これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

手放したほうがお得です

2015-02-12 18:48:33 | 心をラクに
私たちは、いろいろ考える脳ミソを持っています。
何となく、この頭が、魂の純粋性を濁らせているのではないかと、あらぬ疑いをかけてしまい
ます。

頭であれこれ考えることが囚われを生むように思いがちですが、考えるという行ない自体は
何一つ悪いものではありません。

ただ、潮時になってもまだ「考える」という作業を続けてしまって、そこにしがみ付いて離れ
なかったり、辿り着いた答えにいつまでも縛られてしまったりすることが、問題なのです。
考えること自体は、人が人であるための、無くてはならない行ないです。

考えに考え抜いて、一度自分の身体を通し、そこで何かが分かっても分からなくても、実際の
作業に入る時には、すべて天に放ることです。

これは仕事のコツでありますし、武道のコツでもあります。

間違えないようにと何度も頭で繰り返したり、あるいは、答えの出なかったことに不安を感じて
いつまでもダラダラと考えたりするのは、絶対にいい結果を生みません。
それは執着を重ねていることであり、また「今」に集中しきれていない状態だからです。

しかしながら、寸前のギリギリまで頭がパンクするほどに悩んだり考えたりすることは、絶対に
必要なことです。

それはその瞬間の目の前にあること、つまり「考える」という作業に100%集中していることに
なるからです。
そのときの「今」に、全身全霊をかけて一所懸命にやっている状態です。

そして実際に作業に入る時には、もうそれに引っ張られず、キレイさっぱり頭を切り替える。
すでに目の前の「今」は、アレコレ考えるという場面ではないからです。

そうすると、大抵どうにかなります。
訳も分からずやっていたらそれが答えだった、ということにもなります。

くれぐれも、考えることを放棄してはいけません。
「すべてが必然だ」「プラスだからいいんだ」というのは思考放棄です。
また、天地宇宙のお蔭さまに包まれているから幸せだーと、ホンワカしすぎてまわりが見えなく
なって、何でもかんでも入るにまかせるというのもいけません。
全てを受け入れるとは、しっかりと自分に通すことです。
目を閉じて口をポカンと開けたままフラフラ歩くことではありません。

考える必要があることは、精一杯に考え、精一杯に悩み、そして次の瞬間にはそれをパッと
後腐れなく完全に手放す。
それが「今」に生きるということ。一所懸命ということです。
ただし、考えたり悩んだりする必要の無いことは別です。
最初から手をつけないことです。

そして、悩んだり考えたりして「これだ!」というものが出てきたとしても、一度それを理解
したら、それにしがみ付かないことです。
一度通せば十分。
心配しなくても、決して無くならないので大丈夫です。
身体の細胞が覚えています。
そして、空間にも刻まれています。
掴んで離すまいとしないことです。
忘れてしまったらそれだけのものだった、という達観が大切です。人生の達人です。
ギュッと強く握るよりも、大きく開いた方が、天地のエネルギーが入ってきます。

人はナルホドと腑に落ちると、知らないうちにそれ一本やりになりがちです。
このブログでも、世界は輝いているなどと、あんまりキラキラしたことばかり書いていると、
フワフワ浮き足立ってる感じがしてきますので、ちょっとリセットする必要があります。

天地宇宙の実相がどうであろうと、それはそれです。
私たちは、やはり、現実のなかに生きています。
「今」の現実にしか、本当の輝きはありません。
世界の姿や、ゆきし先を知っておくことは大事ですが、一度通したらば、あとはスパーンと
手放すことが、今に集中するためのコツです。


ヘソ曲がり(?)で有名な宮崎駿監督にも、こんなエピソードがあります。

トトロが大好きなお子さんがいて、DVDを流すとサッとテレビの前に座るそうで、
「一日に何度も観ています」と、お母さんから熱烈なファンレターが届いたそうです。
宮崎監督は見るからに不機嫌になり、「まったく嬉しくない」と怒り出したといいます。
「そんなことしてる暇あったら外で遊べ」「トトロなんて二度と観るな」と。

やり場のない怒りが、ヒシヒシと伝わってきます。

 『トトロ』は、あくまで自然の輝きに触れた時の「感激の様子」を描いただけで、
 自然の輝きそのものを描いたわけでない。
 自然の輝きは、本当の自然の中にしかない。
 アニメは、間接的に、その素晴らしさを伝えるものでしかない。
 本当の感激は、直接、自然に触れて感じるものだ。
 都会ではそれを知る機会が無くなってしまったから、その魅力を間接的に伝えて
 背中をあと押ししようとしたのに、よりによって、その仮想世界に身を投じて
 疑似体験に満足してしまうとは。
 だったら、そんなDVDなんて捨ててしまえ!

 
私の勝手な解釈ですが、そういうことなんだと思います。
(違ったらゴメンナサイ!)

ですから、天地宇宙の輝きにしても、キラキラの幸福感にしても、一度その感覚を描いたら、
もうそれには囚われずスッキリ忘れて、今の現実、足元の一歩に集中ということです。

綺麗な言葉というものは酔いやすく囚われやすいので、ことさら注意が必要です。
前のめりになりすぎず、たまの清涼剤くらいの気楽な気持ちがちょうどいいのでしょう。
心は、軽ければ軽いほど、いいわけです。

宮崎監督もそうですが、解剖学者の養老孟司先生も、へそ曲がりで知られています(笑)
ニヒリズムを象徴するようなお二人ですが、実は二人とも現実世界というものを100%
称賛しています。
手放しで受け入れています。
二人がボロかすに言っているのは、現実世界そのものではなく、人間の思いや考え、そして
それを具現化させた脳世界・人工世界です。

この二人に共通するのは、休日に自然の中に身を投じることです。
お二人とも、超がつくほど、虫捕りが大好きです。
ガチガチの人工世界に息が詰まってのこともあるのかもしれませんが、それ以前に、単に
好きだからなんでしょう。

”虫を捕ることにどういう意味があるのか?”
日ごろから深いテーマを掘り下げている方たちですから、そのような質問をいつも受ける
そうです。
でも、「意味なんてないよ」と笑っておしまいです。

そもそも、何かをすることに、意味など必要ありません。
何かをしているという、それ自体がすでに100点満点であって、足し引きもありません。
そこに意味を持たせようとするのは、人間の後付けでしかありません。
「今」を刻むことで、すでに目的を達成してるのです。
「意味があればこそ今を刻む」ということではないのです。
やりたいことをやればいいんです。

ですから、虫捕りと同じように「生きる意味とは?」という問いかけも、ナンセンスという
ことになります。
生きていること自体が、すでに全ての意味を満たしているからです。
何らかの意味を持たせないと価値が無いと考えるのは、人間の勝手な思考遊びです。
意味なんて最初から無いのです。
だから、それを探そうとしても、いつまでたっても答えなんて見つかるはずがないわけです。

意味というのは、あとから人間が色づけるものです。
ですから、それを絶対視することは危険です。
あくまで主体は、行動の方であり、現実の方です。

言葉にせよ、意味付けにせよ、私たちはそれに引っ張られやすいところがあります。
とりわけ真面目な人ほど、我が身を律することが習慣付いているため、言葉や意味という
ものに、囚われやすくなっているかもしれません。
自分の中心に、言葉や意味を置くことで自らの重心を取ってきた人は、それらを捨てても、
また新たな言葉や意味をそこに置き換えて、安定感を得ようとする危険があります。

囚われを無くすために、気づけば、また別の囚われに頼ってしまうわけです。

「こういうものは止めよう」「ラクになろう」というものも、それにしがみついてしまうと
囚われになります。
それらも最初に一度通したらば、あとはいつまでも引きずらず、手放すものです。

ただ、今まで長いこと重しを置いて安定させることに慣れていて、いきなり空っぽにしたら
グラグラと不安でしょうがないという時は、無理をすることはありません。
その仕組みさえ自分で理解していれば、焦る必要はありません。
まずは新しい言葉に置き換えて、少しずつ軽いものに慣らしていくのがいいと思います。
「世界は輝いている」でも「おかげさまに包まれている」でも何でも。
そして徐々に慣れてきたら、そういうものも降ろしていく。
要は、途中でやめない、そこで満足しないということです。

心は、軽ければ軽いほどいいのです。

実際のところ、自分では「まさか」と思うものが、囚われだったするものです。
ですから、自分で大切に思っているものほど、もう一度落ち着いて見直してみるといいかも
しれません。

実は、自分を安心させてくれているものほど、思い切って手放したほうが、ビックリするほど
ラクになるものなのです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 自然哲学へにほんブログ村

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。