これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

現代の方便

2015-02-17 19:33:55 | 心をラクに
前回、人生は映画のようなものだという話をしました。
どんな作品であれ、登場人物に感情移入してその役に成り切ることが映画を楽しむコツで、
そこに集中すればこそ味わいは深まる、と。
そして映画の数だけ私たちは色々な味を楽しめる、という話でした。

でも、なかなかそのように割り切れないのが現実です。
その理由の一つとして、この世のイメージが歪められてしまっていることが少なからず影響
しているのではないかと思います。
「この世は生きにくいツラい世界なのだ」という共通観念が、どこか薄っすら漂っている
ように感じます。

私たち日本だけでなく、西洋でも、潜在意識の部分にそのような暗さが見え隠れします。

これは何なのでしょうか?

世の中には、想像もできないほどツラい苦しみを味わっている方が大勢います。
昔から、宗教は、そのような理不尽に苦しむ人たちの傍に寄り添ってきました。
ですから、その教えの中には、方便もたくさん含まれています。
それによって、多くの苦しむ人たちの心は、少しずつラクになっていました。

たとえば、疫病や飢饉など理不尽な生活環境に苦しむ民衆に対して、輪廻転生をもって
心の救いとしてきた歴史があります。
その時代は毎日が生き地獄だったでしょうから、とにかく日々を刻むこと、絶望せずに最期まで
生き続けることが、宗教が支援できるギリギリのところだったと思います。
ですから「この世は生きるにツラい世界である」として、まずはそこを全肯定して、人々に
世界を受け入れてもらうところからスタートしました。
その上で、煩悩や囚われについて少しずつ噛み砕いて、心をラクにしていったわけです。

しかし、これはあくまでも方便でした。

生き地獄に暮らす人たちに向かって「この世は素晴らしい世界なんだよ」なんて言えるはずが
ありません。
この世界を呪うこともなく、また日々に不幸の思いを刻むこともなく、最期まで頑張ろうとする
心を全うさせてあげようと思うのが、人というものです。
ですから「誰しもこの世に生まてくることはツラいこと」「その輪廻から抜け出すことが本当の
救いだ」と説明したとしても、やむを得ないことだと思います。

それらは決して現実逃避ではなく、現実世界を、歯を食いしばって生きるためのものであった
ことは明らかです。
そしてそれらは、そのような環境の中でこそ、効力が発揮されたものであったわけです。

そうした時代に比べますと、現代の日本は、これ以上ないほどに恵まれています。
おそらく有史以来、物質的にはもっとも生きやすい環境にあるはずです。
そのような状況ですと、心を軽やかにする方便も変わってきます。
人の心がそれぞれ違うように、オールマイティな方便というのは有りません。

強いて言えば「どんな形であれ生きていればオールOK」がそれにあたるかもしれませんが、
それだけでは何が何だか訳が分かりません。
具体性に欠けます。
ですから、現代版の方便が必要となってくるわけです。

そのためには、まずは古い方便を手放すことが必要となります。
世界がそもそも不幸なものだというような方便を使わなくても、私たちは、この世界を受け
入れることが出来るはずです。
私たちは、悩み苦しみも含めて楽しみにきているのですから、まずは、この世界を薄暗い
ものだとする囚われを無くすことが、スタート地点になるのではないかと思います。

そのためのキーワードはいくつかあります。
たとえば「因果応報」というものも、イメージをあらためたほうがいい言葉の一つです。
この言葉にまとわる暗いイメージは、世界を翳らせることになっています。
マイナスの行ないがマイナスの現実を(時間差で)生んでいるのは事実かもしれませんが、
そもそもマイナスが悪いものだというのは、人間の損得勘定にすぎません。
自分で脚本を色付けして、それを自分で味わっているのですから、それは人生の色どりで
あって、映画として考えれば一種の醍醐味と見ることもできるわけです。
もちろん、それをどのように捉えるかは個々の好みの問題ですから、どれが正解ということは
ないのですが、少なくとも「悪行悪果がいけないことだ」と、最初から決め付けることもない
と思うのです。

悪果に対してショックを受けたり悩んだりするのは、それこそ、そのために自ら絵を描いたわけ
ですから、必要なことだと思いますが、だからといって全てを悪鬼のごとく忌み嫌うことはない
でしょう。
ひとしきり落ち込み苦しんだのなら、あとは「やっちまったよな~」くらいのサッパリ感があっても
いいのではないかと思うのです。
何も、この世界や人生までを灰色に染める必要はないわけです。

あるいはまた「輪廻転生」という言葉にも、同じことが言えます。
よく喩え話に使われますが、動物や虫に生まれ変わることが、まるで格落ちでもするかのような
悪いイメージに取られているのも、リセットする必要があります。
何となく、この世に再び生まれてくることが苦しみであるかのような印象を受けてしまいます。
それは、過去の時代において、今世を誠実に生きるための方便として使ったものです。
肝心なその部分を忘れてはいけないと思います。

私たちの人生が一つの映画であるように、動物だろうと虫であろうと、そこには輝く世界が
広がっています。
むしろ、今を刻み続けているという点では、そっちの方こそ煩悩から解放された生き方だとも
言えるわけです。
結局、動物や虫の世界を見下しているのは、人間の世界や人間の暮らし、今の生活と比較して
の発想でしかないのです。
動物の世界にせよ虫の世界にせよ、私たちがそこにあれば、それは無限の世界です。
それをこけ下ろすというのは、上から目線も甚だしく、そもそも何も分かっていないということに
なってしまいます。

この世に生まれてくるのは、何かの罪を償うためではありませんし、ムチ打って自分を鍛える
ためでもありません。
過去の、生きるには苦しかった時代、日本だけでなく西洋でも、人々はその理不尽を受け入れて
生きるために、色々な方便が必要だったのです。
そして、いまだ漠然と残るそのイメージが、この世を薄暗い世界に思わせてしまっているように
感じます。
時代が変わり、本来は手放すべき方便に、今もどこか囚われてしまっているように思うのです。

そもそも方便というのは、月をさす指でしかありません。
あくまで月こそが向かう先であり、方便そのものに囚われてしまっては元も子もありません。
それは、その時その時の状況に応じて、変わっていくものです。手放していくものです。
このブログの内容にしても、やはり手放していくものです。
言葉というものは囚われやすいものなので、本当に注意が必要です。

そういう意味では、より強い囚われになりやすいのが「学ぶ」「成長する」という言葉です。

「学ぶ」というと、学校生活のあの我慢に耐えながら真面目に苦労を重ねるイメージがあり
ますし、「成長する」というと、自分をランクアップさせるようなイメージがあります。
そうしますと、例えば何かの本で、「この世に生れてきたのは学びのためです」とか「魂の
成長のためです」とか聞かされると、”よし、この人生で魂を磨かないといけない”とか、
”レベルアップさせないといけない”とか、果ては”今世で卒業したい”とか、素っ頓狂な話に
なってしまうわけです。
自ら、この世は苦労の多いシンドい世界なんだというイメージを強めてしまうことになります。
さらに「ツラく苦しいのは学びのために必要だ、成長のためだ」となってしまうと、まさにグルグル
まわり続ける回転梯子です。
”いつまでもゴールに辿り着かないのは世界がぐるぐる回っているからだ”と輪廻転生を誤訳し、
”そこから抜け出すのが救済だ”となってしまうと、それこそ本当の迷いになってしまいます。

そもそも「学ぶ」というのは、自分を追いたてて頑張ったり、耐えたりするものではありません。

「学ぶ」というのは、本質的には「楽しむ」であり、ニュアンス的に一番近いのは、「遊ぶ」という
表現だと思います。
真面目な人ほど、取り違えやすい言葉です。

子どもの頃の夏休みを思い出して下さい。
身も心もすべて開けっぴろげで、山や川に駈け出した経験があると思います。
それはもう、とにかく夢中で楽しんだはずです。
それこそが「学び」なわけです。
そしてそれが「成長」です。
その時、どんなに素晴らしいことを学んだでしょうか。
どれほど成長したことでしょうか。
そこには、何をしなくてはいけないとか、何かを学びとろうとか、自分を磨こうとか、そんな
馬鹿げた発想はありません。
ただ、天地を全身で味わっていただけです。
その時の気持ちに、素直になっていただけです。
だから、世界は輝いていたのです。

世界はグルグルなんて回っていません。
私たちは、この輝く世界に喜んで飛び込んできたのです。

世界が辛気臭い灰色に染まっているのは、自分で足かせをはめてしまっているからです。
子供の頃、川で転んでズブ濡れになったり、段ボール滑りで足をくじいたりしても、
それも含めてすべて笑い飛ばせたはずです。
濡れるのは損だとか、怪我をしたのは悪行悪果だとか、そんなのは本当につまらない話です。

この輝く世界に、私たちはワクワク胸躍らせながら生れてきたのです。
そしてそれは、これから先もずっとそうなのです。
今世も、来世も、関係ありません。
だったら、先のことなどあれこれ考えたりせず、今を信じて楽しみ切ったほうがいいわけです。
思い出せなくてもいいじゃないですか。
信ジル者ハ救ワレル、なのです。

子どもが無邪気にハシャぐ姿は、それを観る者の心を洗ってくれます。
それは大人になっても同じことです。
楽しいことに夢中になっている人は、本当に輝いて見えます。
万事、同じことです。

ただ、人生には、どうやっても楽しいと思えないこともあります。
そういう時、「つまらないと思わず、楽しむ」という方法もありますが、私はあまり
好きではありません。
ちょっとシンドい感じがします。
真面目すぎなところも性に合いません。

ならば、発想を変えて「ひとまず夢中になってみる」というのはどうでしょう。
夢中というのは、集中とも言えます。
すると、嫌だと思っていた気持ちが薄れていくことに気がつきます。
今に集中しきっていると、自分の感情はどこかへ消えていくのです。
それでもし「アレ?ちょっと楽しいかも?」とでもなれば儲けもんです。
そうならなくても、今に集中できているのですから、どっちみちOKということです。

何だかキツネにつままれたような感じがしますか?
でも方便なんて、そんなもんです(笑)

楽しめるところを探そうとする前に、取り敢えずやってみることをオススメします。
楽しいという感覚は、最初にあるものでなく、あとからついてくるものです。

何かに集中して、夢中になっている姿は、まわりの人も心ひかれるものです。
そして自分自身は、なぜか何事にも感謝を持てる素直な心になっていくものです。
そうすると、世界は輝いてきます。
そうこうするうちに、もしも楽しくなれたら、めっけもんというわけです。

これが、現代の方便です。

これまでの過去の方便は、否定したり排除するのではなく、ご先祖さまたちの苦しい心を支えて
くれたことへの感謝の気持ちを乗せて、手放していくのがいいと思います。


そして、このような話ができるのも、なにより私たちが平和な日本に住んでいるからです。
本当に、ありがたく、恵まれたことだと思います。
世界には、テロや紛争、餓えや病気など、不幸に苦しむ国が沢山あります。
そのような人たちに、この現代の方便を押し付けるのは、筋違いな話ということになります。
自分の考えを他人に押し付けるのは、宗教紛争の姿そのものであり、我欲でしかありません。

この現代の方便は、平和で恵まれた日本だからこそ、意味をなすものです。
用途限定だからこその、方便なのです。

それはそういうものだと踏まえた上で、あえて脱線しますが、そうやってもしも私たち日本人が、
みんな無邪気な子どものように輝き始めたらば、それを観る人たちはどう感じるでしょうか。
何なんだろう?なんであんなに楽しそうなんだろう?と、もしかしたら心が動くかもしれません。

それほど、無邪気な夢中というのは、輝きに溢れています。
そして、輝きとはエネルギーそのものです。
それは、観る者の心にまで響くものです。

そんなことを想像してみるだけでも、なんだかワクワクッとした衝動が、胸の奥にポッと
灯りませんか?

ひとしきりジワーっと味わいましたら、そこで、ひと呼吸。
これはあくまで空想の話だったということで、ポーンと天に放りましょう。
それはそれ、そんなこともあるかもなぁ、くらいでちょうどいいのです。
しがみ付いてしまいますと、成るのも成りません。

私たちは、ただ、目の前の「今」に夢中になるだけです。

誰か苦しむ人を思って、気兼ねする必要はありません。
その優しい気持ちは、また違うところで使って下さい。

私たちは、これができる時代、できる場所を目指してやってきたのです。
学ぶこと、すなわち、楽しむことが、この世でやりたかったことなのです。
私たちは、楽しんでいいのです。


さぁ、あれこれ気にせず、もっともっと楽しみましょう。

子どもの頃のように、ハシャギましょう。

同じアホなら、踊らにゃ損です!(笑)


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1 コメント

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Unknown (ワル仲間)
2015-02-18 18:45:47
全く私もそう思います!
思いっきり子どものように!!
楽しむことが魂の目的であり、魂の成長だと。
読んでいて心が洗われます。
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