カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ヤンはどこから来た   アフター・ヤン

2024-12-24 | 映画

アフター・ヤン/コゴナダ監督

 設定は近未来らしい。人型ロボットの高性能なものが、人々の家族として暮らしている時代という事らしい。そういう訳で養女の関係もあって東洋系の人型ロボットのいる家族なのだが、突然このロボットの男の子が動かなくなってしまう。いろいろ背景的な事情があって、正規のルート以外から購入したものらしく、修理もままならない。さらにいくらロボットとはいえ、ほぼ人間と変わらない状態なので、いろいろと法的にもそのままでは難しいらしい。ヤンというこの男の子ロボットは、どうも中古で購入したらしく、過去の持ち主がわかるのだが、その持ち主も中古で購入し、おとなしいので返品したのだという。ロボットの過去に残る映像記録から、謎の女性がいたことが示唆されているが、それはいったいどういう女性なのだろうか……。
 淡々と物語は進み、ヤンというロボットの過去というミステリを通して、さまざまな人種と家族が居れ混じった、不思議な人間関係のようなものが浮き彫りにされていく。こういうのはおそらく象徴的な状況を描いているわけで、人種や人間やクローンや、はたまたロボットを交えた家族であっても、深い愛情を形成することができるのだというメッセージなのかもしれない。もしくはそういう分断の象徴的な物事は、お互いに折り合いをつけながら、乗り越えて行けるのだということなのかもしれない。分かりにくい説明の足りない映画なのだが、そういう雰囲気を見ながら考える題材なのだろう。
 もっとも、この物語を製作している側が気づいていないようなので指摘しておきたいが、そういう差別的でもある対象を受け入れる側が、やはりあくまで白人側なのである。そういう分断に対して批判して受け入れている寛容な側が白人なので、どうしても横柄になっていることが分からないようなのだ。理解してやる側と迫害している側が同じなのは分かるものの、そもそもそういう問題を引き起こしているのは自分の問題に過ぎない。そうであれば、それが白人だけの問題ではないことくらい理解しなければならない。だから例えばこれを立場を入れ替えるくらいにしなければ、本当に痛みは分からないのではないか。寛容は、受け入れてやっている方が偉い訳ではないのである。
 とまあ、そういう映画ではあるものの、奇妙な雰囲気と共になんとなくそれらしい映像美になっている。勘違いしたアジアンな文化を楽しんでもいいかもしれない。
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新米食べて嬉しいが

2024-12-23 | 

 一時期コメ不足が騒がれていて、さすがに田舎は関係ないだろうと思っていたのだが、どうも都会に住む子供や知り合いにお米を送る人々が一定数いるということも相まって、スーパーの棚から米袋の数が減っていった。時には売るのに個数制限があるなどという騒ぎになった。普段より何割かも高い値段の米であるにもかかわらず、複数買うことさえ許されないのだ。まあ、まったく棚からコメが消えるということは無かったように思うが、ともかく変な米騒動だった。
 ところが新米が出回るようになって、また少し驚いたのは、これがまた例年よりも高いのである。便乗値上げというのとは違うのかもしれないが、古米もちゃんといつもより高い値段で売られ、さらにその横で積み上がっている新米さんが、堂々の値段で売られている。強気なんだよね、という態度も見えるが、これがちゃんと売れる値段ということなのだろう。なんとなく呆れてしまうような気分もあるのだが、新米だから食べてみたい気もする。でもまあ、新米はしばらくは新米である。待ってやってもいいか、などとうそぶいて買うのをやめるのである。
 そうしてそんな高い米を買うくらいなら、すでに炊いてあるご飯を買う、ということもしてみた。これがまた売れているようで、忙しい時などの代替手段くらいにしか考えてなかったが、こういうごはんも結構売ってあるのである。非常時の備蓄などもあるかもしれないが、やっぱり日本にいると、米を食べる手段は案外たくさんあるのだ。
 そうはいっても新米をくれる人もいる。せっかくとれたのでおすそ分けしてくれたり、なにかのお礼だったり、ちょっとしたあいさつ代わりだったり。お米はつまるところ邪魔になるものでは無くて、頂くのは本当にありがたいし、何しろ新米である。新米が出てくると、食卓の色どりまでなんとなく華やいでくる。いや、おかずは特に気にしなくても、やはり米自体が旨い。岩のりでも梅干しでも何でもいいのだが、お米ってうまいな、と改めてかみしめて頂くことになるのである。
 そういう訳で、既に高くなっている古米と言っていいコメのことを再度思う。そのまま強気で売られ続けているけれど、やはり新米が出回るまでの事では無いのか。それともまだ、先々に至るまでコメ不足が続くという流れを借りて、利益重視なのか。市場のことはよく分からないのだが、米が採算が取れるということになれば、おそらく作付面積も増えるだろう。二毛作をやるところだってあるかもしれない。そうしてまた米が豊富になるとだぶついてきて……。
 いつまでも非常時にするわけにはいかないのだが、適量というのはそれなり難しい問題のようだ。さらに人為的な介入のあるコメ市場である。必ず作為的なものでは対応できないことが起こりうる。計画経済が必ず失敗することと、米の相場は同じようなことなのかもしれない。
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美しい海を守ろう   ブルーバック あの海を見ていた

2024-12-23 | 映画

ブルーバック あの海を見ていた/ロバート・コノリー監督

 ブルーバックとは、この映画でたびたび出てくる大きな魚の愛称のようなもの。ベラの仲間らしいが、1.5メートルにもなる巨大魚だ。この映画自体は、自然を楽しむという点ではそこまで悪い映画では無いのだが、環境保護という観点があるためか、かなり思想的には偏ったものがあるのが残念な感じだ。そういうのを含めたファンタジーだと割り切って観るよりないだろう。
 美しい海沿いの高台に住む母娘がいて、素潜りでサザエなどを獲って生活しているのかもしれない。しかし同じ漁師仲間を監視している立場でもあり、かなり暇そうだ。娘は賢く絵もうまいので、将来的には海洋の何らかの研究者になっている。物語は、その娘の回想が主になっている様子だ。
 美しい入り江は、自然の宝庫でもあるが、観光などの産業としても魅力のあるところなのだ。母娘は父親の意志も継いでいるということで、この美しい入り江と海の自然を守るために、開発業者には繰り返し嫌がらせを行い妨害している。そういう生活を綴った物語の中で、美しい海の自然の中で、象徴的に巨大魚であるブルーバックとの交流が描かれる訳である。
 僕自体は自然保護というのは、当然大切な考えだとはわかっている。ただしその為に何をやってもいいとは思っていないだけのことである。失われた自然は取り返しのつかないことかもしれないし、人間がこれに関与している破壊者であるならば、一定の規制なり保護が必要である。その番人を、特定の個人がしていいのかどうかも問題があるというだけの話である。多くはプロバガンダであり、金もうけや遊びである。自分がそれで食っているのに偉そうなことをしてはならないのである。
 しかしながら、一定の暗いトーンではあるものの、海の魅力はよく分かる。ブルーバックは作り物なんだろうけど、よく出来ている。まさにそこらあたりの主であり、象徴的な自然の王様のような存在なのだろう。奇妙な映画ながら、教育的でなければ、多少は評価されてもいいかもしれない。
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メタ視点重層ブラック・コメディ   コンペティション

2024-12-22 | 映画

コンペティション/ガストン・ドゥプラット&マリアノ・コーン監督

 スペイン映画。スペイン出身の名優たちが(英語圏でも著名な人たちが)、自国にかえって作られたもの。ある富豪が思い付きで大金を出して名作映画を作ろうと思い立つ。偉大な作品を偉大な監督を使い、著名な俳優を使って名作映画をこしらえるのだ。そうして才能豊かな三人が集まり、あれこれ演技のための模索を始める。とにかくこの女性監督さんが風変わりで、役作りのためにこの著名な俳優たちを、とことんまで追い詰めて指導する。そもそも世界的な大スターと、舞台で渋い役どころを長年演じてきた男優とは、かなり相性が悪い。二人とも演技に関しては独自のこだわりの強いところがあるのだが、そういう部分がさらに二人を衝突させることになる。しかし監督は、作品の質を高めるためだろう、そういう二人の関係が最悪になろうともかまわずに、演技に磨きをかけるために、変なことばかりを要求してくるのであった。
 コメディ映画なのだが、そうして実際かなり笑えるところも多いのだが、それらがなかなかにブラックで、本当に笑えるものでは無いのかもしれない。いくらなんでも行きすぎなところがあったりして、ふつうなら実際に訴訟問題だろう。しかしながら、プライドの高い俳優二人は、心の憶測までえぐられるような悲痛な思いを強くしていく。そもそも相性が悪いのに、心の底から憎み合うようになっていくのだ。そこのところも笑いどころで、ピリピリして恐ろしいのだが、さらに現実はもっと恐ろしいことになってしまうのだ。
 はっきり言って、途中まではちょっとシュールなところがありすぎて、それでも頑張る俳優たちのプロフェッショナルな話なのか、と思っていた。しかしながら後半、それすらも裏切られてしまう。実際よく出来ているのである。この監督さんたちは、とことんブラックな状況を楽しんでいるのである。困ったことだが、それはそれで面白いのである。
 映画の筋立てはそういう訳でよく練られているわけだが、結果的に俳優たちの面白い演技合戦にもなっている。リアルでもメタ視点でも、重層的にそれらを俯瞰することができる訳で、映画として観ていても、その映画の中で演技指導をしている演技を観ていても、そうしてその演技を映画としてまた演じている者たちをも見ることができる。コロコロ視点を変えて、実際の俳優たちはいったいどんな人格が本当なのか、大いに迷って楽しむことである。
 また、監督が時折話す科白の一つ一つが、映画を含めた芸術を楽しむ視点を提示してもいる。思わずメモに取ってみたりして、なかなかに勉強になりました。
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最低賃金最低県は悪か

2024-12-22 | net & 社会

 政策的に近年時給がどんどん上がっている。賃金が上がることは特に悪いことなのではなさそうだが、日本の場合は政治的な背景があって、賃金上昇の流れを受けて、自然に上がっているよりもまして、政治的に上がっているということが問題ということもできる。さらに日本の国の最低賃金でありながら、各県でその上げ幅については決められているという背景がある。徳島のように、あえてその政策として最賃を一気に上げて、若者の県外流出を止めるという明確なメッセージを出しているところを別にすると、地方で最賃をあげる幅は、足並みを揃えて、最小限にとどめたいというのが本音だろう。最賃が上がると中小企業や飲食サービス業の労働賃金の底上げが必然になり、業績を圧迫することは間違いが無くて、いわゆる地方企業の倒産が目に見えている。事実、政策的に最低賃金を大幅に上げた韓国では、中小企業の倒産が相次ぎ、基本的には資本の大きな企業や、新たな業種が台頭したという事実がある。もちろん、日本もその過渡期にあり、荒療治としてそれをやるべきという強気の考えもあるだろうが、本当に相次ぐ倒産という悲劇を目の当たりにしながら、政治勢力が傍観できる国だとは、少し考えづらい。じりじりそうなっていく中で体質が変わっていくよりほかに、生き残りの道は無いのである。
 そうして都道府県はそろって賃金をあげざるを得なくなっている中で、出来るだけ遅だしじゃんけんをして、最賃がいくらか明らかにせず、周りの県が最賃を決めた最後になって、最賃の金額を決めたと言われるのが岩手県で、東北では54、55円の上げ幅が標準な中、59円あげて全国最低を免れる作戦にでた。結果秋田が一円下回り最低県になってしまったのである。全国最低県のレッテルが張られると、若者の流失に歯止めがかからない地方の県は、激しい批判が政治家や行政に浴びせられることになる。基本的に世論というのは、実態としての流失の原因を、そのような分かりやすさに求めるのである。
 しかしながら先に挙げた韓国が、何よりの先例として比較しやすいのだが、韓国は15%以上の最賃の引き上げを実行し、日本を上回る金額になっているわけだが、中小企業の倒産も相次いだものの、実は最低賃金を守らない企業の割合も15%を超えるままになっているのである。上げれば倒産するので、絶対にできないままに最賃無視をしている企業を増やしてしまった訳だ。
 さて、実際に日本の政策として最賃を1500円まで上げると宣言されている訳であるが、単に上げるというだけでないきめ細かな配慮が無いままであれば、確実に問題が起こるということが分かり得ている状況である。また、最賃以下でも働いていい、という状況をどう考えるのか、という視点も足りない。最賃をあげると、それだけ生産性の高さが労働者にも求められることになる。賃金が上がるのは喜ばしいことだという一方的な視点だけで物事を考えると、逆に働き方には様々な理由があるという視点を無視することにもなる。最賃だから働く、もしくは働ける環境があったかもしれない労働者を阻害して、切り捨てることに気づかないままでいいのだろうか。
 もっともそれで生き延びているゾンビ企業を、さらに延命させているだけだという批判もある訳で、日本のような基本的に内需とサービス業中心の極めて内向きの産業が中心となっている国においては、政策的な最低賃金問題は、難しいかじ取りを強いられているわけである。
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今年を象徴する一文字、とは

2024-12-21 | ことば

 年末だか新年だかになると、今年の一文字ってなことが話題になったりする。わざわざ一文字にする必要もないという気もしないではないし、これらの象徴的な文字を見て、共感できることが少ないのも事実だ。いったい誰がどういう心情でそんな文字を選択しているものなのだろうか。
 今年だけに限らない可能性はあるのだが、やっぱり暑すぎる夏の毎日を思うと「暑」という感じもしないではない。でもこれから毎年「暑」では芸が無いので「暑暑暑……」と続くのも良くない。それに年末になると、それなりに寒くなっている訳で、実感としては過去になってしまう。
 日本人の海外での活躍なども目立ったが、しかし一文字になると難しい。チームで頑張る中で成し遂げられるものがあるにせよ、強烈な個性でもあるのも確かだ。じゃあ「個」になると、なんだかやっぱり悩むところだ。でもまあ日本人の活躍と言っても、ほとんどあれは人間離れしたうえに、日本人離れしすぎている存在でもある。特殊なので「独」でもいいが、独逸って国もあることだし……。
 しかしまあ、日本を代表する出来事自体を決めかねる中でもあって、一種の洒落や批評性という事でもある。少数与党という言葉もよく聞かれている訳で、「少」だとやっぱりわかりにくいだろうか。
 混迷を深める世界情勢だから「混」でも良さそうだが、なんだか混浴めいてもいて分かりにくいかもしれない。
 なんとなく極端なブレ方をしそうな予感もあって「激」っぽい字も使いたいところだが、こういう激しい表現というのは際限が無くて、かえってシラケることにもなりそうだ。いろいろ激しいことが起こるというのは、今後数年にわたってずっとそんな予感もあって、いやな感じなのである。
 なんでこんなことを考え始めたのかというと、単純に新聞で今年の象徴的な漢字って何だったのだろう、というような設問があったせいである。つまり遊びなのだが、実際に考えると本当に難しいものだ。その上そんなに漢字を知っているわけではないのだし。
 世の中のことを言い表すのが難しいのなら、個人的なことを。実は散歩するのに、県の健康アプリで地域で歩数を争うものに参加するようになって、そのアプリの文字だけのことなのだけど、地域の姿の見えぬライバルの人たちと、日々歩数を競う毎日になっている。目標とする歩数は以前からあったのだが、そういうのは自分との戦いであって、気分が乗らないと外に出るのも億劫な日というのはあるのである。ところがこのアプリで自分の順位をみていると、自分と同じくらいの人が歩数を伸ばしているのが分かったりして、それじゃあ俺も頑張るか、という気分になって歩いてしまうのである。この影響は大きくて、ちゃんと毎日何らかの形で歩数を伸ばす努力をするようになった。僕の一番の出来事は、だからそのことなのだ。しかしそれはお互いに、知らず知らず意識しているだろうことでもありそうなので「互」というのはどうだろうか。まあ、個人的なことでまとめてしまって申し訳ないのだが……。
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拷問のための拷問   ハント

2024-12-21 | 映画

ハント/イ・ジョンジェ監督

 韓国の、これはいつの時代なんだろう? まあ、今も続いているとはいえ、ちょっと前(数十年は過ぎているが)のいろいろある南北問題が中心のサスペンス・アクション映画である。筋は複雑で、なにがなんだかわからない展開に戸惑うが、まあ、ともかく裏切りがあったり秘密があったり、しかし家族もあるんで、困ったことになる映画である。友情とか権力とか、時に政治も絡んでいるが、ともかく少なからぬ権力を握った要人たちが、国家の思惑と個人の事情によって、様々なことをやらなくてはならなくなっている訳である。本当にかわいそうな人たちだとは思うものの、これが戦争で、そして韓国映画なのである。
 基本的にはスパイ映画で、同僚同士の中間管理職の人間が、お互いにスパイ容疑を掛けられている。実際にスパイかどうかが一番重要ではあるはずだが、ちょっとしたはずみで捕まるだけで、韓国は容赦ない拷問をかけて自白させる。そうなると、自白に基本的には意味が無くて(いや重大な意味はあるが、嘘だろうとホントだろうと殺されるだけの事である)、恐ろしい境遇に置かれるという緊迫感がある。そうして実際に一人は、かなり怪しいし、強引なことを、なにかの秘密を抱えながらやっている。いわゆる主人公側にも秘密があるようで、そこらあたりの駆け引きが延々と続き、結果的に派手なアクションとなる。韓国には北の諜報員が多数潜伏しており、暗号を用いて連絡を取り合っている。基本的にはその暗号をめぐるやり取りが、大きなスジを形成している物語である。
 学生運動の絡みなんかもあるし、いわゆる当時の社会的な空気感も伝わってくる。日本のいわゆる戦前の公安警察の思想狩りのようなところがあって、北の支持者が大衆の中にもそれなりにいるということのようだ。確かに韓国もこのような恐怖政治を当たり前のようにやっている国家であって、民衆に不満が内在している奇妙なバランス感覚があったのだろう。現代韓国もそれはおそらく流れとして汲んでいるはずで、それはこのような時代を経ての現在があるということを知ることにもなろう。もちろん映画なのでデフォルメされてはいる訳だが、こんな恐怖の国家が世の中に存在しているということ自体が、かなり映画的な題材なのである。虐待ばかり繰り返してすぐには殺さない。本当にこんな国に生まれてしまったら災難極まりないのである。いまだに北はそうだろうけど。
 主演の俳優さんが脚本も監督もしているという。なかなかの才能開花である。自らも拷問受けてマゾっぽいが、それが演技の幅というやつだろう。なんだかみんなかわいそうなのだが、つまるところ暴力の連鎖というのは、そういうものなのである。
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〆にちゃんぽんは、無い訳ではないが

2024-12-20 | 

 先日某会で客人を迎えていて、懇親会済んで二次会でのことで、これからちゃんぽんを食べたいと言われた。長崎の銅座などで飲んでいるのとはわけが違って、こういうのは少し困る。それに時代があって、僕の若い頃にはこの飲み屋街にも遅くまであいている町中華のような店はあったのだが、代替わりもして、夜にあいているのを見なくなって久しいのである。ラーメン屋はあるのだが、おそらくちゃんぽんは無かった。ちゃんぽんを食わせる店がまったく無い訳ではないが、車での移動が必要だろう。それにこの地に来て、チェーンの店を紹介しても仕方なかろう。
 食事屋でちゃんぽんを出しそうなところ、というのも無いではない。〆で頂くことはあるのだが、しかしそれも準備との兼ね合いがありそうだ。いつもスープがあるとは限らない気がするのだ。
 考えてみると、ちゃんぽんは昼限定では無いとはいえ、飲んだ〆ではあんまり食べない。いや、これは我が町で、という意味ではある。まちの規模感というのがあって、そういうのをうまく内包していないというか。だから飲み屋街の中に、あまり飲食店が含まれていないのかもしれない。居酒屋はあるが、やはりちょっと違うのである。
 ところがよく話を聞いてみると、昨夜も食ったというのだ。何のことは無い、客人の泊っているホテルの国道挟んで斜め向かいのラーメン屋が、夜は居酒屋化していて、メニューにちゃんぽんもあるらしいのだ。こういうのは需要に合っているが、あの辺りは飲み屋が少ないので、単体で取り込めるということかもしれない。
 飲んでいない仲間の車と、別にタクシーを呼んで、ご一行はちゃんぽんへと消えた。観光のまちではないというのは、こういう事なのかもしれないとは思ったのだが、しかし、ピンポイント需要にこたえるだけのことは出来はしない。こういう時に、それではこのまちではこんなものを食ってはどうか、という提案をする、という道もあったかもしれない。ちゃんぽんは基本的には腹いっぱいになる食事だから、夜遅くには食べない方がいいということはあるんだけれど……。
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豚を探して……   PIG/ピッグ

2024-12-20 | 映画

PIG/ピッグ/マイケル・サルノスキ監督

 ニコラス・ケイジ主演。あとは地味。おそらく高級レストラン向けにトリュフを獲っている男がいる。相棒の豚を飼っている以外は、人里離れた山の中でほとんど仙人のような暮らしをしている。ところが不良集団の襲撃を受けて負傷したばかりか、大切な豚を奪われてしまう。仲買人の男を頼りに、襲撃した連中を追って街中へ降りてきて、不思議な縁を伝って、さまざまな人々と会うことになっていくのだが……。
 基本的に盗まれた豚を探している物語だが、この謎を秘めた男のこれまでの生涯をたどる物語にもなっている。傷ついて愛する豚も失い、金も何もない状態に陥りながら、男は様々な知り合いを持っている。着実に豚の行方を詰めていくものの、すべての人が協力的という訳ではない。男は逆切れも含め、窮地に陥っていくように見えるのだが。
 実際奇妙な物語なのである。映画として何を言いたいのかよく分からないところもあるが、豚に関する愛が強いなら、もうちょっと復讐しても欲しいところだ。そういう部分が煮え切らないものがあるものの、単純な商業映画を狙った作品ではない、というところかもしれない。過去の栄光のある人間には、もう少し尊厳があってもいいという比喩があるのなら、まさにニコラス・ケイジ自身が演じていることへの暗示でもあるともとれる。奇妙な映画にもよく出ているニコラス・ケイジの変わった姿にこそ、映画的な人生なのかもしれない。
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日本の北限のサル真似の重要性

2024-12-19 | Science & nature

 知られていることと思うが、日本のサルが最北限に住む集団であるらしい。サルは主に南に住む生き物で、日本のように寒いところでは苦労するらしい。特に日本は結構雪も降る。寒い上に、暮らしにくいはずなのだ。何しろサルというのは主に木の上で暮らしていて、木の実などを取って食べる。昆虫やネズミみたいなものも食べるのかもしれないが、冬の間はそういうものが目の前から消えてしまう。いったいどうやって暮らしていけばいいというのか。
 それで食べ物が乏しくなると、木の皮をはいで食べたりする。それでも足りないので、海岸線に出ていって、岩に張り付いた海藻などを取って食べるのだという。そうして岩場の隙間や、湿地で逃げ遅れた魚などを捕らえて食べる姿も観察されている。実は、魚を取って食べるサルというのは、大変に珍しいことなのだそうだ。少なくとも以前から魚を取っていた記録はないそうで、魚を取って食べることを覚えた個体が居て、それをまねて広がった可能性がある。サルは基本的に群れを作る訳で、当初はすべての群れで魚を取っていた訳では無かった。ところがいつの間にか、他の群れでも魚を捕るようになっていったのだという。
 サルの群れは女系集団を主としており、ボス猿がオスだとしても、そのハーレムのような集団の中に、家族としての若いオスは存在する。しかしある一定の期間を過ぎると、オスは群れを離れていく。そうして別集団に合流したサルの中に、魚を捕る技術を持ったものが居たのかもしれない。そうして別の群れでも、そのサルの行動をまねて魚を取るようになったのではないか、と推測されている。そうやって日本のサルの群れは、何らかのやり方で、魚を取るという方法を覚えていった。サルは言葉で詳細な会話をするわけではないので、そのような行動をまねるという、いわば文化の継承のような形で、魚を取るという方法を伝えていくことができると考えられるのである。
 冬の厳しい寒さという環境にあって、日本の北限のサルが生き延びて行き、さらに繫栄することができているのは、多かれ少なかれそのような技術や文化を継承することによって、成し遂げられているのかもしれない。今後も日本のサルが、どのようにして新たな文化を獲得できるのかというのは、注目に値することなのである。
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パン屋のじいさん格闘す   ベーカー:男の逆襲

2024-12-19 | 映画

ベーカー:男の逆襲/ジョナサン・ソボル監督

 カナダ映画。邦題のベーカーは名前ではなくパン屋さんのこと(なんで邦題がパン屋じゃダメなんだろう?)。麻薬取引の現場に居合わせて、麻薬を持ち逃げした男は、パン屋をやっている父のところへ久しぶりにやって来て、言葉が話せなくなった娘を預けてどこかへ行く。しかし、マフィアに捕まり、電話をかけてきて、銃声とともに消えてしまう。パン屋は、盗みばかりする孫を連れて、息子の行方を追うことになるが、警察は取り合ってくれないし(殺人が絡んでいるというのに)、相手が相手なので、仕方なく激しい殺し合いになっていくのだった。
 巻き込まれものアクション映画なのだが、息子は気の毒なところもあるが、基本的には悪人だし、その娘で主人公にとっては孫も、気の毒な過去があるものの、善人ではない。じいさんは地道にパンを焼いている職人であるが、元軍人で超人的に強い。戦う上では残酷なこともあるので、孫にはその場面を見せまいとするが、あまり意味はないのではないか。
 超人ではあるが、ちゃんと痛みのあるアクションになっていて、負傷して苦しみながらも戦っていく。あまりにも怪我がひどくて入院してしまうが、あんまり意味があるようにも見えない。回復が早すぎるのではあるまいか。
 マフィアグループにも立場があって、麻薬の回収を請け負っている男は、その力関係に苦しんでいる。まるで中間管理職の苦悩なのである。変な話だが、自分がたいしたへまをやらかした訳では無いのだから、やはり気の毒である。親分からも、パン屋のおやじからも、両方からいじめられているようなものである。頭の毛も薄くなっていて、さらに悲壮さがつのる。こういう作りは、なんとなく不公平な人生をあらわしているようで、つらいものがあった。
 しかしながら、そういうものを気にする映画ではない。パン屋でじいさんが意外なアクションを繰り広げるというのが、最大の見せ場であるはずだ。最終的にマフィアのおやじだけは最後まで威張っているけど、要するにいつまでも追われるものでは無い、という区切りである。確かにこんな生活をいつまでも続けていく訳にはいかない。しかしながら、パン屋としても長い間休まなければならなかったわけで、その損失も大きかったように思える。馬鹿な息子は、もう少し物事を計画的に考え、逃げるべきであったのである。
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流行どころか、ひどく勘違いかも

2024-12-18 | ことば

 流行語大賞に「ふてほど」というのが選ばれて、かなり批判の声を聞いたわけだが、確かにそれもそのはずというか、僕はこの言葉を聞いたことが一度としてなかったし、活字としても一度として読んだことが無かった。別に特別な隠居生活をしているわけでもない訳で、流行語を選ぶ媒体として、この賞の意味は失われている。しかしながらこの略語のもとになっている「不適切にもほどがある」というドラマがあることは、知らないでは無かった。観たことは残念ながら無かったが、そういうのは、テレビドラマなのだから、そういう事があって当然である。しかしこのドラマに関する雑誌記事などは読んだことがあるので、社会現象になっていたかはともかく、それなりにヒットした作品であろうことくらいは認識している。しかし、そういうことを知っていてもなお、「ふてほど」の違和感は大きい。誰もこれを略して言ったり書いたりしている場面が、一度として無かったからだ。そういうことは、繰り返すが僕が特殊なことだったのではなくて、批判の大きさから考えても、多くの人に共有できる感覚であっただろう。
 観ていなくても、内容の一部をなんとなく知っているのは、これをもとに昭和に関する現代の違和感を語る人が居たり、やはり記事で読んだことがあるからだ。昭和の時代に生きた僕としても、昭和は遠くになりにけりであって、当然いろいろな感慨はある。生まれてから青春のほとんどを昭和で過ごした訳で、その時代が懐かしく無い訳がない。しかしながら現在と比較して、それが良かったとか悪かったとかいうのは、さて、もう合わないだけの事であって、どうなんだろうとは思う。今が何でもいいとは言えないが、しかしもう元に戻ることは無いのだから。
 昭和の人の煙草のマナーがひどかったというのは、確かにそうだったのだが、それが当たり前の時代にあっては、当然ながら特段酷かったわけではない。乗り合いバスなどでは吸う人は無かったが、長距離の列車や、なんと飛行機では、たばこを吸う人がいたようだ。映画館でもタバコの火がチラチラすることがあったし(考えてみるとどこもそうだったわけではなく、古いタイプの映画館に、そういうところが残っていた)、病院でも患者はともかく、診療中の医者が吸ったりする病院もあった。確かに今考えると異様な光景に思えもするが、皆が許容していたのも確かで、すでにたばこの害は言われてもいたが(なんとコーヒーも同じように体に悪いとされていた)、まあ、多少の遠慮があればいいし、周りの人間が目下のものであれば、気にする必要など無かったのである(それこそが昭和的だとはいえるが)。
 昭和のことが良かったと言っている多くの人は、そのようなおおらかさの様なものに対して、言っていることが多いと思う。最近の人は、とか、最近の風潮は、とかいうような物言いの中に、妙に気を使わなければならない現代社会への視線がある。当然のことのようになっているかもしれないけれど、サービス的に気遣う姿勢は消えていて、注意しても改めるそぶりもないし、逆にパワハラだの上から目線だの、奇妙な論理でもって非難されかねない。以前は改めるべくものは、そうするチャンスがあったし、一定の良識のようなものは、むしろ高いものがあったのではないか。そういうあやふやなところなので、きっちりを比較ができかねるのだが、少なくともそのような気分的な対立のようなものが、存在する。つまるところそういうものが、おそらく不適切的なほどの問題の根底なのではないかと想像する。
 だいぶ話は思わぬ方向に来てしまった訳だが、もう共通理解も無い訳だし、全体的に納得のできる流行語なんてものは、そもそも存在しにくくなってしまった訳である。
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暴力には暴力で解決を   犯罪都市THE ROUNDUP

2024-12-18 | 映画

犯罪都市THE ROUNDUP/イ・サンヨン監督

 人気シリーズ第二弾。ベトナムへ逃亡した容疑者を引き取りに二人の刑事が行くことになるが、現地のベトナムで奇妙な組織的な犯罪を察知し、独自捜査をするが、いわゆる抗争に巻き込まれ、事実上韓国に追い返されることになるのだが、その首謀的な犯人も、韓国に逃亡していることを知る。韓国に戻って犯人を追い詰めることにするが、ヤクザと凶悪犯も反目し合っており、ヤクザの組長は凶悪犯に誘拐され、身代金を要求されることになってしまうのだった。
 スジもそれなりに練られていて面白いが、基本的には主人公の刑事マ・ドンソクが暴れるのを楽しむ映画である。凶悪犯も鉈やナイフを使って残忍に人を殺しまくるし、何しろ強いので、あり得ない窮地に立たされても、逃げおうせてしまう。何度も刑事たちと対峙する場面がありながら、強引に突破してしまう。いわゆる悪知恵が素早く働き、それを活かせる能力が高いのだ。普通に考えて、警察からもヤクザからも追われているのに、手玉に取りながら、もっとしたたかに金を得ようとする。仲間にしている中国人マフィアとも、騙し合いの関係で、ちゃんと信用しているのかも怪しい。
 ともあれ、そういう状況になっても、次々に血の海がみられるアクションが続く。強靭刑事は、難しい状況になっても、その恐ろしい相手と対峙すること自体を楽しむように、活躍する。そうして気が付いてみると、ものすごく派手に周りの状況は無茶苦茶になっていて、困った状況になるのだった。結局力で何とかするよりないのだが……。
 ともかく派手に立ち回るが、相手は刃物で切り付けるので、ふつうなら痛くてたまらないはずである。他に負傷する人々も血だらけで苦しむ。強靭刑事も少しは痛がるが、まあ傷は仕方がないというような表情になって、さらに相手を痛めつけるファイトが湧いてくるようだ。まあ、漫画なんだけれど、これが痛快でたまらない訳である。もう思う存分に暴れてくれってな気分になって、盛り上がる訳である。
 アクション娯楽作の王道だけれど、この主人公のような人って、やっぱりどこか新しいのである。韓国でも大スターだろうけど、国際的にもウケているはずである。ただしどんな別の設定になっても、求められるのは、強靭なアクションな訳だが。まあ、面白いので、それでいいのだ。
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水が無いからできる事   水深0メートルから

2024-12-17 | 映画

水深0メートルから/山下敦弘監督

 元は演劇の映画化。脚本家が高校生の時の脚本が、もとになっているという。なんで舞台が徳島なのかな、と思ったが、この演劇が徳島の演劇部で最初上演されたものなんだそうだ。
  体育の補習のために、対象となる二人が、夏休みの水を抜いたプールの掃除を命じられる。一人は化粧が厚めで注意を受けるような子で、そもそも掃除なんてやる気はない。もう一人は、夏にある阿波踊りの練習をしながら、補習を受けている。しかし先にこのプールには先客がいて、水泳大会の予選で負けて、水のないプールで練習をすると言い張っているという部員だった。すべて女の子で、最初はそれぞれ、女子高生らしいトークを繰り広げる。野球部の誰それが好きなのか? とか、そんな話。
 水のないプールに砂が溜まっているのは、隣のグラウンドで、野球部などが活発に部活をやっているため、砂ぼこりが恒久的にたまるためらしい。そういう事情をもって、この作業を不毛と考えると補修の女子高生は、こんないじめのような補修には気が入らない。女子トークの端々に引っかかる物事があると、気分転換に戦線離脱していくものがいる。
 そういう小さなやり取りや出来事がある中で、後半になってそもそも補修を受けざるを得なくなった女の子の生理問題や、学校での化粧は誰にも問題が無いが決められていて、しかし先生だって、必要最小限の化粧を気にしなければならないなど、いったいどうして誰も何のためにやっているのかちゃんと答えられない、女性にまつわるあれこれの愚痴展開が爆発する。男とか女とか関係ないというのは、ぜんぶブスの言うことだ、とか。生きていくうえでの女子の悲しみ、のような事にもなっていく。これらの提示される言葉の嵐は、思春期をはじめとする、大きなテーマを吐き出す。小さいが、しかし、どうしようもない大問題、なのかもしれない。そうしてこれが、演劇的にも刺激的で今的な、高校生の今を伝えるものになっているのだろう。
 確かに考えさせられはするが、当然のようにその答えを提示できる、自分自身の答えなど無い。つまるところ、そうであっても自分はどうしていくか、だからである。いろいろあるが、それはある意味で、不都合であるからとはいえ、その不都合を利用して逃げてしまえば、結局は何もできは無いのだ。
 彼女らは上手く脱皮して、次のステップを踏めるようになるのだろうか……。
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ちょうどいい唐突感のある作品集   日本短編漫画傑作選6

2024-12-17 | 読書

日本短編漫画傑作選6/吉田戦車・青山剛昌・岡崎京子・すぎむらしんいち・よしもとよしもと・松本大洋・藤田和日郎・江口寿史・とり・みき・あだち充・新造圭伍著(小学館)

 そうそうたる執筆陣の傑作選。江口寿史が選者としての解説も書いている。実際のところこの解説も素晴らしくて、実に作品と作者のことを短く的確に紹介している。全部のことは知らなかったのだが、知っている人たちのことを思うと、まったくその通りと膝を打ってしまった。
 全巻持っているわけではないが、全6巻で、だいたい年代順にまとめてあるようだ。一寸本棚を見てみると、5は持っているし読んだようだ。6の特徴なのかどうかよく分からないが、少しギャグの入ったものが多いようだが、しかし漫画というのは絵を使って、なんとなくのユーモアのような仕掛けをしてくる場合が多い。そういう作家人も多くて、ちょっとした笑いを入れながら、不思議な話などをこしらえてあるようだ。最初の吉田戦車なんて、実のところよく分からないのだけど、爆笑に近いものを感じさせられる。いったいどうしてなんだろう。
 今となっては伝説的なベテランばかりだが、発表されたのは比較的若い頃のものだろう。そういう勢いと感性が感じさせられる。最後の新造の作品は、僕にはまったく意味が分からなかったのだが、ちょっとした映画の場面を見ているような感じがあって、なるほど日本漫画というのは進んでるな、などと思った。なんでそう思うのだろう。
 また、松本大洋もよく分からなかったのだが、これは少し今の流行もあるのかもしれないという作風である。ヤクザものの緊張感と、奇妙な唐突感がある。
 時々漫画を読みたくなる時があるが、やはり長いものは面倒な気がしないではない。それはそれで面白いのだろうけど、漫画だと活字のものより面倒くさい。何冊も持ち歩くのは現実的では無いし、しかし続きが気になるような中毒性があると、それはそれで困る。漫画というのはそういう事があるのであって、やっぱり休憩ができる短編であるのは助かるのである。まあ、そういう目的で組まれたものでは無いのだろうけど、こういうのはだから、読み徳ということになるのである。
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