カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

未来が分かっていても今を生きられる   メッセージ

2018-05-16 | 映画

メッセージ/ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督

 正直に言って一度観たくらいでは分からなかった。なんだろうこれは? と思ってもう一度観た。それでもちゃんとわからなかった。ずるをしてネットであらすじを見て、びっくりした。そんなお話だったのか! でもまあ、そういう感じであっても、不思議と楽しめたということか。量子力学的なお話だったという事であれば、それなりに納得がいく。
 宇宙人がやってきた、という感じが確かにいい。実際にやってくると、そんな感じになるのかもしれない。人間は大混乱に陥るが、これも当然だ。交信を試みるが、最初はやっぱりよく分からない。イカのような生物が墨を吐きだして丸い文字のようなものを見せる。それを解読していく言語学者の物語である。そうしてある意味で、彼女の一生の物語で、地球を救う物語だ。そんな風にいうと、なんだか日本のアニメみたいだな。
 文字を解読していくと、その理解共に、自分自身もイカのような生物と同じような時間軸を理解できるようになるというお話だという事である。これが分からないと、物語が理解できない。要するに僕にはこれが観ている時にはぜんぜん理解できなかった。しかし、後で考えてみると理解はできるので、それはそれでいいのかもしれない。映画館で観なくて良かった。そういう時間に長い間投げ出されたままでいると、気分はきっと悪くなったに違いない。
 実際の話として物理や時間があるのだから、僕は宇宙人がやってこないことは既に知っている。しかしこのような物語であれば、ひょっとすると希望は持てるのかもしれない。なるほどそういう手があったのか、と感心した。それでもそう簡単にはやってはこないだろうけど、夢を見ることくらいは出来るだろう。地球が混乱するのは迷惑だけど、来たらやっぱり面白いだろう。しかしこのように好意的である可能性は、限りなくゼロに近いとはホーキングさんが予言している。その予言が間違っていることを、僕は願っている訳だ。そういう人達が映画を作ると、このような作品になる。人は運命が決まっていても、生きることが出来る。それは希望なのかどうかはよく分からないのだけど、まあ、ひとつの面白い見解であると言えるだろう。
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漫画の完結を待つ

2018-05-15 | 雑記

 子供のころから漫画は大好きでよく読んでたはずなんだが、最近になって気付いてみると、あんまり漫画に目を留めなくなっているように感じる。漫画雑誌は買わなくなって久しいし、どこかで待合している時など、漫画が置いてあるような環境にもなかなか接しない。状況が変わったとしか言いようがない。
 漫画も時々買うけれど、買ってもあんまり読んでないように思う。だいたいなんで買ったんだろう、などと思う。大人になったので全巻買うようなことも(中古なら)出来るようになったし、けっこう持っているかもしれないと思う。でも漫画なんで、あんまり職場においておけないような圧力も感じたりして、やっぱり持って帰ったり段ボールに入れたりする。そうすると、面倒だからもう見なくなる。たぶんそういう関係で読まないのだろうと思う。
 また漫画というのは、ある程度人気のある作品になると、やたらに長くなっていつ完結するか分からなくなるという事がある。ガラスの仮面のように訳が分からなくなってしまうこともある。ゴルゴなんてどうなってるんだろう。そういう超有名でなくても、時々続いているのに連載が止まったらしく、いわゆる休止状態になったりする。事情はあるんだろうけど、困る。そういうものに手を出すにも不幸な感じがするので、今話題、といわれても安易に手を出せない。どうせ読まないこともあるんだから気にしないでもよさそうなものだけれど、警戒心があってそうなってしまう。
 また、長いというのは出張なんかにも持って行きづらい。今回はだいたいどれくらいまで読めるのか、見当がつかない。また何冊もかさんでしまうのはもっと困る。読みかけでも、漫画は敬遠してしまうことになる。それで途切れてそれきりの付き合いになってしまったりする。再会できるとまた続けられるかもしれないが、別に持って行った本が面白かったりすると、そのまま忘れ去られていくのかもしれない。
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下層に生きる人々は冷たい   午後8時の訪問者

2018-05-14 | 映画

午後8時の訪問者/ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督

 ベルギー映画らしい。フランス語で話されていたようだったからフランス映画かなと、観ている間は思っていた。さらにダルデンヌ兄弟作品だったとは。この監督作はいくつか見ていてそんなに感心してなかったのだけど、まあ、今回はまあまあという感じだろうか。面白いというのじゃないし、事実結局たいして面白くも無いが、そのつまらない感じがいいというのはよく分かる作品である。自分の見栄でひとが死んでしまったのかもしれないという思いにとらわれて、しかしそれでかえって怖い思いをしてしまう。物語はそれなりに複雑に絡んでいるが、警察の動きが鈍いようにも思ったが、考えてみるとそれは当たり前の話だった。
 若い女の医者が、おそらく貧しい地域の診療所で働く大変さが伝わってきて、ヨーロッパというのは、つらい場所なのかもしれないな、と感じた。日本やアメリカのような明るさが無いし、閉塞感はそう簡単に打開できそうにない。実際の背景は日本人である僕には分りえないことだけれど、そういう問題意識があるからこそ、こんな映画がつくられたのではあるまいか。
 それにしても知られたくないことを探られると、人というのは当然頑なになって行く。しかし教えたい葛藤もあるらしく、その不協和音を女医が壊してく過程がスリリングである。本人としては事実を知りたいだけなのに(それも自分の責任感として)、かぎまわられる方はあくまで冷たく、そうして暴力的にも見える。事実はたいしたことは無いのだが、そういう社会だからこそ生まれた悲劇である。ほんのちょっと関わるかもしれなかった女医の立場としては、今後もそういう世界で生きて行くという決意を固める出来事になったのかもしれない。医者としては、他にも生きようがあるのだろうけど、ある意味では大変に勇気のあることなのかもしれない。そういう人が少しでも増えると、ヨーロッパの閉塞感も変わっていくのかもしれない。
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白川などを歩く

2018-05-13 | 散歩
 今回というか、最近はバスで移動するようにしてます。自分で運転ってやっぱり疲れるような気がして…。それに一人だと駐車場やガソリン代を考えると、却って割高になっちゃうんですよね。きついのに損してるってのは、なんとなく許されません。



 おそらく規定があると思うのですが、この距離なら長距離バスは二度の休憩をとります。安全運転よろしくお願いします。



 通町筋で下車。熊本でありんす。



 この日も大変な陽ざし。暑い暑い。



 会議まではだいぶ時間があります。ここまでは何か食おうか考えてはいました。とりあえず着替えの荷物を泊りのホテルに預けましょう。



 ここのあたりがホテルでした。まあいい立地っすよね。



 アーケイド広いッス。
 

 日向はとにかくたまらん。



 なんでまたこういう方向に歩いているのか、自分でもわからなくなってきました。電話してたらこうなったんですよね。



 藤崎八幡宮にやってきました。







 ウラは静かだった。



 でも川には出られないのね。残念。



 じゃあ、回り道します。



 で、白川っすよ。白というか濁ってますけど。



 この時点でもう昼めし諦めました。休憩がてらどこか入ろうかとも思ったけど、方向が違ったな。



 これはなんか水路でしょうね。



 産業道路を下ってみよう。暑いけど、風はあって立ち止まると気持ちいいのです。



 消防署が近くにあって、元気よく訓練してました。お疲れ様~。

 

 しばらく行くと尚絅大学というのがあった。



 そろそろ右に曲がって白川に戻ろう。



 公園は涼しそうです。



 で、再度白川を渡ります。



 わたって銀座通りに出る道はちょっと複雑になってます。



 また街中散策して、鶴屋の地下道通ったりしました。



 本番の会議は滞りなく。懇親会、二次会も行きました。そういうのは本番なんで写真無し。散歩日記ですから。



 宿泊ホテル帰ってきたッス。



 他の人はラーメン行ったりしたんだよ。僕はコンビニにしました。



 でも寝かたが悪かったのか、どうもまた風邪ひいたらしい。僕は年間20回くらい風邪ひくので、もう仕方ないですけどね。とにかくシャワー浴びて飯食いました。



 で、朝の散歩です。

 

 土曜日だったし人も少なし。いい感じですね。鼻水さえなければ。





 あれっ、紅蘭亭取り崩されてましたね。建て替えられるのかな。
 実は震災後に妻と熊本に来たことがあります。その時紅蘭亭で食事しようと寄ったのです。でも注文後に妻が急に具合悪くなって、この紅蘭亭の2階だか3階の震災で閉鎖されていた宴会場の部屋で少し休ませていただいたことがあったのです。本当に親切にしてくださいました。その時はちょうどお祭りの日だったみたいで、たいそうな喧噪にまぎれていて、救急車呼んでも、とても来てくれはしなかったでしょう。本当にありがたい対応で、素晴らしい店だな、と思ったことでした。おそらくまた再建して立派な店舗になるんだろうと思います。また改めて食べに来ないといけませんね。



 荷物もってバス停に来ました。やっぱりいい天気だよ。



 帰りのバスの読書は鼻水の影響で進まず。バスの中では文字書くのもうまくいかない。もう、ボーっとしてました。ほとんどマインド・フルネスですね。まあ、それでもいいんでしょうけど。



 もう少しで着くところ、でも二回目の休憩です。



 移転前の職場の頃は、ここも散歩してましたね。



 帰って来て、コンビニラーメン食べました。ただいま。



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少年と湯川   真夏の方程式

2018-05-12 | 映画

真夏の方程式/西谷弘監督

 途中で二度目だと気付いた。それもかなり後半。原作小説も読んだ気がする。そんなに好きなのか、というとそうでもないはずだが、さらになんとなく鼻につく感じは好きでは無い感じなのだが、観てしまうものなのだ。
 因果関係ドラマだが、結末は残酷だ。殺された人がいるのだから犯人を捕まえて当然という考えもあるが、そこまで暴かなくてもいいような気がしないでは無い。しかしそれでは、このトリックのためのお話が成り立たないということか。
 殺人事件の謎解きと同時に、主人公の湯川と少年の友情(?)のようなものも描かれている。設定では湯川は子供嫌いであるようだが、何故か絡んでくる少年が気になるらしい。というか仕事を放りだして、かなり濃密に関わる。もっとも事件のカギを握る働きを少年はしていたわけで、関わったことが不純だった可能性も無いでは無い(演出としてはそうでは無いが)。
 違和感があるのは、少年に関わって理系人間を増やしたい野望のようなものを湯川がもっているのではないかという疑いだ。少年の成長に湯川は大いにかかわっている自覚があって、妙に説教くさい。それが湯川伝説としての凄さなのだ、と演出では言いたいのは分かる。しかし少年はペットボトル実験の体験が楽しかったというのが第一で、本当にレポートまで気に入ったのか大いに疑問だった。また最初の出会いも、何かマジックを見た驚きで興味をもったという感じであった。湯川という人間は、基本的に一般の人からはそういう興味の人なのではないか。それに子供嫌いは分かるが、少年のような好奇心が、恐らく湯川も物理の世界に入り込むきっかけとなったであろう基本的なものなのではないか。警察の捜査にはかかわりたくない思いがあっても、どうしても科学的なトリックになると好奇心が働いて放っておけない。それが湯川の魅力であり、クールだけど子供っぽいところなのである。まあ、人間関係まで推理で分かってしまうのだから、あんまり理系っぽくないのではあるが。
 という事で、結局楽しんでいるんでしょうね、僕は。
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平均4分の問題

2018-05-11 | 雑記

 テレビを見ていたらある学者さんが、「ひとの性行時間は平均4分だが…」と説明していた。アメリカ人のようだからアメリカの統計だろうけど、この統計はいったい誰がとったものだろうか。
 アンケート調査の集計であるなら、本人が感覚で答えているはずである。仮に嘘を言っていないとしても、時間を計っている人がどれくらいいるのか。ボクサーだと試合時間の3分を体で覚えていてかなり正確に分かるようになるというが、ほとんどの人はボクサーではあるまい。ましてやある程度集中した状況において、その感覚は本当に正しい時間を割り出せるのか。またセックスの時間というのは、一体いつからいつまでを指して言っているのか。男性の場合具体性がある程度あるように思えるが、その具体的な耐性の時間であるとは限らない。しかしながら4分か。まあ、そうかもしれないと、とりあえずは言ってみるか。
 もしかしたら実際にいくつかのサンプルを試してみたというのなら偉いなと思う。そのような地道な研究というのであれば貴重である。しかしながら実際にそのようなサンプルとして立ち会うのを同意したり、そのやり方の詳細というものがどのようなものなのかは、やはり正確には基準を合わせにくいのではないか。どうしても平均を割り出さなければならないという問題という認識を共有できるのか。自分自身がそういうことを毎回記録して、平均とする訳にも行かない気がする。そうでないならやはりそれなりに大変な作業になりそうだ。安全性の確保など実施する前の課題も山積しているように思える。
 さりげなく根拠として用いられた4分という時間は、本当に信頼できるか、やはり疑わしいのではないか。どうでもいい人にはどうでもいいのかもしれないけれど。
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困った話は皆で困ろう   羅生門

2018-05-10 | 映画

羅生門/黒澤明監督

 三十年以上前に一度観ていると思う。あらためて観てみると、ほとんど忘れていた。こんなにまどろっこしい演出だったのか、ということと、お話のスジも三者三様皆違う出来事を語って困ったな、という話だとばかり記憶していて、まあ、そんな話ではあるものの、それなりに当時の世情を反映したようなものであるというのも見て取れて面白かった。
 黒澤の羅生門という作品は、海外の人には大変に評価が高いと聞く。実際羅生門に影響された映画や小説の作品などは数多く、またその派生した作品の評価も高いのである。これまでにも羅生門のような謎解き作品は確かにけっこう観ていて、日本人である僕は、ははあ、これは羅生門を観たらしいな、という事くらいはだいたい分かるような事があった(忘れていたくせに)。しかしながら外国人が感心するのは、事実が人によって違うという事を見せられて、神さまはどこにいるのだと考えるらしい、というようなことを考えてしまうためではないか、という事を書いているものを読んだような覚えがある。日本人の神の居ない世界観とは何だろう、と考えてしまうような事があるらしい。確かにそんなもんかなと思わないことも無いが、はたしてそうだろうか。人によって事実が違うというのは当たり前で、神が居ようといまいと変わらないのではないか。むしろ唯一客観的な事実があるという考えというか観念というか建前というか、そういうことをカマトトぶって信じているような幼稚性のようなものは、現代人がすべて持っている正義感のようなものでは無いか。特に政治を報道するメディアの考え方のようなものが、羅生門をどのように捉えるのか。結局はそんな問題のようにも思えてくる。もちろんそれでは政治は困るのではないかという意見もまっとうなんだけど、そもそも政治はそんなものだろう。
 確かに羅生門は面白いが、しかし困った話である。赤ん坊を抱いて家に帰った後に、一番困惑するのは妻であろう。
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四コマと言えばまっぴらかアサッテ

2018-05-09 | 雑記

 朝刊には何故か四コマ漫画が載っている。子供のころに新聞を読むと言ったら、大抵「テレビ欄だろう」という声があって笑いが起こる。まあ、面白いのかもしれないが、普通はこの四コマ漫画を読んだのではないか。社会風刺でよく分からない時もあるが、時々面白いことがある。そんなに面白くないと思っても、コツコツ毎日見てしまう。おそらくだが、新聞に親しんでもらう工夫の一つとして、この漫画をとっかかりにするというような、新聞社の魂胆があったのではないか。でもまあ僕はちゃんと一面から一応目を通して、最後の社会欄で漫画を読んだ。小学三四年でそんな感じだったように思うので、何か親からそのように読めと言われたのかもしれない。新聞の記事なんて隅から隅まで丁寧に読むわけではないから、おもむろにめくるだけめくって最後のご褒美みたいなものだったのかもしれない。
 うちは子供のころから毎日新聞で、政治面ではヒトコマ漫画などもあるのだが、それを別にすると、だいたい二つの四コマ漫画が載っていた。一つは加藤芳郎の「まっぴら君」である。この人が連想ゲームの人だとは、後で知った。子供のころはそんなに面白くないと思っていた方だが、実はだんだん面白くなった。ときどき「なるほど~」と感心する。天才ではないかと思うこともあった。
 もう一つは東海林さだおの「アサッテ君」(一時期8コマ漫画だったこともある)。これは大変に波のある漫画で、つまらないときは「超」が付くくだらなさなんだが、アタリの時はひどく面白い。このあたりが東海林さだおの持ち味というか、なんというか、いいところだった。いや、全体的ないい感じだった。アタリの時は素直に喜んで凄いな~と思い、はずれの時は、まあ、しょうも無いな、と思って登校する。そういうリズムのおかげで不登校にならなかったのかもしれない。
 二つともいつの間にか連載は終わって、今は違う漫画が載っている。その今の人であるいしかわじゅんは好きな漫画家だったが、今は特に見てない気がする。何というか新聞の四コマには今一つ合わない感じもする。まあ、いつかなじんで読むこともあるかもしれないので、とりあえず保留である。
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古臭くてかっこいい   愚か者死すべし

2018-05-08 | 読書

愚か者死すべし/原寮著(早川書房)

 探偵の沢崎は、移送中の容疑者と警護している警官がともに撃たれる現場に鉢合わせる。その後、犯人を自分の車で追うが逃げられる。横浜の銀行強盗事件とある老人の失踪事件も絡んで、単なる組長身代わり銃撃事件とは様相を別に展開されていく。そういう中、沢崎は事件の重要な立ち位置にいるだけでなく、警察も上手く欺きながら、事件の核心に迫っていくことになる。
 ハードボイルドの独自の文体で、実にカッコよく沢崎が際立つ立ち回りをする。考え方もきわめて独自で、独りよがりで身勝手だ。ヤクザ相手にも一歩もひるまないし、警察相手に命令口調を崩さない。法を踏み越えた行動ばかりしているが、法にはふれない細心の注意力と運を持ち合わせている。事件の真相は、何度も驚くような見事などんでん返しの連続である。沢崎はそのすべてを最初から知っていた訳では無いが、結果的にはその局面局面では、知っていたとしか思えないような行動をとっていた。実にすばらしいのである。
 娯楽作品に徹しているので、この面白さに身をまかせて酔っていればいい作品である。完成度も高く、沢崎ファンは喜んだことだろう。その後やっと最近になってシリーズの続編が出たようで、結局待たされたことに悲観した人は多かったであろうけれど。
 ハードボイルド作品が他にも無いとは言えないが、このような古めかしいタイプの作品は、今や珍しいのではないかと思われる。それというのも、やはり現代にはこのような架空の男や女は存在していないはずで、リアリティの欠片も無いからだ。ヤクザだって、このような存在で生き残ってはいないだろう。それは作品世界のことだから、読む分には何の問題も無いことであるが、そういう部分も含めて、何か郷愁の漂う作風になっていると言えるだろう。携帯電話が重要な役目をする作品にもかかわらず、主人公の沢崎は、この電話の使い方をよく理解はしていない。しかし結果的には登場人物たちに、上手く使わせてしまう。まさに魔術師的な鮮やかさなのだが、そういうところがまた、古臭くもカッコいい訳である。現実には使えない人間は、蔑みの目で見られるだけの存在にすぎない訳で、決して沢崎にはなれない。しかし読んでいる時間はそんなことは忘れてしまえるのである。
 そういう意味ではある一定の一貫性があるのだけれど、その所為もあるのか、あまり量産もされないのかもしれない。要するに作るのに大変に手間がかかってしまうという事だろうか。それは作者でないから分からない話だが、自身のあとがきには、これからシリーズは順調に発表されるはずだった。現実には違った訳で、そのミステリもいずれ明らかにしてほしいものである。

追伸:自宅の本棚を見るともう一冊あるようだ。読んだ形跡もある。今考えてみると読んだはずで(原寮は全部読んだんだった)、楽しくまた読んでしまった自分にあきれてしまう。まあ、それでいいんだけどさ。
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人間にとっての猫とは何か

2018-05-07 | HORROR

 スティーヴンス島のネコという有名な話がある。スティーヴンス島の灯台守に赴任した人が、猫を飼っていた。スティーヴンス島には、スティーフンイワサザイという飛べない鳥が生息している島だった。この猫は、毎日スティーフンイワサザイを獲ってきた。そしてついにこの固有種は、ネコ一匹によって絶滅してしまった。
 実際には他にも猫が住んでいた(過去に持ち込まれていた)とも言われていて、一匹の猫が絶滅させたというのは違うとも言われているが、少なくとも独自の進化で飛べなくなった固有種が、人間の影響で絶滅したのは間違いないだろう。そういう象徴的な逸話として有名なのである。
 これまでにも人間の影響で、多くの生物が死滅させられたには違いない。それくらい固有種というのは、実に別の環境にもろい存在と言えるのかもしれない。またはある種の条件に特化しすぎることで繁栄しても、別の外的な要因によって、先には致命的な影響を受けるということにもなるのかもしれない。
 もちろん地球環境下でなければ生きられない生物がほとんどである。宇宙の中では極めて特殊な環境下にあって、我々は生きながらえているのである。地球にとってのスティーヴンス島の猫は、なんであるかはわかりえない。しかしそれは、おそらく人間であっても狩ってしまうような脅威であるはずだ。また人間は自らを脅威に陥れる技術さえ持っている。それは語らずも分かり切っていることであろう。
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つらいひとはつらいままかもしれない  恋人たち

2018-05-06 | 映画

恋人たち/橋口亮輔監督

 いわゆる群像劇で三人の物語になっている。一人は通り魔殺人で妻を失った男。一人は嫁として夫と姑の間で使いまわしにされているような主婦。もう一人はゲイの完全主義者の弁護士。テーマ設定というか、それぞれに偏見などに悩まされ自分らしさにみたされないとか、他の人から理解されにくい状況を描いている。キャストは無名の俳優さんたちで、それが一種の市井に埋もれる人々を浮き上がらせているような演出になっている。演技が下手だというよりも、何か存在感がはっきりしないような妙な距離感があるように思えた。それぞれに興味としては特殊な状況におかれている人々なのだが、問題意識を浮かび上がらせることには成功しても、ほんとうには身近な問題ではないような感じだろうか。そういうところは橋口監督にしては、今一つという感想をもった。
 まあ確かに現代に潜む社会問題を浮き彫りにしているという事はそうなのかもしれないが、なんとなく自分たち自身でこじらせてしまって、生きにくい世の中を生きているようにも思えた。社会が悪い所為で個人的に被害をこうむって、苦しんでいる人というのはいるのだろう。いや実際の問題として、そのような個人が際限なく苦しめられていることは、簡単に無視できる問題では無い。そういう問題意識に敏感な人々いうのがあって、何とか啓発して解決できないかと模索されてもいると思う。そういうものが社会的に有用なことであるという考えも、よく分かりはするのである。
 ただし、自分でこじらせている個人問題が、社会的に普遍的な問題で無いのであれば、その解決のためになされたことが、逆の立場の人を苦しめる副作用のようなものが生まれない保証はない。何もしないより何かした方がいいと思う反面、そういうことに無頓着でいいのか、とも思う。自分だけがいいのであればそれでいいけど、それをあたかも社会問題にすり替えて逃げるのはもっとよくない。別に僕は正義漢では無いが、時折こういうものを見ると、率直にそう感じてしまう。後半それぞれに一定の社会への理解を示す表現があるが、そういう事を分かっている第三者から啓発されたという感じもする。そのことに気づけるほどに成長したとも考えられるが、やはり他人任せのような考えがあるのではないだろうか。
 今つらい人がこの映画救われるならいいだろう。観ていて痛々しいのは、そういう結局は離れたところに居たまま入り込めなかったからかもしれない。
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自動車学校は生き残れるか

2018-05-05 | culture

 東京や大阪の出張の時は、まずレンタカーなどを借りることは無い。公共の交通機関が発達しているので、手段としてそのまま駅に行けばいい。車はたくさんあるようだが、そういう意味では車社会では無いと考えている人もいるかもしれない。時間も正確だし、渋滞などの煩わしさも無い。また給油や駐車場確保など、そういうことを気にする必要も無い。もっとも駅のそばで無い目的地などになると、多少困るかもしれないが。
 東京の近郊に住んでいる人で、車の免許を持たないという人もいるらしい。免許を持つ必要が無いというのを、いわば自慢げに聞くこともある。自分の特権では無いとは思うが、そういう必要が無い生活はうらやむべきことであるという意識があるのかもしれない。都市生活を満喫しているというのは、すでに人間として上位の生活であるという事なのだろうか。感覚としてよく分からないものだが、ある種の自由さのようなものを感じておられるのかもしれない。車に縛られない、又は煩わされないというのは、人間的な自由さなのだろうか。
 ピンと来ないのは仕方がないはずで、羨ましくは無いのである。田舎暮らしが素晴らしいとばかりは言えないが、電車で無くて車であるというのは、なかなか楽しいことだからである。電車は大量輸送には適していることかもしれないが、やはり田舎の人間には少なからず煩わしい。待たずに頻繁に来ると言っても、まったく待たない訳では無いし、さらに人がたくさん乗っていたりする。座れないかもしれないし、窮屈である。いろいろマナーのようなことがあったり、時には妙な人がいたりして、緊張する。そうして乗り継いで行っても、けっこう歩かされる。それはそれで体にいいもしれないが、果たして自由で便利なのか。そういうことに縛られているような感覚があって、たいへんに疲れる。出張などの一時のことだから、なんとか我慢できるという事なのではないか。
 ドライブするというのは、そのまま娯楽である感覚がある。車は危険な乗り物であるとはいえるが、しかし運転すること自体は、それなりに楽しかったりする。渋滞すると面白い訳では無いが、車の中では音楽が聴けるし、誰か乗っていれば会話もできる。カーナビの設定によっては電話も自由だ。煙草を吸う人は、自分の車なら気兼ねしない空間かもしれない。直接吸うだけでなく受動喫煙も、煙が蔓延しているのでばっちりだろう。
 田舎は車が無ければ暮らしが成り立たないが、その車自体が娯楽なのである。鉄道はダイヤが少なくなり、ますます経営は難しくなっているようだ。路線は削られ本数は減り、ますます不便になる。それはさらに車への依存を高めることになるだろう。また、将来的には自動運転という流れも出ている。確定してはいないが、恐らくそうなれば、高齢者の免許返納などの問題も無くなるかもしれない。ドライバーの必要ない車も登場するかもしれない。免許なんていらないというのは、どこに住んでも当たり前の世の中になるかもしれない。免許のいらない優越感というのは、その程度のことである。
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危険というよりやっちゃダメだろ   危険なメソッド

2018-05-04 | 映画

危険なメソッド/デヴィッド・クローネンバーグ監督

 割合に有名なフロイトとユングの話なのだが、改めて映画で観ると、そうだったのか! という感じだろうか。患者としてやってきた女性と恋仲になるユングだが、そういう情交と恋愛を通じて治療することで、フロイトと決別してしまうという一連の流れを描き出している。今ではちょっと考えられない時代背景があるようで、まあ精神病が治ったから良かったものの、やっぱり問題の多いユングなのではないか。今となってはフロイトもだいぶ怪しいことは分かっているけど、いまだに精神医学の父のようなことになっていたりして困る。いや、僕は特に困らないが、一般の人は勘違いしたままなのではないか。でも伝説なんだからいいのか。
 さらにクローネンバーグ監督作品だから観たのに、ちょっと拍子抜けするくらいひねりの無い展開かもしれない。実話を味付けするのはあまり得意では無いのだろうか。ともかく普通に失敗作と言えるだろう。まったく面白くない訳では無いだろうが、ほとんど面白くはなっていない。キーラ・ナイトレイの演技が賞賛されているようだが、ちょっとわざとらしいだけのような気もする。そんなんで賞賛しては、よくないのではないか。美人だから冒険の演技というのは、そんなにたいしたことなのか。美人だから顔を崩した演技をすることが、特に苦痛なんだろうか。それはそれで、美人では無い女優に失礼ではないか。
 大らかな昔を懐かしむという人向けなのか、やっぱりセックスがショッキングだと考えた監督の考えを深読みするのかは自由だが、それがそんなに現代的にウケないことくらいは、分からなかったのだろうか。確かに禁断の愛かもしれないけれど、なんとなくさばさばしてて、かえって僕には不思議な感じがした。恋愛なんだから、もう少し執着してドロドロして欲しかった。向こうの人は、メンツが生活の邪魔をするのかもしれない。本音と建前が大切な西洋人らしいという事だけは、見て取れる作品なのかもしれない。やっぱり恋愛は、昔っから日本の方が自由だな、と思います(まあ、昔にもよるけど)。
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足を引っ張っているのは同朋ではないか

2018-05-03 | net & 社会

 日本に来ている外国人はたくさんいる。観光もいるし、仕事や留学生もいるだろう。せっかく日本に来たのだから楽しんでもらいたいし、また日本を好きになって欲しいものだと思う。
 日本に来ている欧米人については、特にこの話の対象ではない。ちょっと気になるのは、主にアジアからきている人たちについてだ。それも、多くの日本人の態度についてかもしれない。今やコンビニをはじめ多くのサービス業の仕事では、外国人労働者があふれていると思う。仕事をすることは大切なことだし、お金が必要な事情もそれぞれにあるだろう。ただ僕が気付いた範囲の狭い内だけの話なのであろうかもしれないが、そういう人達に対する少なからぬ日本人の態度に、非常に悲しいものを感じることがある。
 日本に来て日本語をどのくらい出来るのかというのは、国では無く個人の問題である。しかしながらこの働いている国の人に対して、なんだか冷たい人がいるように感じる。インドやフィリピンなどの国の人が下手でも、まあ仕方ないという態度で済ませる人が、どういう訳か東アジアの国の人だと、妙に高圧的な態度になるのを何度も見るのである。中にはお金を投げるように渡したり、レジからの商品を引き離すように持って行ったりする人がいる。相手の話す言葉に、明らかにしたうちしたり、「あっ」とか馬鹿にしたようにつぶやいたりする。
 また仕事関係で貿易をしている会社の人などから聞いた話だが、外国からの問い合わせなどがあるとき、相手が中国人だと、ある程度流暢な日本語であっても、対応を渋る担当者が多いのだという。中国人からの問い合わせは、それが苦にならない人のみという事が多くなるのだという。実は日本語として分かっているのに、面倒に思って対応しない日本人社員があんがい多いのである。
 そんなダメな日本人ばかりだとは思いたくないが、実際にそういう人を目にすると、本当に残念な気持ちになる。そういう日本人に接することによって、そのときどきの中国人は何を思うだろうか。どのような思いで日本語を勉強してきたのだろうか。
 居酒屋で飲んでいてお隣の会話が聞こえてきて、やはりアジアからの労働者の話をしていた。彼らが言うには、外国人は金の為だけに日本来ているのだから、さもしい人達なんだという事だった(大意)。まあ金の為に日本に来ているとしても、それが何で悪いことなんだろうか。僕はまったく分からない。高度成長期の出稼ぎ労働者は、さもしい人々だったのだろうか。
 こんなことを僕のような人が心配してもはじまらないのだろうけれど、日本の将来はあんまり明るくないのではないか、と思う。それでも外国人を受け入れられない人々によって、僕らも巻き添えになるのだからたまらないとも思う。この国の期待できない人々以外で、頑張っていくしかないのだろうか。
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家族は仲良くしよう   RVコレクターズエディション

2018-05-02 | 映画

RVコレクターズエディション/バリー・ソネンフィルド監督

 2006年公開のチョイ古映画。当時はまだロビン・ウィリアムズも現役だったということか。上司の命令で休みのハワイ行きを断念せざるを得なくなるが、代わりの出張先へRV(大型のキャンピングカー)で、家族で旅行しながら現地に乗り付けるというアイディアを思いつく。
 子供が小さい頃はパパは愛されしあわせだったが、年頃になると悪態はつかれるわ、邪険に扱われ、まったく尊敬されなくなっている。仕事のために楽しみにしている家族旅行を断念させることは、断固できない相談なのだ。
 しかしながら既に崩壊の様相を見せている家族が車の中で長時間一緒に過ごすことで、まったくもっと最悪の状態に陥っていく。キャンプ慣れした怪しい家族にもつきまとわれ、夜中に仕事のプレゼンテーションを作成し、ネット環境が悪い中資料を送信しなければならない。
 しかしながらそのような最悪体験を通しながら、期せずしも共同体としてパパの奮闘が徐々に家族に理解されていくのだったが…。
 当時あったハチャメチャなアメリカンコメディで、ちょっとあり得ないハプニングが続いていく。それなりに偏見もあって、価値観の違いを認めたがらない文化も垣間見える。ヒッピーとの文化の違いは、一種の階級のような付き合い方の違いがあるのかもしれない。
 まあなんということのない娯楽作品なのだが、アメリカでは大ヒットし、日本ではそんなに話題にならなかったような気がする。分かりやすくバカバカし過ぎる所為ではないか。良くも悪くもアメリカ的な表面的な価値観の共有は、真実がよく分からないからこそ成り立っているのかもしれない。日本はリアルではそういうものは無くてもやっていける。だからむしろこんなことを父親がやってくれなくても信頼しているし、やってくれると面倒くさくなって崩れてしまうのではないか。最後に会社との関係を考えると、ハッピーエンドが違うような気がしてならないのであった。
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