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ワタリなり愛情論

2014-03-28 21:00:00 | 人間としての修業
今日は無償の愛と有償の愛に関する話です。

まず、これを言ってはお終いになりますが、よくよく考えると愛と言うのは有償だの無償だのと言うのはあまり考えない方が良いと思います。

だって、愛情を傾けるべき存在には必然的に奉仕をするのが当たり前だと感じますし、愛のやり取りに関するバランスが取れている間は、相手に対する奉仕に関して違和感と言うのは有りません。
逆に、必要以上求められたりすると違和感を感じて、相手にこれ以上求めてはならない事を気付かせようとしたり、ものすごくどん引きしたり、その場から逃げたくなったりします。
結構色々な事に関して言えることだと思うのですが、愛もやはりバランスが肝心なのです。

確かに、お代を頂けるからこそ出来る奉仕と言うのは有ります。
しかし、それはあくまで仕事としてやっている事で有って、こちらもプロとしてにこにこしている顔の裏ではいかにお客様を満足させるか?いかにリピーターにするか?と言う利己むき出しの事を考えていたりしますし、仮にそこに愛が発生していたとしても御客様としての愛情でしか有りません。
第一、 御客様の方だって施術者からの愛情なんて感じてはいません。
チップや差し入れとして感謝の気持ちを示す事は有りますが、それこそ恋人や子供に対するような愛情を向け出したり求めたりしたらただの勘違いさんです。

じゃあなんで無償の愛だの有償の愛だのとなるのか?と言いますと、多分それは以前は「●●が出来たから御褒美あげるよ。」みたいに成果に対して物体を与える事で愛情を示すやり方が一般的だったのをリセットしようとする動きが有るから。なんじゃないんですかね?
あるいは、何かが出来る事を確認する事で愛情が増す。と言う有償の愛の代名詞のような発想の否定とか。

これらを有償の愛の代表のように扱われている感が有り、先に書いた御褒美方式に関しては甘やかしの証拠と言う事で現代育児では否定される物で有ると言う論文を読んだ事が有るような気がしますが、多分これは戦後すぐとかみたいな物が少なかった頃の世代では普通の育児方法であり、当時は愛情を物で示すのが当たり前だったんだと思います。
そして、バブルの頃までは何か他者よりも優位な物を持っている事でもてる。と言う文化が有ったんだと思います。
事実、ワタリは親世代が戦後すぐの生まれで、物が無かった頃のイメージが強かったのか今なお引きずっているようですが、それを指し示すように家には物があふれ、何か手伝いをすればすぐお駄賃がもらえました。
まあ、おかげさまで働けばお金がもらえるんだ。と言う事に関する学習は早い内から完成されましたが、当時は本当に物に訴える事こそ最上の愛情だったんだな。と言う事が良く解ります。

そして、現代でも何か他人と違う物を持つ事でもてようとする人はいます。
例えば、モテ服とか彼氏高感度最高の服とかね。
リアルタイムだと、これは仕草や発言に気を使うと言う事でもてようとする文化が有るんだと思います。

現代の有償だの無償だのと言うのは、多分これの揺り戻しと言うか、否定でも有り反抗でも有り、とにかく当時のやり方をリセットしようとする動きの一環なんだと思います。

今までこれが最高だと思っていたけど、実は違っていたかもしれないと言う事に気がついたから、これからは何かをしたら愛してもらえるは有償だから駄目。何もしなくても愛してもらえるのが無償の愛で最高。みたいなさ。
日本よりも愛情アピールの物凄いヨーロッパ系文化の影響も有るんでしょうが、本当に極端から極端に流れているなと感じます。

でも、現実を見据えて考えると、無償だの有償だのと考えているのは本当にスピリチュアリストやそれに準じる人々ばかりで、スピリチュアリストではない人々は無償とか有償とか気にしてはい無いような気がします。

ただ、普段なら有償提供をしているサービスを、本当に困っていそうな身内とかに無償提供する事も有るから、そこを勘違いされる事ならば大いに有ります。
なんて言うか、「お客に出来て俺には出来ないのか!?」みたいなさ。

まあ、この件に関しては大いに勘違いされ易い部分が有るので、相当エゴはいっているかもしれませんが書かせて頂きたいなと思います。

ただ、お代を頂くにしても何をするにしても、愛情と言うのは常にバランスが成り立っているからこそ成立するんだなと思います。

例えば、ワタリと子供達の間では必要以上関わらない監督役の親とべたべたしない子供。と言う図式で愛情のバランスが取れているんだと思います。
そして、ツインとワタリの間では良い感じの距離を保てている大人同士の恋愛と言うバランスで成り立っているんだと思います。

どっちかが甘えたいと望んでちょっとバランスを崩す事なら日常茶飯事ですし、逆にバランスを意識し過ぎるとそれはそれで駄目なので、別にバランスが成り立っているかどうか?なんてものは考えていません。
それに、あえて修正可能範囲でバランスを崩すとちょっとした関係性の刺激になりますし、それはそれでワタリは良いと思っています。

しかし、修正不可能になるまで求めてはならないし求められてもならない。
何かが違う!と思えばその辺を大いに指摘して良いんだと思います。

寂しかっただの自分が知らなかった相手の側面が見えてきただけだの、案外色々な側面が見れて面白いです。
そして、相手に対する否定や疑問を真正面からぶつけ、最終的にはそれを許しあえる間柄だからこそ愛情のバランスと言うのは成り立つんだと思います。

でも、ここに行きつくまでは様々な事を経験しないとなりません。

そう言えば、以前魔界の縁結びで有るサロスさんは、高次元の恋愛は何時でもとことんだけど、人間の恋愛をあれはあれで有り。と容認する発言をしていました。

もしかしたら、人間の恋愛と言うのは極端になってはならない。と言う事を体感するための修行の一環なのかもしれませんね。

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