私たちは、自ら積極的に観る立場にあります。
観させられるという受け身の立場にはありません。
与えられることに慣れてしまうと、まわりの景色が何も見えなくなります。
与えられた情報、与えられた悦楽は、与えられた世界を作ることになります。
本当の世の中とは何なのか。
本当の悦びとは何なのか。
世の中には情報や悦楽が溢れかえっています。
そうしたものをシャワーのように浴びていると、私たちはあちこち心が移ろい、見知らぬ誰かに身を任せる根無し草となっていきます。
それまで自由を謳歌していると思っていた身にとっては、まるで座敷牢にでも入れられたような鬱々とした気持ちになりました。
しかし、それこそは自分の景色を直視させられた瞬間だったわけです。
これまでの自分の生き方、過ごし方がどういうものだったのか。
当たり前と思ってきたことがどういうものだったのか。
私たちのまわりに溢れていたものは、与えられたものだったのではないか。
コロナ前の状態を当たり前と考え、あの日々に戻りたいといつまでもこだわっていると、目に映る世界は変わらぬままとなります。
今は、まさに禅寺のように「(執着できる)自由を奪うことで(執着しないという)本当の自由を得る」状況にあります。
まさかこのような「ただ自宅に居るだけ」という超シンプルな方法で内面が炙り出されることになろうとは誰一人思わなかったことでしょう。
コロナ前に追っていた悦びというのは、本当に自分が求めたものだったのか。
与えられた刺激を悦びと感じ、それを求めていなかったか。
もともと刺激を求めるのは人間の本能なので、それ自体がダメなことではありません。
ただ、本来それは私たちの内面から湧き上がる衝動によってもたらされるものです。
たとえば好奇心や探究心は恐怖や苦労を駆逐します。私たちのご先祖様は、命懸けで狩りをしたり、あるいは未知の世界を開拓したりしてきました。
そうした内発的な刺激と、与えられる刺激とでは天地の違いがあります。
口を開けて流し込まれる日々を過ごすと、そのまま中毒者になってしまいます。
水の中にいる魚は水の存在に気がつけません。
それが非常事態宣言により、私たちは強制的に水から引きずり出されました。
最初はあれが欲しいこれが欲しいと頭に浮かんでいたのが、数ヶ月もクスリを抜かれると健康な体に戻っていきます。
そうして最後、本当に欲したものは何だったか。
それは、人との繋がりだったのではないでしょうか。
離れた両親との連絡。
何十年ぶりの友人との再会。
パソコンを通じたリモートなんちゃらが一気に流行りました。
刺激というのは自分一人では起こすことが出来ません。外との関わり合いの中で生じます。
私たちはこの世に、様々な内的反応を得るためにやってきました。
色々な体験をして色々な思いを発するために、日々を生きているわけです。
そうした私たちや万物が集まったものが天地宇宙なのですから、平たく言えば、内的反応(データ)の集積が天地宇宙の生成発展そのものだと言えます。
正義と悪のどっちが正しいとか、ポジティブとネガティブのどっちが正しいとか、そんなものは浅瀬の話でしかないということです。
もちろんそれ自体が駄目と言ってるのではありません。動機付けとしてそれらは大切なものです。
そこから様々な体験が生じ、様々な内的反応が生まれます。
ただ、大切な要素ではあるものの、絶対視するものではないということです。
イデオロギーや理念、信念といったものは浅瀬のオマケにすぎません。
一方、人と人の交流はもっと根源的なものです。
外部刺激の最たるものは人との交流であるわけです。
いい人ばかりではなく、苦手な人、嫌な人との交流が避けられないのはそれだからです。
好きとか嫌いというのは極めて浅瀬にある判断基準に過ぎません。
様々な交流、様々な体験をすることがこの世での本来の務め。
するとこれまた、バンザイして諦めるしかないのかもしれません。
(つづく)