アフター・ヤン/コゴナダ監督
設定は近未来らしい。人型ロボットの高性能なものが、人々の家族として暮らしている時代という事らしい。そういう訳で養女の関係もあって東洋系の人型ロボットのいる家族なのだが、突然このロボットの男の子が動かなくなってしまう。いろいろ背景的な事情があって、正規のルート以外から購入したものらしく、修理もままならない。さらにいくらロボットとはいえ、ほぼ人間と変わらない状態なので、いろいろと法的にもそのままでは難しいらしい。ヤンというこの男の子ロボットは、どうも中古で購入したらしく、過去の持ち主がわかるのだが、その持ち主も中古で購入し、おとなしいので返品したのだという。ロボットの過去に残る映像記録から、謎の女性がいたことが示唆されているが、それはいったいどういう女性なのだろうか……。
淡々と物語は進み、ヤンというロボットの過去というミステリを通して、さまざまな人種と家族が居れ混じった、不思議な人間関係のようなものが浮き彫りにされていく。こういうのはおそらく象徴的な状況を描いているわけで、人種や人間やクローンや、はたまたロボットを交えた家族であっても、深い愛情を形成することができるのだというメッセージなのかもしれない。もしくはそういう分断の象徴的な物事は、お互いに折り合いをつけながら、乗り越えて行けるのだということなのかもしれない。分かりにくい説明の足りない映画なのだが、そういう雰囲気を見ながら考える題材なのだろう。
もっとも、この物語を製作している側が気づいていないようなので指摘しておきたいが、そういう差別的でもある対象を受け入れる側が、やはりあくまで白人側なのである。そういう分断に対して批判して受け入れている寛容な側が白人なので、どうしても横柄になっていることが分からないようなのだ。理解してやる側と迫害している側が同じなのは分かるものの、そもそもそういう問題を引き起こしているのは自分の問題に過ぎない。そうであれば、それが白人だけの問題ではないことくらい理解しなければならない。だから例えばこれを立場を入れ替えるくらいにしなければ、本当に痛みは分からないのではないか。寛容は、受け入れてやっている方が偉い訳ではないのである。
とまあ、そういう映画ではあるものの、奇妙な雰囲気と共になんとなくそれらしい映像美になっている。勘違いしたアジアンな文化を楽しんでもいいかもしれない。