今思い返してみると、まったく理解していなかった未来の驚きに、老眼という現象がある。ご年配の人が、何か文字を読むのに苦労している。そういう光景は目にはしていた。まあそういうものかという思いはあったのだろうけど、まったく共感として分かっていなかった。ちょっとくらい読めないことがあったとしても、ふだんは普通に生活しておられるように思っていた。むしろたいした問題では無い将来、というくらいしか認識していなかったのではないか。
ところがこれがあんがい厄介なんである。僕はもともと近視だから、眼鏡を外せば行動に制限がある。車の運転などは、大変危険だろうと推察される(危なくて眼鏡無しの運転など試せないが)。それに以前は、不確かな情報ながら、近視の人は遠視(老眼)は緩和されることがあるという話も聞いたことがあった。確かにメガネをはずしてモノを近づけてみると、ある程度は見えるというのはある。でもこれは厄介なことだし、めんどくさいことこの上ない。それにそうやって見たとしても、やはり焦点が上手く定まらないような対象がたまにある。そうやって見ないことにはどうにもならないので仕方なくやっているが、イライラする場面は結構ある。
眼鏡をかけていて見える世界は、眼鏡をかけていて見えている世界に限定されている。生活の中でものを見るという事では、その距離感であるとか、光の加減であるとか、当然外的な条件によってさまざまにある。しかしながら長年の勘のようなものがあるから、適当に視覚の不都合を補って、生活しているに過ぎない。多少見えていないものがあっても、特に注意しなければならないもので無いのであれば、もうあきらめて端折って適当にやり過ごしているのである。遠くのものがある程度見えていても、急に足元が見えづらいなどの危険は、だからものすごくたくさんあるのだ。
若い人達よ、老眼を侮ってはならない。例外はあるのかもしれないが、多少長生きした将来において、恐らく体験することになるはずである。そうして聞くところによると、スマホなどを常時扱っているような人ほど、老眼の度合いは早く進むことがあるらしいのである。これは単なる脅しでは無い。そしてそれは、これからの僕の将来においても、更に加速度的に不便になるかもしれない恐怖でもある。世の中がきれいに見えているような時間というのは、実はそんなに長いものでは無いのかもしれない。せいぜいその時間を大切に過ごしてもらいたいものである。