私たちは、お金の概念が定着した世界に生まれてきました。
まわりがそれを当たり前としている中に育てば、同じ感覚に染まるのが普通です。
その固定観念を無くすためには、ひとつひとつ丁寧に見ていく必要があります。
まずは身近な紙幣や貨幣について振り返りまして、それから概念の方へと進んでいきたいと思います。
紙幣や貨幣そのものが単なる紙切れや金属に過ぎないというのは、冷静になれば誰でもすぐに思い出せることです。
ただ普段、私たちはそのことを完全に忘れてしまっています。
初めて訪れる外国では、その国の紙幣やコインを見てもいまいちピンと来ず、まるでママゴトのオモチャのように感じたりします。
そのお金で初めて買い物する時も何となくドキドキするものです。
何故かといえば、自分にとっては実感の伴わない紙幣であり貨幣だからです。
それゆえ実際それで買い物が出来た時には、おぉ、と小さな感動を覚えたりします。
あれが本来の感覚であるわけです。
日本のお金だって、刷新されたときにはとても新鮮な感じがして、初めて使う時は少しドキドキしたりしました。
紙幣も貨幣も、本当に約束事に過ぎません。
単なる紙、単なる金属でしかないことが丸裸にされると、ホンマこれ大丈夫かいな?とドキドキが起こるわけです。
それが海外旅行でも体験したように、回数を重ねるうちに安心し、そのうち何も感じなくなります。
いま目の前にある使い慣れたお金も、今では何の抵抗もありませんが、もともとはそうだったのです。
宝石や金の延べ棒にしてもそれは同じことです。
ただの石。ただの金属。
紙幣や貨幣よりも抵抗を感じるとすれば、無意識への刷り込みがそれだけ強いということです。
金の延べ棒やダイヤモンドを見るとまるでそれ自体に価値があるように思ってしまいますが、それも、そういうことにしているだけです。
紙幣やコインは国の信用によって価値が保証されているのに対し、金の延べ棒やダイヤモンドは希少性によって保証されているという、それだけの違いに過ぎません。
どちらも単なる決め事であることに変わりないのです。
純金であろうとダイヤモンドであろうと、それそのものが価値を有しているわけでなく「価値という概念」を私たちが外付けしたものでしかありません。
紙幣や硬貨や純金や宝石を見ると、脳を通さず脊髄反射的に「価値あるもの」と反応してしまうそのパターンから離れて、静観することが、お金の向こうに広がる巨大な
概念体から足を抜くための第一歩となります。
では次に、その「価値」というのは何なのかという話です。
結論を先に言えば、これもまた実体のない単なる決め事に過ぎません。
価値という概念のベースには、私たちの実行動や実労働、私たちが費やした時間というものがあります。
我々の実感がそこに伴っていればこそ、定義として万人に共有されていると言えます。
たとえば私たちが何かを作ったとします。
家庭菜園でも生活用品でも何でもいいです。
それをそのまま自分で食べたり使ったとしましょう。
無人島の自給自足生活や、何万年前の原始生活も同じです。
すべての行動は自分が生きるためにやっているものです。
この時点では「価値」という概念は存在していません。
どんな努力だろうとすべては単に生きるための行為です。
それが、誰かと物々交換する場面になった時に、初めて価値という概念が発生しました。
自分や家族だけの小さい世界なら、日々の行為はすべて自分たちが生きることに直結していますので、そこに価値という概念は起こりません。
しかし、それを他の人たちと共有する場面になると共通の指標が必要となりました。
自分の作ったものを他の何かと交換するとなると、それに費やした時間(労働量)と同等のものでないと割に合わない。
交換する対象は自分のかけた時間と同等か、それ以上のものでないと交換する意味がない。
これは理屈としてはごく当然の話です。
なぜならば、一日かけてやったことは一日の食料に相当しないと私たちは生き抜いていくことは出来ないからです。
もしも一日働いて半日分の食料しか得られなかったら、一年もしないうちに先細りになって力尽きてしまいます。
こうして自分のかけた時間(あるいは労働量)というのは、最低でも同等の食料エネルギーに相当しないと割に合わないという指標が生まれたのでした。
価値の正体は、自分が生きるために費やした時間や実働ということになります。
とはいえ、食料そのものが価値の中心にあるうちは、想念の垂れ流しは最小限におさまっていました。
それはこの場合の目的が、ただ生きることにあったからです。
関係性がシンプルなうちは、湧き上がる思いも限定的となります。
しかし「お金」というものを介在することによって関係性は複雑化していきました。
単に生きることだけでなく、より快適に過ごす、より楽しく過ごす、といった目的に枝分かれしていき、様々な想念が湧き上がることになったのでした。
価値というのはもともと明日の衣食住を保証するだけのものだったのが、衣食住プラスアルファへ変わっていきました。
物々交換では「A-B」いう関係性だったものが、お金が媒体となることで「A-お金-♾」という関係性になった。
つまりそれだけ多様な想念が流れる構造となったわけです。
私たちはお金という一つのものしか見ていないようでも、実際はその向こうにいくつもの違うものを見ています。
しかし誰もそれに気がつかず過ごしています。
それが想念を垂れ流す一因になっています。
まずはこの事実を自覚する必要があります。
数多くへ分流していくことによって、私たちの想念流しは活性化していきました。
それとともに自覚しなくてはならないのは、その垂れ流しの勢いについてです。
私たちはこれまた無自覚であるがゆえに、それを自制することなく、むしろ加速させています。
流れる川筋が増えた上に、ワンコ蕎麦のような勢いで次から次へと想念を投下しているのでした。
お金を持っているとそれに相当する生活が保証されます。
お金の所有量というのが、将来の自分の時間、自分の寿命、自分の命と同じ意味合いを持つことになりました。
たとえば10億円あれば将来安泰だと思いますが、一文無しだと将来生きられないと思う。
お金と自分の命がオーバーラップするようになったわけです。
そうなると、お金を失う不安は、命を失う不安となります。
お金を得る安心は、命を保てる安心となります。
お金を失う場合、単にお金そのものを失うということだけでおさまらず、その先にぶら下がった様々なものを失う感覚に置き換わります。
たとえば
「自分(家族)の費やした時間」
「費やした労働」
「自分の苦労」
「自分の将来の保証」
「自分の命」
といったものです。
こうしたものが失われると思うと、瞬間的に、怒りや不安、そして恐怖が湧き上がることになります。
もしこの時の自分を丁寧に観察できれば、複数の観念がゴッチャになって押し寄せていることに気がつくことができます。
そして、それらはどれも自分がお金に向けた想念の反射であることを知ります。
しかし意識がお金そのものに向いてしまっていると、自分でも何に怒ったり怯えているのかよく分からなくなります。
一方そうした感情は止めどなく湧き上がってきますので、それをせき止めるシンドさから逃げたい自分に、OKを出せるような正論に飛びつこうとします。
具体的には
「お金がないと生きられない」
「お金は苦労の対価」
「日々を削って得たもの」
「誰にとっても大事なもの」
というものです。
こうした一般論は自分以外の人に確実に賛同を得られるものです。
そのため、安心してそうしたものに飛びついて、湧き出る感情の波に流されることを正当化するようになるわけです。
怒るのは当たり前、不安になるのは当たり前、相手が悪い、状況が悪い、というようにして思考停止状態になります。
本当はその時こそが、その怒りや不安の理由を深掘りできるチャンスなのにそれを放棄してしまいます。
そして一度その状態になってしまうと、その嵐をおさまらせるのは非常に困難なものとなります。
月並みな正論や理屈が怒りや不安の原因ではなく、それまでお金に対して無制限に注ぎ続けてきた個々人の想念こそが嵐の原因です。
なのにそちらには目を向けず、明後日の方向にある正論や理屈にエネルギーを注いでしまうのでは、不安の嵐がおさまるはずがありません。
お金の向こうに散らかしたゴチャ混ぜの混沌。
そこでのたうち回っている自分を救い出さないかぎり、たとえ正論や理屈でもって見た目が解決できたとしても、怒りや不安が消えることはないのです。
価値や労働なんてものは、もとより存在しません。
自給自足の生活では、全ての行動は自分たちが生きるためのものなので、労働という観念はありませんでした。
そして本来それは、貨幣経済下の集団生活にあっても同じことであります。
自給自足では実行したことがそのまま漏らさず自分に返ってくるから余計なことを考えないだけの話。
貨幣経済にあっても遠回りで返ってきているだけで、自給自足と何ら変わらないのです。
価値というものにしても、自分が費やした時間や実働を指したものでしたが、それがそのままイコール、将来の生活を保証するものになるというのは少々強引な設定と
言わざるを得ません。
確かに過去に稼いだお金によって今の衣食住をまかなえているように私たちは信じ込んでいますが、それこそが思い込みでしかありません。
物々交換の時代も、過去に収穫した穀物はせいぜい2〜3年しかもちません。
それから先の保証などありませんでした。
そこに永遠に通用するというお金が取って変わったために、私たちは完全に騙されることになりました。
今現在のこの瞬間が過去の何かによって置き換えられたものではないように、将来もまた今ここの何かによって置き換えられるものではありません。
私たちは常に、今、生きています。
将来のために生きていることはありません。
たまたまお金という仕組みを作り上げた時に、約束事として過去のものが将来も通用するようにお互い決めただけなのです。
物々交換と同じ、即時性、即物性が今この瞬間も本当の姿として成立しています。
ですが、その感覚が消されてしまっています。
お金の約束事に意識が支配されてしまい、お金の価値が永遠ならば過去の努力も永遠だと思い込んでいる。
過去に費やした時間や労力はそこでもう完結しています。
将来を保証する価値というものは架空のものです。
ですから、価値を得たり失ったりすることに振り回される必要など無いということです。
お金に喜んだり怯えたりする必要など無いのです。
ただここで混乱しやすいのが、一方では、この世というのは私たちの思いによって「時間差で」作られるという原理原則が存在しているところです。
(これがあるため、お金の時間差も正しいと思い込んでしまうところがあります)
お金について言えば、先々を保証するものなどではなく即時的な物々交換と何も変わらないものです。そこに時間差など存在しません。
しかしこの世の成り立ちには時間差が存在します。
この場合、主体となるのは、費やした時間や苦労ではなく、思いであり行動です。
(ここでいう行動と労力とは違うものです。行動というのは無色透明な客観的事実のことを指します。苦労や実働、労力というのはそこに期待や欲得、感情といった想念が刷り込まれたものです。)
ここが大事なところです。
混乱しないようにもう一度言います。
過去に費やした時間や苦労はその場で完結しています。
ですから時間差によって将来に保証されるものではありません。
そういう意味で、価値というものは存在しないと言いました。
但し、過去の思いや行動は、そこで完結せず時間差で未来に影響を及ぼしています。
何かを行っている時の思いは、そのまま先々を作る材料になっています。
この場合の「思い」とは、現実に触れて発したネガティブ思念やポジティブ思念のことです。
狭義の意味では欲得や執念もそこに含まれます。
「外に向けたものが自分に返ってくる」「思いが創造する」とはそういうことです。
ですから実をいえば、もし今お金が無くなったからといって必ずしも「過去の苦労を台無しにされた」「将来の保証を奪われた」ということにはならないわけです。
過去の行動はすでに未来を作る材料となっており、お金があろうが無かろうが、未来はすでに作り上げられています。
お金が未来を保証しているのではなく、思いや行動が未来を保証しているのです。
従って目を向けるべきは、お金ではなく「何をしたか」あるいは「何をするか」なのです。
行動というのは無色透明なものです。
そこに「こんなに苦労した」「時間を犠牲にした」という思いを込めて、それをお金に投影させてしまうからおかしなことになります。
行動は未来を作る材料になりますが、そこに貼り付けた期待は未来に保証されるものではありません。
そこをしっかりと切り分けて理解する必要があります。
私たちが自分勝手に期待している様々な想念には、対価などは存在しません。
したがって将来においてその対価が保証されることなど無いのです。
そんなものにしがみ付いていたら本当の自縄自縛です。
労力や時間をお金に投影させてしまうと、私たちは自ら籠の鳥になってしまうということです。
(つづく)
※補足
厳密に言えば、本当はこの世の成り立ちもまた即時的なものです。
ただ、それではネタバレして一本道になってしまう(私たちがそうしてしまう)ので、自由度を無限に広げるために「時間が存在していることにしよう」という
約束を共有して、時間差という幻想を作り出しています。
思ったことや行なったことが即座に現実に反映してしまったら、私たちの言動は、安心安全の打算に縛られてしまうでしょう。
この世は少しでも多くの可能性を味わうためのものなので時間差が有効なのです。
まわりがそれを当たり前としている中に育てば、同じ感覚に染まるのが普通です。
その固定観念を無くすためには、ひとつひとつ丁寧に見ていく必要があります。
まずは身近な紙幣や貨幣について振り返りまして、それから概念の方へと進んでいきたいと思います。
紙幣や貨幣そのものが単なる紙切れや金属に過ぎないというのは、冷静になれば誰でもすぐに思い出せることです。
ただ普段、私たちはそのことを完全に忘れてしまっています。
初めて訪れる外国では、その国の紙幣やコインを見てもいまいちピンと来ず、まるでママゴトのオモチャのように感じたりします。
そのお金で初めて買い物する時も何となくドキドキするものです。
何故かといえば、自分にとっては実感の伴わない紙幣であり貨幣だからです。
それゆえ実際それで買い物が出来た時には、おぉ、と小さな感動を覚えたりします。
あれが本来の感覚であるわけです。
日本のお金だって、刷新されたときにはとても新鮮な感じがして、初めて使う時は少しドキドキしたりしました。
紙幣も貨幣も、本当に約束事に過ぎません。
単なる紙、単なる金属でしかないことが丸裸にされると、ホンマこれ大丈夫かいな?とドキドキが起こるわけです。
それが海外旅行でも体験したように、回数を重ねるうちに安心し、そのうち何も感じなくなります。
いま目の前にある使い慣れたお金も、今では何の抵抗もありませんが、もともとはそうだったのです。
宝石や金の延べ棒にしてもそれは同じことです。
ただの石。ただの金属。
紙幣や貨幣よりも抵抗を感じるとすれば、無意識への刷り込みがそれだけ強いということです。
金の延べ棒やダイヤモンドを見るとまるでそれ自体に価値があるように思ってしまいますが、それも、そういうことにしているだけです。
紙幣やコインは国の信用によって価値が保証されているのに対し、金の延べ棒やダイヤモンドは希少性によって保証されているという、それだけの違いに過ぎません。
どちらも単なる決め事であることに変わりないのです。
純金であろうとダイヤモンドであろうと、それそのものが価値を有しているわけでなく「価値という概念」を私たちが外付けしたものでしかありません。
紙幣や硬貨や純金や宝石を見ると、脳を通さず脊髄反射的に「価値あるもの」と反応してしまうそのパターンから離れて、静観することが、お金の向こうに広がる巨大な
概念体から足を抜くための第一歩となります。
では次に、その「価値」というのは何なのかという話です。
結論を先に言えば、これもまた実体のない単なる決め事に過ぎません。
価値という概念のベースには、私たちの実行動や実労働、私たちが費やした時間というものがあります。
我々の実感がそこに伴っていればこそ、定義として万人に共有されていると言えます。
たとえば私たちが何かを作ったとします。
家庭菜園でも生活用品でも何でもいいです。
それをそのまま自分で食べたり使ったとしましょう。
無人島の自給自足生活や、何万年前の原始生活も同じです。
すべての行動は自分が生きるためにやっているものです。
この時点では「価値」という概念は存在していません。
どんな努力だろうとすべては単に生きるための行為です。
それが、誰かと物々交換する場面になった時に、初めて価値という概念が発生しました。
自分や家族だけの小さい世界なら、日々の行為はすべて自分たちが生きることに直結していますので、そこに価値という概念は起こりません。
しかし、それを他の人たちと共有する場面になると共通の指標が必要となりました。
自分の作ったものを他の何かと交換するとなると、それに費やした時間(労働量)と同等のものでないと割に合わない。
交換する対象は自分のかけた時間と同等か、それ以上のものでないと交換する意味がない。
これは理屈としてはごく当然の話です。
なぜならば、一日かけてやったことは一日の食料に相当しないと私たちは生き抜いていくことは出来ないからです。
もしも一日働いて半日分の食料しか得られなかったら、一年もしないうちに先細りになって力尽きてしまいます。
こうして自分のかけた時間(あるいは労働量)というのは、最低でも同等の食料エネルギーに相当しないと割に合わないという指標が生まれたのでした。
価値の正体は、自分が生きるために費やした時間や実働ということになります。
とはいえ、食料そのものが価値の中心にあるうちは、想念の垂れ流しは最小限におさまっていました。
それはこの場合の目的が、ただ生きることにあったからです。
関係性がシンプルなうちは、湧き上がる思いも限定的となります。
しかし「お金」というものを介在することによって関係性は複雑化していきました。
単に生きることだけでなく、より快適に過ごす、より楽しく過ごす、といった目的に枝分かれしていき、様々な想念が湧き上がることになったのでした。
価値というのはもともと明日の衣食住を保証するだけのものだったのが、衣食住プラスアルファへ変わっていきました。
物々交換では「A-B」いう関係性だったものが、お金が媒体となることで「A-お金-♾」という関係性になった。
つまりそれだけ多様な想念が流れる構造となったわけです。
私たちはお金という一つのものしか見ていないようでも、実際はその向こうにいくつもの違うものを見ています。
しかし誰もそれに気がつかず過ごしています。
それが想念を垂れ流す一因になっています。
まずはこの事実を自覚する必要があります。
数多くへ分流していくことによって、私たちの想念流しは活性化していきました。
それとともに自覚しなくてはならないのは、その垂れ流しの勢いについてです。
私たちはこれまた無自覚であるがゆえに、それを自制することなく、むしろ加速させています。
流れる川筋が増えた上に、ワンコ蕎麦のような勢いで次から次へと想念を投下しているのでした。
お金を持っているとそれに相当する生活が保証されます。
お金の所有量というのが、将来の自分の時間、自分の寿命、自分の命と同じ意味合いを持つことになりました。
たとえば10億円あれば将来安泰だと思いますが、一文無しだと将来生きられないと思う。
お金と自分の命がオーバーラップするようになったわけです。
そうなると、お金を失う不安は、命を失う不安となります。
お金を得る安心は、命を保てる安心となります。
お金を失う場合、単にお金そのものを失うということだけでおさまらず、その先にぶら下がった様々なものを失う感覚に置き換わります。
たとえば
「自分(家族)の費やした時間」
「費やした労働」
「自分の苦労」
「自分の将来の保証」
「自分の命」
といったものです。
こうしたものが失われると思うと、瞬間的に、怒りや不安、そして恐怖が湧き上がることになります。
もしこの時の自分を丁寧に観察できれば、複数の観念がゴッチャになって押し寄せていることに気がつくことができます。
そして、それらはどれも自分がお金に向けた想念の反射であることを知ります。
しかし意識がお金そのものに向いてしまっていると、自分でも何に怒ったり怯えているのかよく分からなくなります。
一方そうした感情は止めどなく湧き上がってきますので、それをせき止めるシンドさから逃げたい自分に、OKを出せるような正論に飛びつこうとします。
具体的には
「お金がないと生きられない」
「お金は苦労の対価」
「日々を削って得たもの」
「誰にとっても大事なもの」
というものです。
こうした一般論は自分以外の人に確実に賛同を得られるものです。
そのため、安心してそうしたものに飛びついて、湧き出る感情の波に流されることを正当化するようになるわけです。
怒るのは当たり前、不安になるのは当たり前、相手が悪い、状況が悪い、というようにして思考停止状態になります。
本当はその時こそが、その怒りや不安の理由を深掘りできるチャンスなのにそれを放棄してしまいます。
そして一度その状態になってしまうと、その嵐をおさまらせるのは非常に困難なものとなります。
月並みな正論や理屈が怒りや不安の原因ではなく、それまでお金に対して無制限に注ぎ続けてきた個々人の想念こそが嵐の原因です。
なのにそちらには目を向けず、明後日の方向にある正論や理屈にエネルギーを注いでしまうのでは、不安の嵐がおさまるはずがありません。
お金の向こうに散らかしたゴチャ混ぜの混沌。
そこでのたうち回っている自分を救い出さないかぎり、たとえ正論や理屈でもって見た目が解決できたとしても、怒りや不安が消えることはないのです。
価値や労働なんてものは、もとより存在しません。
自給自足の生活では、全ての行動は自分たちが生きるためのものなので、労働という観念はありませんでした。
そして本来それは、貨幣経済下の集団生活にあっても同じことであります。
自給自足では実行したことがそのまま漏らさず自分に返ってくるから余計なことを考えないだけの話。
貨幣経済にあっても遠回りで返ってきているだけで、自給自足と何ら変わらないのです。
価値というものにしても、自分が費やした時間や実働を指したものでしたが、それがそのままイコール、将来の生活を保証するものになるというのは少々強引な設定と
言わざるを得ません。
確かに過去に稼いだお金によって今の衣食住をまかなえているように私たちは信じ込んでいますが、それこそが思い込みでしかありません。
物々交換の時代も、過去に収穫した穀物はせいぜい2〜3年しかもちません。
それから先の保証などありませんでした。
そこに永遠に通用するというお金が取って変わったために、私たちは完全に騙されることになりました。
今現在のこの瞬間が過去の何かによって置き換えられたものではないように、将来もまた今ここの何かによって置き換えられるものではありません。
私たちは常に、今、生きています。
将来のために生きていることはありません。
たまたまお金という仕組みを作り上げた時に、約束事として過去のものが将来も通用するようにお互い決めただけなのです。
物々交換と同じ、即時性、即物性が今この瞬間も本当の姿として成立しています。
ですが、その感覚が消されてしまっています。
お金の約束事に意識が支配されてしまい、お金の価値が永遠ならば過去の努力も永遠だと思い込んでいる。
過去に費やした時間や労力はそこでもう完結しています。
将来を保証する価値というものは架空のものです。
ですから、価値を得たり失ったりすることに振り回される必要など無いということです。
お金に喜んだり怯えたりする必要など無いのです。
ただここで混乱しやすいのが、一方では、この世というのは私たちの思いによって「時間差で」作られるという原理原則が存在しているところです。
(これがあるため、お金の時間差も正しいと思い込んでしまうところがあります)
お金について言えば、先々を保証するものなどではなく即時的な物々交換と何も変わらないものです。そこに時間差など存在しません。
しかしこの世の成り立ちには時間差が存在します。
この場合、主体となるのは、費やした時間や苦労ではなく、思いであり行動です。
(ここでいう行動と労力とは違うものです。行動というのは無色透明な客観的事実のことを指します。苦労や実働、労力というのはそこに期待や欲得、感情といった想念が刷り込まれたものです。)
ここが大事なところです。
混乱しないようにもう一度言います。
過去に費やした時間や苦労はその場で完結しています。
ですから時間差によって将来に保証されるものではありません。
そういう意味で、価値というものは存在しないと言いました。
但し、過去の思いや行動は、そこで完結せず時間差で未来に影響を及ぼしています。
何かを行っている時の思いは、そのまま先々を作る材料になっています。
この場合の「思い」とは、現実に触れて発したネガティブ思念やポジティブ思念のことです。
狭義の意味では欲得や執念もそこに含まれます。
「外に向けたものが自分に返ってくる」「思いが創造する」とはそういうことです。
ですから実をいえば、もし今お金が無くなったからといって必ずしも「過去の苦労を台無しにされた」「将来の保証を奪われた」ということにはならないわけです。
過去の行動はすでに未来を作る材料となっており、お金があろうが無かろうが、未来はすでに作り上げられています。
お金が未来を保証しているのではなく、思いや行動が未来を保証しているのです。
従って目を向けるべきは、お金ではなく「何をしたか」あるいは「何をするか」なのです。
行動というのは無色透明なものです。
そこに「こんなに苦労した」「時間を犠牲にした」という思いを込めて、それをお金に投影させてしまうからおかしなことになります。
行動は未来を作る材料になりますが、そこに貼り付けた期待は未来に保証されるものではありません。
そこをしっかりと切り分けて理解する必要があります。
私たちが自分勝手に期待している様々な想念には、対価などは存在しません。
したがって将来においてその対価が保証されることなど無いのです。
そんなものにしがみ付いていたら本当の自縄自縛です。
労力や時間をお金に投影させてしまうと、私たちは自ら籠の鳥になってしまうということです。
(つづく)
※補足
厳密に言えば、本当はこの世の成り立ちもまた即時的なものです。
ただ、それではネタバレして一本道になってしまう(私たちがそうしてしまう)ので、自由度を無限に広げるために「時間が存在していることにしよう」という
約束を共有して、時間差という幻想を作り出しています。
思ったことや行なったことが即座に現実に反映してしまったら、私たちの言動は、安心安全の打算に縛られてしまうでしょう。
この世は少しでも多くの可能性を味わうためのものなので時間差が有効なのです。