カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

こだわりの嫌悪

2018-05-23 | ことば

 自分自身では、特に物事にはこだわらない性格であると思っている。しかしこの、「こだわる」という言葉自体が好きでは無い。こだわったからなんだというのか。食い物にこだわりがあるのは煩わしいし、何かのうんちくというのは、興味が無ければウザったいだけである。みんなそう思っている癖に、こだわりがある方がいいと思っている人が居そうである。そういう感じがとても嫌で、こだわりという言葉がさらに嫌になる。人がしあわせになる為には、こだわりを捨てることだと仏教では教える。物事のこだわりが、しあわせを阻害するのである。皆が仏教を信仰している訳では無いから教えを知らなくて当然で(実際僕も知らないが)あるが、そういう感覚を知ることは有用である。
 しかしながら、こだわりは簡単には捨てられないのである。だからしあわせは遠い。別にこだわりたくないのにこだわってしまうのが人間性で、何もこだわりが無い人間というのは既に人間なのかは疑わしい。食い物にこだわるのは煩わしいと最初に書いておきながら、やはり刺身は醤油で食うべきだと思っているし、朝から納豆を食いたいという人だって相当いるだろう。そうしてそれが当然と思う人とそう思わない人がいる。どちらにもこだわりがある訳である。
 もっともこのこだわりというやつは、恐らくもっと極端なものを指しているとは思う。黄色い傘で無いと雨の日に外に出られないだとか、コーヒーを一杯飲まないと寝られないとかいうものは病的にも思えるが、いわゆるそれがこだわりだ。それは個人の趣向性として際立っているものであれば、面白くもあり楽しいという事かもしれない。そういうものを全部ひっくるめてこだわりを嫌っている訳では無いのだが(むしろそういうのは好きだが)、こだわりがいいことであるという感覚が、どうにも引っかかるのかもしれない。
 恐らくだが、物事を突き詰めて考えていて玄人っぽいところにいったものをこだわりと認識しているようなものが、なんとなく嫌なのかもしれない。いや厳密には、そうであるならばそれは素晴らしいはずなのだが、実はそんなところに行っていない人がこだわっているようなことが、嫌なのである。そういう境地に達していないにもかかわらず、本人はこだわりの末にそう思っているらしい感じである。
 まあ、勝手なんであるから、そんなことは放っておけば済むことである。実際ほとんど放っているが、心の中で嫌気がさしている。何というこだわりの心であろうか。そういう自分が嫌で、こだわらないと勝手に思っているのかもしれない。
コメント
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