不自由さを感じるように
なりますが、これもその対として、自由な状態があるからです。
何のツラさもなく自由な状態、それが普段の自分です。
アタリマエの状態を求めるということは、アタリマエのありがたさを感じている瞬間でも
あります。
ですから「ありがたいと心の底からしっかりと思わねば」などと気負う必要はありません。
求めているという時点で、すでに、ありがたく思っているわけですから。
病気というものは、自ら引き付けたものだったり、身体を休ませるためのものだったり、何かを
学ぶためだったり、その理由はいくつもあるわけですが、アタリマエの状態に気付かせるという点
だけはすべてに共通しています。
アタリマエなことは、常日頃それに馴染んでいると、完全に、空気のようになってしまいます。
その意味では、文字通りの「空気」と同じだといえるでしょう。
空気が無くなるとすぐ死ぬことは、誰もが頭で知っていますが、日常その有りがたさが思い浮かぶ
ことなんてまずありません。
そんなことは、溺れかかった時か、空気の汚れた場所にいった時くらいではないでしょうか。
つまり、普通ではない状態の時になって、ようやく気がつけるわけです。
こうした麻痺状態というのは、私たちのまわりに山ほどあります。
アタリマエすぎてスルーしてしまうわけです。
ただ、それ自体を責める必要はありません。
いつでもすべてに「ありがたいなぁ」と思えるようになるのは、何百年かあとのこと。
先送りにするのが賢明です(笑)
いま必要なのは、一つ一つの感謝。
たとえ次の瞬間に消滅してしまったとしても、アタリマエのことに心を向けて「ありがたいよなぁ」
と思えることが大事なのです。
元気になったらケロッと忘れて、遊びに興じてしまってもいいんです。
一瞬であっても刻むことに意味があるのです。
また、風邪をひくと頭がボーっとして、あれこれ考える気力も失せます。
日ごろの悩みや不満、不安も、風邪で頭痛がひどいとそれどころではなくなります。
いつもはあちこちに移ろう心が、強制的にジッと静かになって、謙虚になっていきます。
そして、体が弱ると、心まで弱ってくるものです。
「弱気になると治るものも治らない」とはいいますが、どうしても滅入ってしまった時には、
とことん弱気になってもいいんじゃないかと、私は思います。
「心を明るくしましょう」なんて言うのは無茶。無責任な気がします。
総じて、ハイテンションな人ほど、反動でガクンと沈むものです。
逆に、日頃から落ち着いている人は、体が弱ってもあまり波が起きません。
どっちがいいというのはありません。
前者も人間味があって、私はいいと思います。
ただ、我執が薄まってくると自然と落ち着いた心になっていくというだけです。
心が弱まると、自ずと押しが弱くなります。
ガリガリ(我利我利)しなくなります。
もともと他人をかえりみずブルド-ザーのような生き方をしていた人が、大病を患ってコロッと
変わったという話はよく聞きます。
弱さを知ったことによって、自分は一人だけで生きているのでは無いと気付いたり、あるいは
他人の弱さをおもんばかれるようになったということだと思います。
大病とまではいかなくても、普通の風邪でも、いつものように頭が回らず動けない自分に、
心が弱くなります。
ですから、しょっちゅう風邪をひくような人は、幸いかもしれません。
その都度、我欲を祓われているわけですから。
で、元気になったらなったで、そんなことなどスッカリ忘れて、ヤル気マンマンで走りまわる。
そのうち体調が悪くなると、また、アタリマエを欲してやまない。
やたら弱々しく、謙虚になる(笑)
でもそれが、それこそが、人間です。
自画自賛してもしょうがないですが、それでいいと思うのです。
悟りきった高僧のようになろうと思わなくても宜しいと。
いつかはそうなるかもしれないし、ならないかもしれない。
でも、今は、こんな人間くさい自分をやりたくて、ここに居るのです。
自分をトンデモナイ大物にしようだなんて、肩ひじを張ったところで疲れるだけです。
気の遠くなるほどの日々があるのですから、先のことは先に放ってしまっていいわけです。
「今」やれることを、「今」やるだけです。
来世でも来々世でも来々々世でも、いくらでも先はあります。
先のことなど考えず、悲しい時は悲しみきるのがいいですし、体調が悪いときはその体調の
悪さを、しっかりと受け入れるのがいいのです。
それを忌み嫌って、目をそむけたりしないということです。
どうせ何もできないわけですから、諦めて、何もしないということに徹しきる。
早く治そうとか、そういう先のことは考えない。
昨日の後悔も、明日の不安も、すべて放り投げ、
「あーあ、ホンマどうしょーもないわ」
と諦めきる。
良寛さんも
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候」
と仰ってます。
言葉がドギつすぎるので、打ちひしがれている人に向かってこれを言うのは酷だと思いますが、
ただ、言わんとしていることは、誰もが忌み嫌って避けようとする事柄であっても、目の前にある
「今」に100%心を向けるんだよ、ということなんだと思います。
そうすると、心が少しはラクになる。
「是は、これ災難をのがるゝ妙法にて候」
どうにもならないことをどうにかしようと思うのが、苦しみの元凶です。
仕方がないことは、仕方がないと諦めて、受け入れるわけです。
病気もそうですが、人生の浮き沈みなども、結果的にアタリマエに目を向けさせるための一助に
なっています。
アタリマエに対する麻痺状態がリセットされる瞬間です。
そして、「普通」であったことが、どれだけ有りがたかったか気がつくわけです。
ただ、あくまでそれは一助です。
それが全てではないので、そこで止まらないことが肝心です。
「必然だナンだ」と、思考停止はいけません。
また、これを逆にとらえて
「身のまわりにあるアタリマエのことに普段から感謝していれば、それを気付かせるための
病気や不幸も起きなくなる」
という考えかたもありますが、これは慎重になる必要があります。
確かに理屈としてはそうなりますが、結果を期待する思いが続いてしまうと、我執が強化される
だけで、むしろ逆効果になる恐れがあります。
一つ一つに、人間らしく一喜一憂する方が、私は透き通っているように思えます。
そうして、その時その時に感謝を刻めば、そのうち自然に身のまわりのことに感謝できるように
なっていくのです。
何のツラさもなく自由な状態。
今こうして風邪に苦しんでいますと、常日頃のアタリマエがなんて恵まれているのかと思います。
この世は、すでに極楽なんではないか、とさえ思います。
このアタリマエというものは、「お蔭さま」にも繋がるものです。
私も「今」だけは、頭で考えるのはやめて、心の底からジンワリと湧きあがる気持ちに、
耳を澄ませてみたいと思います。