今年も残すところあと一日となりました。
この一年、楽しいこと、つらいこと、色々なことがありました。
そんなこんなを思い返すことで、今この人生を生きていることをしみじみと実感できます。
ただ、そんな楽しさもつらさも、目に見えないお陰様があればこそ味わえているというのをつい忘れてしまいがちです。
ありがたいことに日本には、年末最後にそれを思い出させてくれるイベントがあります。
それが『大祓い』です。
もともとは宮中祭祀として行われていたものが、一年の罪穢れを取り除くための行事として民間に定着したと言われています。
「知らず知らずのうちに犯してしまった罪穢れ」というのは、良くない『行ない』に始まり、良くない『言葉』、良くない『思い』に至る
まで、様々な身口意によって自分に付いてしまった汚れを指します。
そこに他意があろうがなかろうがダメなものはダメですので、自覚をしないままに塗り重ねてしまうこともあります。
さらに、自らがそれを発しないように気をつけていても、それを発する人と関わったり、そうしたものが溜まった場所に身を置いただけでも
同じことになってしまいます。
それらを避けて通るというのは、人里離れた山奥に引きこもらないかぎり叶わない話ですが、そもそもそうしたことを忌み嫌ったり、
いちいち気にすること自体が天地の理に反していることと言えます。
例えば、私たちのまわりには顕微鏡で覗けばどれも雑菌がついているのが当たり前で、そうしたものに一切触れずに暮らすことは不可能です。
雑菌を一つも付けたくないといって、いちいちすべて完全滅菌させてから触るというのは正しい姿ではありません。
つまりここでは、雑菌を悪いものと決めつけること自体、馬鹿げているということになります。
罪穢れもまた、私たちが生きているかぎり避けることができないものです。
それは垢や埃と同じで、黙っていても付いてしまうものです。
自然に付いてしまうものだからどうしようもない。
といって、それが積もり積もって汚れたままを放っておいて良いということでもありません。
この世は何事もバランスが大事です。
身体を洗って垢や埃を落とすように、罪穢れも洗って落とすことが必要ということです。
もし垢や埃は付くのが当たり前だからとそのまま風呂に入らず暮らしていたら、社会生活など成り立たなくなります。
それだけではなく、汚れたままでいると、目に見えない引力も働き出すということもあります。
例えば、垢まみれの汚れた姿でピカピカの綺麗な場所に身を置くと、場違いすぎて居たたまれなくなります。
できれば身体を洗って服も綺麗なものに着替えたくなるものです。
それが叶わず汚れた姿のままで居続けるなら、どこかピカピカでない場所を探してササーッと移動するでしょう。
心がホッと落ち着くというのはそういうことです。
闇は闇を好み、闇は闇を呼ぶのです。
自分自身を穢れたままにしておくと、知らず知らずのうちに穢れた境遇に引き寄せられることになります。
私たちの目から見れば闇が向こうからやってくるように見えてますが、実際は私たちの方から闇を求めて近づいているわけです。
これと同じ理屈で、罪穢れを払えば、自ずと天地自然の清らかな環境へ知らず知らずのうちに向かうようになります。
それが大祓いです。
さて大祓いの流れとしては、人の形に切り抜いた紙切れに名前と年齢を書き、それでもって全身を撫でて罪穢れの転写を行ないます。
まさしく写し身、移し身、映し身です。
この時、手早くササーッと撫でて「ハイ、おしまい」というのもありますが、折角だから一つ一つきっちり転写を図りたいと思ったりもします。
たとえばこんな感じに。
ハイ、まずは頭。「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
髪の毛、前とか後ろとか、あとてっぺんも「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
眉毛、両眉を「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
次は、右目と、左目と「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
あと。耳か。
あ、最近なんか左耳痛いことあるんだよなぁ、左耳だ、左耳。「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
調子が良くない個所はとりわけ念入りに祓おうとしますが、何も問題ないところも「悪くなりませんように」と気持ちを込めて祓うものです。
初めは打算的な願いから一つも漏らさないように撫でていくのですが、そうしていくうちにある心の変化が起こります。
というのも、最初はもっと早いペースで足もとまで行くつもりで居たのに、思ったよりも先へ進まないからです。
何ヶ月か前に歯が痛くなったことを思い出すと、それまでボヤーッと一つの塊でしかなかった「口」に、たちまち20本の独立した歯が
現れ、舌や唇もポーンと現れます。
すると「あ、右の奥歯も祓っておかないと。あと口内炎もなったらヤダから口の中も」となってきます。
始める前は、無意識のうちに「顔」「手」「胴体」「足」くらいの大雑把なイメージでササーッと終わるつもりで居たのが、いざ始めて
みると、みるみるうちにいくつにも細かく分かれていく。
日頃、私たちがどれだけ身体のことを意識していないかを知らされるのです。
そして、その数の多さ以上に驚くのは、そうしたものの多くが何の不具合もなく健康でいるという事実です。
そんなの当たり前とかいう以前に、普段はそのことに気がついてすら居ない。
胸のあたりを撫でるにしても、「あ、ココは心臓があった、あと肺もだ、それと気管支も」というように、日頃は全く忘れているものが
次々と表面に現れてきます。
それまで存在していなかったものが次々と出現するたびに人形で祓うのですが、今になって祓うまでもなく常日頃からその存在を消して
淡々と健康に動いていたことに気付かされます。
臓器の一つ一つ、指の一本一本、そして指の先には爪もあります。
それらが表舞台に引っ張り出され、突如スポットライトを浴びる。
正直、膵臓や脾臓の存在など普段は完全に忘れていますし、指がしっかり5本あることを意識できていないのにも驚きます。
知識としては分かっていても、感覚として5本をしっかり意識しては居ない。
薬指とかは本当に消えてしまっているようです。
肺や心臓は痛みや苦しさでたまにその存在を知ることがありますが、実際に胸の数十センチ奥に物質としてあるのだと生々しく意識する
ところまではいきません。
人がたで祓っていくごとに、水面下に眠っていた一つ一つが現実にはっきりと存在を現します。
その時になって初めて、完全に忘れ去っていた存在たちが、いつも健康に動き続けていたことを知らされます。
そして同時に、この世に存在しなくなっているほどに忘れ去っていたことにも気づくわけです。
その時その瞬間、心の底から申し訳なさとありがたさが溢れ出します。
頭のてっぺんから下へと一つ一つ撫でていきますと、筋、骨、臓器、それら驚くほどの多さに言葉を失います。
こんなにも沢山のおかげさまに支えられている、
生かされているのかと。
それが大祓いであるわけです。
神社でイメージするような仰々しさとか堅苦しさは必要ありません。
それはそれで大事なことですが、大切なのはその中身。心です。
ですから、近くの神社で大祓いをやっていない場合は、例えばシャワーで流すというのもいいと思います。
もともと水で洗い清めるのは水垢離といって禊祓いの一つです。
冷たい水ですから身も心を引き締まり、いかにも修行らしいと言えますが、実際は一意専心に集中するところに意味があります。
本当に心を決めれば、温かい水でも禊祓いになるでしょう。
それに大晦日に冷たい水で気合い入れるというのはさすがにハードルが高い。
勿論やれるならやった方がいいのですが、ハードルが高いからといってそれをやらない理由にしてしまうのでは本末転倒になってしまいます。
やることに意味があります。
あったかいシャワーでいいのです。
ただ、いつもより時間がかかってガス代がもったい無いというのは、この日だけは目をつむってしまいましょう。
そして大祓いと同じように、頭のてっぺんから一つずつ手で撫でながら温水を流していきます。
祓いたまえ清めたまえと言えるならば言うのがいいですし、抵抗があれば言わなくてもいい話です。
言葉のエネルギー以上に、思いのエネルギーの方が強力です。
ネガティヴな感覚が伴うことはやらないほうがいい。
祓うはずが逆のことになってしまいます。
むしろポイントは、一つ一つの細胞や臓器、身体の節々の存在をしっかりと認識していくことにあると思います。
手で撫でながら湯を当てて流していく。
そこに何があるのか、日頃存在しているのか、黙々と健康に生きていてくれているのか、私たちを支えてくれているのか。
そうした思いこそが、禊祓いになっていくのではないかと思います。
そして最後に大きく3回、全身の端々の細胞からサーッと風が流れ出ていくようにして、口から息を吐き出します。
これで身も心もスッキリ。
あとはゆっくりお風呂に浸かって、年越しそばであります。
今年一年ありがとうございました。
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この一年、楽しいこと、つらいこと、色々なことがありました。
そんなこんなを思い返すことで、今この人生を生きていることをしみじみと実感できます。
ただ、そんな楽しさもつらさも、目に見えないお陰様があればこそ味わえているというのをつい忘れてしまいがちです。
ありがたいことに日本には、年末最後にそれを思い出させてくれるイベントがあります。
それが『大祓い』です。
もともとは宮中祭祀として行われていたものが、一年の罪穢れを取り除くための行事として民間に定着したと言われています。
「知らず知らずのうちに犯してしまった罪穢れ」というのは、良くない『行ない』に始まり、良くない『言葉』、良くない『思い』に至る
まで、様々な身口意によって自分に付いてしまった汚れを指します。
そこに他意があろうがなかろうがダメなものはダメですので、自覚をしないままに塗り重ねてしまうこともあります。
さらに、自らがそれを発しないように気をつけていても、それを発する人と関わったり、そうしたものが溜まった場所に身を置いただけでも
同じことになってしまいます。
それらを避けて通るというのは、人里離れた山奥に引きこもらないかぎり叶わない話ですが、そもそもそうしたことを忌み嫌ったり、
いちいち気にすること自体が天地の理に反していることと言えます。
例えば、私たちのまわりには顕微鏡で覗けばどれも雑菌がついているのが当たり前で、そうしたものに一切触れずに暮らすことは不可能です。
雑菌を一つも付けたくないといって、いちいちすべて完全滅菌させてから触るというのは正しい姿ではありません。
つまりここでは、雑菌を悪いものと決めつけること自体、馬鹿げているということになります。
罪穢れもまた、私たちが生きているかぎり避けることができないものです。
それは垢や埃と同じで、黙っていても付いてしまうものです。
自然に付いてしまうものだからどうしようもない。
といって、それが積もり積もって汚れたままを放っておいて良いということでもありません。
この世は何事もバランスが大事です。
身体を洗って垢や埃を落とすように、罪穢れも洗って落とすことが必要ということです。
もし垢や埃は付くのが当たり前だからとそのまま風呂に入らず暮らしていたら、社会生活など成り立たなくなります。
それだけではなく、汚れたままでいると、目に見えない引力も働き出すということもあります。
例えば、垢まみれの汚れた姿でピカピカの綺麗な場所に身を置くと、場違いすぎて居たたまれなくなります。
できれば身体を洗って服も綺麗なものに着替えたくなるものです。
それが叶わず汚れた姿のままで居続けるなら、どこかピカピカでない場所を探してササーッと移動するでしょう。
心がホッと落ち着くというのはそういうことです。
闇は闇を好み、闇は闇を呼ぶのです。
自分自身を穢れたままにしておくと、知らず知らずのうちに穢れた境遇に引き寄せられることになります。
私たちの目から見れば闇が向こうからやってくるように見えてますが、実際は私たちの方から闇を求めて近づいているわけです。
これと同じ理屈で、罪穢れを払えば、自ずと天地自然の清らかな環境へ知らず知らずのうちに向かうようになります。
それが大祓いです。
さて大祓いの流れとしては、人の形に切り抜いた紙切れに名前と年齢を書き、それでもって全身を撫でて罪穢れの転写を行ないます。
まさしく写し身、移し身、映し身です。
この時、手早くササーッと撫でて「ハイ、おしまい」というのもありますが、折角だから一つ一つきっちり転写を図りたいと思ったりもします。
たとえばこんな感じに。
ハイ、まずは頭。「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
髪の毛、前とか後ろとか、あとてっぺんも「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
眉毛、両眉を「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
次は、右目と、左目と「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
あと。耳か。
あ、最近なんか左耳痛いことあるんだよなぁ、左耳だ、左耳。「祓いたまえ清めたまえ」サッサッサッ。
調子が良くない個所はとりわけ念入りに祓おうとしますが、何も問題ないところも「悪くなりませんように」と気持ちを込めて祓うものです。
初めは打算的な願いから一つも漏らさないように撫でていくのですが、そうしていくうちにある心の変化が起こります。
というのも、最初はもっと早いペースで足もとまで行くつもりで居たのに、思ったよりも先へ進まないからです。
何ヶ月か前に歯が痛くなったことを思い出すと、それまでボヤーッと一つの塊でしかなかった「口」に、たちまち20本の独立した歯が
現れ、舌や唇もポーンと現れます。
すると「あ、右の奥歯も祓っておかないと。あと口内炎もなったらヤダから口の中も」となってきます。
始める前は、無意識のうちに「顔」「手」「胴体」「足」くらいの大雑把なイメージでササーッと終わるつもりで居たのが、いざ始めて
みると、みるみるうちにいくつにも細かく分かれていく。
日頃、私たちがどれだけ身体のことを意識していないかを知らされるのです。
そして、その数の多さ以上に驚くのは、そうしたものの多くが何の不具合もなく健康でいるという事実です。
そんなの当たり前とかいう以前に、普段はそのことに気がついてすら居ない。
胸のあたりを撫でるにしても、「あ、ココは心臓があった、あと肺もだ、それと気管支も」というように、日頃は全く忘れているものが
次々と表面に現れてきます。
それまで存在していなかったものが次々と出現するたびに人形で祓うのですが、今になって祓うまでもなく常日頃からその存在を消して
淡々と健康に動いていたことに気付かされます。
臓器の一つ一つ、指の一本一本、そして指の先には爪もあります。
それらが表舞台に引っ張り出され、突如スポットライトを浴びる。
正直、膵臓や脾臓の存在など普段は完全に忘れていますし、指がしっかり5本あることを意識できていないのにも驚きます。
知識としては分かっていても、感覚として5本をしっかり意識しては居ない。
薬指とかは本当に消えてしまっているようです。
肺や心臓は痛みや苦しさでたまにその存在を知ることがありますが、実際に胸の数十センチ奥に物質としてあるのだと生々しく意識する
ところまではいきません。
人がたで祓っていくごとに、水面下に眠っていた一つ一つが現実にはっきりと存在を現します。
その時になって初めて、完全に忘れ去っていた存在たちが、いつも健康に動き続けていたことを知らされます。
そして同時に、この世に存在しなくなっているほどに忘れ去っていたことにも気づくわけです。
その時その瞬間、心の底から申し訳なさとありがたさが溢れ出します。
頭のてっぺんから下へと一つ一つ撫でていきますと、筋、骨、臓器、それら驚くほどの多さに言葉を失います。
こんなにも沢山のおかげさまに支えられている、
生かされているのかと。
それが大祓いであるわけです。
神社でイメージするような仰々しさとか堅苦しさは必要ありません。
それはそれで大事なことですが、大切なのはその中身。心です。
ですから、近くの神社で大祓いをやっていない場合は、例えばシャワーで流すというのもいいと思います。
もともと水で洗い清めるのは水垢離といって禊祓いの一つです。
冷たい水ですから身も心を引き締まり、いかにも修行らしいと言えますが、実際は一意専心に集中するところに意味があります。
本当に心を決めれば、温かい水でも禊祓いになるでしょう。
それに大晦日に冷たい水で気合い入れるというのはさすがにハードルが高い。
勿論やれるならやった方がいいのですが、ハードルが高いからといってそれをやらない理由にしてしまうのでは本末転倒になってしまいます。
やることに意味があります。
あったかいシャワーでいいのです。
ただ、いつもより時間がかかってガス代がもったい無いというのは、この日だけは目をつむってしまいましょう。
そして大祓いと同じように、頭のてっぺんから一つずつ手で撫でながら温水を流していきます。
祓いたまえ清めたまえと言えるならば言うのがいいですし、抵抗があれば言わなくてもいい話です。
言葉のエネルギー以上に、思いのエネルギーの方が強力です。
ネガティヴな感覚が伴うことはやらないほうがいい。
祓うはずが逆のことになってしまいます。
むしろポイントは、一つ一つの細胞や臓器、身体の節々の存在をしっかりと認識していくことにあると思います。
手で撫でながら湯を当てて流していく。
そこに何があるのか、日頃存在しているのか、黙々と健康に生きていてくれているのか、私たちを支えてくれているのか。
そうした思いこそが、禊祓いになっていくのではないかと思います。
そして最後に大きく3回、全身の端々の細胞からサーッと風が流れ出ていくようにして、口から息を吐き出します。
これで身も心もスッキリ。
あとはゆっくりお風呂に浸かって、年越しそばであります。
今年一年ありがとうございました。
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