宮崎監督の話が出ましたので、少し脱線したいと思います。
宮崎監督の作品はストーリー性も去ることながら、そのメッセージ性が秀逸ですよね。
なにより、観る人の意識によって、何通りにも楽しめるのが素晴らしいと思います。
ただ、色々なものを調整しなくてはいけないとなると、監督もストーリーや流れなんて無視
したくなることもあるでしょうが、エンターテイメントという一点は捨てられないという気持ち
から、そのあたりは妥協せずに苦労されてるのではないかと思います。
また、何らかの意図を持たせて押し付けになってしまうことを、とても嫌っているように
見えます。
新作発表の時に「どのようなことを伝えたかったのでしょうか?」と聞かれても、大抵は
「それは作品を観て下さい」で終わりだったように記憶しています。
これには、意識的に答えたくないという思いと、本当に答えられないという思いが入り
交ざっているように感じます。
意味を持たせた瞬間、視野が限定的になってしまい、観客はその枠の中で、そのレールに
乗って観てしまいます。
でも、世界というのはもっと自由で、もっと驚きに溢れているものです。
何も知らないから新鮮であり、分からないからビックリするわけです。
行く前から、その先を探るようなことをしては勿体ない。
ましてやエンターテイメントなんですから、心配しないで素っ裸になって楽しめばいい、
ということを、宮崎監督も意識されていたのではないかと思うのです。
観る立場からすれば、メッセージの方向性を知っておいた方が、道を誤ることなく安心して
進めるということなのかもしれませんが、それこそ日ごろの心癖そのもののような気がします。
範囲を想定してその中におさまろうとするのは、「自分の見たいものしか観えず、見たくない
ものは観えない」ことを求めていることになります。
そうして、想定外のことが目の前に現れるとストレスを感じ、世界を何とか自分のフィールド
の内に戻そうと四苦八苦します。
そのジレンマが、悩みや苦しみとなるわけです。
「こうなるとマズい」「こうならないようにしよう」「こうなったほうがいい」というのは、どれも
自分が決めつけた価値判断です。
そうすることで、天地に溢れる、様々な可能性を絞り込んでしまっています。
人間考えの狭い世界に閉じこもってしまうのは、とても勿体ない話です。
自分の知らないところにこそ、驚きやワクワクが転がっているのですから。
ちょうどそれは、ブックセンターに行った状況に喩えられるかもしれません。
いつもコレと決めた本しか買いに行かない人と、せっかくだからと色々なコーナーを歩いて
みる人。
「安心」「安全」「確実」と思っていることなど、その程度の差でしかないということです。
それならば、自分が思いもしなかった発見があったほうが、豊かで楽しい時間を過ごせる
のではないでしょうか。
何も知らない、何も決めつけないからこそ、新たなものに気付ける可能性があります。
だから宮崎監督は、決して自分の意図を伝えようとしなかったのかもしれません。
また、私たちは、作品というものはその作者の考えた枠(意図)の中に全ておさまっている
ものだと思いがちです。
でも「自分の考えはこうだ」「こういう意味なんだ」なんていうのは、子どもの作る粘土細工
でしかありません。
意味や目的で縛ってしまった瞬間、個人の所有物に成り果ててしまいます。
でも、私たちは自分がそのような生き方をしていると、他の人の生き方にもそういうものを
見ようとしてしまうのです。
人生も世界も、意味などに縛られることなく、もっと自由で様々な気づきに溢れています。
何が出るか分からない宝箱の世界へ、まさに虫採りにでも出かけるように、宮崎監督も自らを
縛ることなく、身を投じたのだと思います。
実際、監督の製作スタイルは、脚本が未完成のままの見切り発進で、あとはスタッフの作業と
同時進行で作り上げていく形だと聞きます。
あらかじめ決めつけず、限定的になってしまうことを避けて、天に放っている状態です。
ですから、いったいどういう展開になるのか、監督自身も全く分からないのだそうです。
もちろん、その代償として、いつも頭を絞り出すように考えに考えて、悩み抜いています。
そうした先に、ポッと思いもしなかった展開が生まれてくるわけです。
宮崎監督は、経験上それを知ったのかもしれません。
もしかしたら初めの頃は、脚本を作りこんでからスタートさせていたのが、面白味を追う
過程で、全てぶっ壊して新たに作り上げざるを得なかったのではないかと思うのです。
入れ物を先に作ることで、人間考えの限界を目の当たりにしてしまった、と。
そして商業的な気づかいや、派手なハリボテで満足できるようなタイプだったら、どこかで
妥協したでしょうに、職人気質がそれを許さなかったのではないかと思うのです。
そうして辿り着いた独特の作り方は、まさにツラく苦しい作業そのものでした。
来る日も来る日も、限界までギリギリと頭を絞り続けるわけですから。
最初に自分世界の脚本を作ってしまった方が、どんなに楽なことか。
「いったい何でこんなことを始めてしまったんだろうと、いつも思うんです」
と監督もこぼしています。
それでも、自分の中にしかないものを出すのではなく、自分の枠から抜け出して、何だか
分からないものを掴もうとモガき苦しんだ方が、たとえどんなにシンドくても、面白いものが
出来あがっていったということなんだと思います。
そして監督は、制作期間の後半になると頭のフタが空いてしまって、クランクアップ後には
現実社会に戻るために、山奥でのリハビリが必要になるそうです。
天地にフルオープンになってしまって、現実生活をするには不便な状態になってしまったと
いうことなのでしょうが、それだけ、限界まで頭を絞り出して自我を無くして天に放った
ということなのでしょう。
まさに今に100%集中しきった状態です。
ですから、もしかしたら監督自身が、意図やメッセージから一番遠い位置に居たのかもしれ
ません。
そして、監督もそれを自覚されていた、ないしは意識的にそれをされていたとするならば、
「自分はこう解釈してます」という表現にも奥深いものを感じます。
「みなさんも楽しんで下さい」という言葉も、謙遜ではなくて本心だったのかもしれません。
そして、ここに、明日を拓くヒントが見えてきます。
・あらかじめ決めつけない。一切の限定をしない。
・「何とかなる」と、絶対的な確信を持つ。
・しかし、なるにまかせるのではなく、そこで一所懸命にやる。
・どんな展開になろうと、拒絶せず受け入れる。
・そこで中途半端な意味付けをして止まらず(安住せず)、今に集中する。
・すると、思いもよらなかったものが、ジンワリと姿を現わしてくる。
・「おぉ〜」と驚きと喜びのなか、天地の計らいを全身に感じる。
・そして、それにしがみ付かず、また次の一歩に集中する。
意味なんてのはあとからついて来るものですし、なかには死ぬまで分からないことだって
山ほどあるわけです。
所詮は人の考えることなんですから、分からないことの方が多くてアタリマエということです。
ですから、分からない不安で立ち止まるよりも、分かった時の驚きとアハ体験を信じて、
先ずは前に進むほうが、手っ取り早いのです。
映画と同じく人生でも、ツラく苦しいことは、制作過程に必要欠くべからざるものです。
その先の、想定外の中にこそ、アハ体験が広がっているわけです。
ですから、いまツラかったり苦しかったりしても、そこで立ち止まったり、あるいは、そこに
留まる理由を考えたり、そこから先に進む意味を探したりしなくても大丈夫です。
自分の想定内におさまろうとしてしまうと、余計にシンドくなります。
驚きと喜びというものは、その向こうにしかありません。
アハ体験とは「まさか!」という想定外の驚きによって起きるものだそうです。
当然ながら、それは答えを知らないことが前提ですし、限界まで頭を絞る努力とストレスが
前提になるものです。
そのギャップが喜びを倍増させるというのですから、人間というのはうまい具合にできている
と思わざるをえません(笑)
冒頭にも書きましたが、宮崎作品が何通りにも楽しめるのは、それが意味や目的に縛られて
いないからだと思います。
そこには人生にも通じる、自由な世界が広がっています。
だから、老若男女問わず、これほどまでに日本国民に受け入れられているのでしょう。
世の中に映画は色々ありますが、それを楽しむコツはみんな同じです。
全体を俯瞰する自分と、感情移入して登場人物の気持ちになりきっている自分の、二つの
自分を上手に切り替えることです。
あらすじなんか知らない方が面白いに決まっていますし、先の展開が分からないからこそ
登場人物の今に集中できます。
そうしますと、物語の流れに乗って一喜一憂できて、泣いて笑えます。
そして物語全体をより深く味わえて、幸せな時を刻むことができます。
あっという間の二時間半でしたが、終わった時はスッキリ気分爽快です。
それは、私たちの人生そのものです。
なんだかんだあっても、あっという間の二時間半なのです。
私たちも、肩ひじ張って構えるのはやめて、ジブリ作品を楽しむくらいの気持ちで、心軽やかに
景色を楽しんでみてはどうでしょうか。
それが、この映画を深く、面白く味わうコツかもしれませんよ(笑)
にほんブログ村
宮崎監督の作品はストーリー性も去ることながら、そのメッセージ性が秀逸ですよね。
なにより、観る人の意識によって、何通りにも楽しめるのが素晴らしいと思います。
ただ、色々なものを調整しなくてはいけないとなると、監督もストーリーや流れなんて無視
したくなることもあるでしょうが、エンターテイメントという一点は捨てられないという気持ち
から、そのあたりは妥協せずに苦労されてるのではないかと思います。
また、何らかの意図を持たせて押し付けになってしまうことを、とても嫌っているように
見えます。
新作発表の時に「どのようなことを伝えたかったのでしょうか?」と聞かれても、大抵は
「それは作品を観て下さい」で終わりだったように記憶しています。
これには、意識的に答えたくないという思いと、本当に答えられないという思いが入り
交ざっているように感じます。
意味を持たせた瞬間、視野が限定的になってしまい、観客はその枠の中で、そのレールに
乗って観てしまいます。
でも、世界というのはもっと自由で、もっと驚きに溢れているものです。
何も知らないから新鮮であり、分からないからビックリするわけです。
行く前から、その先を探るようなことをしては勿体ない。
ましてやエンターテイメントなんですから、心配しないで素っ裸になって楽しめばいい、
ということを、宮崎監督も意識されていたのではないかと思うのです。
観る立場からすれば、メッセージの方向性を知っておいた方が、道を誤ることなく安心して
進めるということなのかもしれませんが、それこそ日ごろの心癖そのもののような気がします。
範囲を想定してその中におさまろうとするのは、「自分の見たいものしか観えず、見たくない
ものは観えない」ことを求めていることになります。
そうして、想定外のことが目の前に現れるとストレスを感じ、世界を何とか自分のフィールド
の内に戻そうと四苦八苦します。
そのジレンマが、悩みや苦しみとなるわけです。
「こうなるとマズい」「こうならないようにしよう」「こうなったほうがいい」というのは、どれも
自分が決めつけた価値判断です。
そうすることで、天地に溢れる、様々な可能性を絞り込んでしまっています。
人間考えの狭い世界に閉じこもってしまうのは、とても勿体ない話です。
自分の知らないところにこそ、驚きやワクワクが転がっているのですから。
ちょうどそれは、ブックセンターに行った状況に喩えられるかもしれません。
いつもコレと決めた本しか買いに行かない人と、せっかくだからと色々なコーナーを歩いて
みる人。
「安心」「安全」「確実」と思っていることなど、その程度の差でしかないということです。
それならば、自分が思いもしなかった発見があったほうが、豊かで楽しい時間を過ごせる
のではないでしょうか。
何も知らない、何も決めつけないからこそ、新たなものに気付ける可能性があります。
だから宮崎監督は、決して自分の意図を伝えようとしなかったのかもしれません。
また、私たちは、作品というものはその作者の考えた枠(意図)の中に全ておさまっている
ものだと思いがちです。
でも「自分の考えはこうだ」「こういう意味なんだ」なんていうのは、子どもの作る粘土細工
でしかありません。
意味や目的で縛ってしまった瞬間、個人の所有物に成り果ててしまいます。
でも、私たちは自分がそのような生き方をしていると、他の人の生き方にもそういうものを
見ようとしてしまうのです。
人生も世界も、意味などに縛られることなく、もっと自由で様々な気づきに溢れています。
何が出るか分からない宝箱の世界へ、まさに虫採りにでも出かけるように、宮崎監督も自らを
縛ることなく、身を投じたのだと思います。
実際、監督の製作スタイルは、脚本が未完成のままの見切り発進で、あとはスタッフの作業と
同時進行で作り上げていく形だと聞きます。
あらかじめ決めつけず、限定的になってしまうことを避けて、天に放っている状態です。
ですから、いったいどういう展開になるのか、監督自身も全く分からないのだそうです。
もちろん、その代償として、いつも頭を絞り出すように考えに考えて、悩み抜いています。
そうした先に、ポッと思いもしなかった展開が生まれてくるわけです。
宮崎監督は、経験上それを知ったのかもしれません。
もしかしたら初めの頃は、脚本を作りこんでからスタートさせていたのが、面白味を追う
過程で、全てぶっ壊して新たに作り上げざるを得なかったのではないかと思うのです。
入れ物を先に作ることで、人間考えの限界を目の当たりにしてしまった、と。
そして商業的な気づかいや、派手なハリボテで満足できるようなタイプだったら、どこかで
妥協したでしょうに、職人気質がそれを許さなかったのではないかと思うのです。
そうして辿り着いた独特の作り方は、まさにツラく苦しい作業そのものでした。
来る日も来る日も、限界までギリギリと頭を絞り続けるわけですから。
最初に自分世界の脚本を作ってしまった方が、どんなに楽なことか。
「いったい何でこんなことを始めてしまったんだろうと、いつも思うんです」
と監督もこぼしています。
それでも、自分の中にしかないものを出すのではなく、自分の枠から抜け出して、何だか
分からないものを掴もうとモガき苦しんだ方が、たとえどんなにシンドくても、面白いものが
出来あがっていったということなんだと思います。
そして監督は、制作期間の後半になると頭のフタが空いてしまって、クランクアップ後には
現実社会に戻るために、山奥でのリハビリが必要になるそうです。
天地にフルオープンになってしまって、現実生活をするには不便な状態になってしまったと
いうことなのでしょうが、それだけ、限界まで頭を絞り出して自我を無くして天に放った
ということなのでしょう。
まさに今に100%集中しきった状態です。
ですから、もしかしたら監督自身が、意図やメッセージから一番遠い位置に居たのかもしれ
ません。
そして、監督もそれを自覚されていた、ないしは意識的にそれをされていたとするならば、
「自分はこう解釈してます」という表現にも奥深いものを感じます。
「みなさんも楽しんで下さい」という言葉も、謙遜ではなくて本心だったのかもしれません。
そして、ここに、明日を拓くヒントが見えてきます。
・あらかじめ決めつけない。一切の限定をしない。
・「何とかなる」と、絶対的な確信を持つ。
・しかし、なるにまかせるのではなく、そこで一所懸命にやる。
・どんな展開になろうと、拒絶せず受け入れる。
・そこで中途半端な意味付けをして止まらず(安住せず)、今に集中する。
・すると、思いもよらなかったものが、ジンワリと姿を現わしてくる。
・「おぉ〜」と驚きと喜びのなか、天地の計らいを全身に感じる。
・そして、それにしがみ付かず、また次の一歩に集中する。
意味なんてのはあとからついて来るものですし、なかには死ぬまで分からないことだって
山ほどあるわけです。
所詮は人の考えることなんですから、分からないことの方が多くてアタリマエということです。
ですから、分からない不安で立ち止まるよりも、分かった時の驚きとアハ体験を信じて、
先ずは前に進むほうが、手っ取り早いのです。
映画と同じく人生でも、ツラく苦しいことは、制作過程に必要欠くべからざるものです。
その先の、想定外の中にこそ、アハ体験が広がっているわけです。
ですから、いまツラかったり苦しかったりしても、そこで立ち止まったり、あるいは、そこに
留まる理由を考えたり、そこから先に進む意味を探したりしなくても大丈夫です。
自分の想定内におさまろうとしてしまうと、余計にシンドくなります。
驚きと喜びというものは、その向こうにしかありません。
アハ体験とは「まさか!」という想定外の驚きによって起きるものだそうです。
当然ながら、それは答えを知らないことが前提ですし、限界まで頭を絞る努力とストレスが
前提になるものです。
そのギャップが喜びを倍増させるというのですから、人間というのはうまい具合にできている
と思わざるをえません(笑)
冒頭にも書きましたが、宮崎作品が何通りにも楽しめるのは、それが意味や目的に縛られて
いないからだと思います。
そこには人生にも通じる、自由な世界が広がっています。
だから、老若男女問わず、これほどまでに日本国民に受け入れられているのでしょう。
世の中に映画は色々ありますが、それを楽しむコツはみんな同じです。
全体を俯瞰する自分と、感情移入して登場人物の気持ちになりきっている自分の、二つの
自分を上手に切り替えることです。
あらすじなんか知らない方が面白いに決まっていますし、先の展開が分からないからこそ
登場人物の今に集中できます。
そうしますと、物語の流れに乗って一喜一憂できて、泣いて笑えます。
そして物語全体をより深く味わえて、幸せな時を刻むことができます。
あっという間の二時間半でしたが、終わった時はスッキリ気分爽快です。
それは、私たちの人生そのものです。
なんだかんだあっても、あっという間の二時間半なのです。
私たちも、肩ひじ張って構えるのはやめて、ジブリ作品を楽しむくらいの気持ちで、心軽やかに
景色を楽しんでみてはどうでしょうか。
それが、この映画を深く、面白く味わうコツかもしれませんよ(笑)
にほんブログ村