流行語大賞に「ふてほど」というのが選ばれて、かなり批判の声を聞いたわけだが、確かにそれもそのはずというか、僕はこの言葉を聞いたことが一度としてなかったし、活字としても一度として読んだことが無かった。別に特別な隠居生活をしているわけでもない訳で、流行語を選ぶ媒体として、この賞の意味は失われている。しかしながらこの略語のもとになっている「不適切にもほどがある」というドラマがあることは、知らないでは無かった。観たことは残念ながら無かったが、そういうのは、テレビドラマなのだから、そういう事があって当然である。しかしこのドラマに関する雑誌記事などは読んだことがあるので、社会現象になっていたかはともかく、それなりにヒットした作品であろうことくらいは認識している。しかし、そういうことを知っていてもなお、「ふてほど」の違和感は大きい。誰もこれを略して言ったり書いたりしている場面が、一度として無かったからだ。そういうことは、繰り返すが僕が特殊なことだったのではなくて、批判の大きさから考えても、多くの人に共有できる感覚であっただろう。
観ていなくても、内容の一部をなんとなく知っているのは、これをもとに昭和に関する現代の違和感を語る人が居たり、やはり記事で読んだことがあるからだ。昭和の時代に生きた僕としても、昭和は遠くになりにけりであって、当然いろいろな感慨はある。生まれてから青春のほとんどを昭和で過ごした訳で、その時代が懐かしく無い訳がない。しかしながら現在と比較して、それが良かったとか悪かったとかいうのは、さて、もう合わないだけの事であって、どうなんだろうとは思う。今が何でもいいとは言えないが、しかしもう元に戻ることは無いのだから。
昭和の人の煙草のマナーがひどかったというのは、確かにそうだったのだが、それが当たり前の時代にあっては、当然ながら特段酷かったわけではない。乗り合いバスなどでは吸う人は無かったが、長距離の列車や、なんと飛行機では、たばこを吸う人がいたようだ。映画館でもタバコの火がチラチラすることがあったし(考えてみるとどこもそうだったわけではなく、古いタイプの映画館に、そういうところが残っていた)、病院でも患者はともかく、診療中の医者が吸ったりする病院もあった。確かに今考えると異様な光景に思えもするが、皆が許容していたのも確かで、すでにたばこの害は言われてもいたが(なんとコーヒーも同じように体に悪いとされていた)、まあ、多少の遠慮があればいいし、周りの人間が目下のものであれば、気にする必要など無かったのである(それこそが昭和的だとはいえるが)。
昭和のことが良かったと言っている多くの人は、そのようなおおらかさの様なものに対して、言っていることが多いと思う。最近の人は、とか、最近の風潮は、とかいうような物言いの中に、妙に気を使わなければならない現代社会への視線がある。当然のことのようになっているかもしれないけれど、サービス的に気遣う姿勢は消えていて、注意しても改めるそぶりもないし、逆にパワハラだの上から目線だの、奇妙な論理でもって非難されかねない。以前は改めるべくものは、そうするチャンスがあったし、一定の良識のようなものは、むしろ高いものがあったのではないか。そういうあやふやなところなので、きっちりを比較ができかねるのだが、少なくともそのような気分的な対立のようなものが、存在する。つまるところそういうものが、おそらく不適切的なほどの問題の根底なのではないかと想像する。
だいぶ話は思わぬ方向に来てしまった訳だが、もう共通理解も無い訳だし、全体的に納得のできる流行語なんてものは、そもそも存在しにくくなってしまった訳である。