羅生門/黒澤明監督
三十年以上前に一度観ていると思う。あらためて観てみると、ほとんど忘れていた。こんなにまどろっこしい演出だったのか、ということと、お話のスジも三者三様皆違う出来事を語って困ったな、という話だとばかり記憶していて、まあ、そんな話ではあるものの、それなりに当時の世情を反映したようなものであるというのも見て取れて面白かった。
黒澤の羅生門という作品は、海外の人には大変に評価が高いと聞く。実際羅生門に影響された映画や小説の作品などは数多く、またその派生した作品の評価も高いのである。これまでにも羅生門のような謎解き作品は確かにけっこう観ていて、日本人である僕は、ははあ、これは羅生門を観たらしいな、という事くらいはだいたい分かるような事があった(忘れていたくせに)。しかしながら外国人が感心するのは、事実が人によって違うという事を見せられて、神さまはどこにいるのだと考えるらしい、というようなことを考えてしまうためではないか、という事を書いているものを読んだような覚えがある。日本人の神の居ない世界観とは何だろう、と考えてしまうような事があるらしい。確かにそんなもんかなと思わないことも無いが、はたしてそうだろうか。人によって事実が違うというのは当たり前で、神が居ようといまいと変わらないのではないか。むしろ唯一客観的な事実があるという考えというか観念というか建前というか、そういうことをカマトトぶって信じているような幼稚性のようなものは、現代人がすべて持っている正義感のようなものでは無いか。特に政治を報道するメディアの考え方のようなものが、羅生門をどのように捉えるのか。結局はそんな問題のようにも思えてくる。もちろんそれでは政治は困るのではないかという意見もまっとうなんだけど、そもそも政治はそんなものだろう。
確かに羅生門は面白いが、しかし困った話である。赤ん坊を抱いて家に帰った後に、一番困惑するのは妻であろう。