秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

追憶 兄と妹

2009年09月15日 | Weblog
父は、亡くなる一年前、故郷と繋がる事によって、妹との再会も果たせた。 私は、幼い頃から、まるで本の読み聞かせのように、父の故郷の話を聞かされた。

『人生の並木道』
は父の十八番の一つだった。
泣くな妹よ
妹よ泣くな
泣けば幼い 二人して
故郷を捨てた
甲斐がない

時折、涙を浮かべながら、口ずさむ。
そして、話しだす。
学校から帰って、お腹が空いて、何か食べたいと思っても、義理の母親は、実子だけに食べ物を与え、父と妹には、与えてくれない。父親には、言えずに、毎日、我慢ばかりを繰り返した。
ある日、父は妹を連れ、家出を決意した。
行くあてもないまま、線路伝いに、幼い妹の手を引いて、歩いた事。
まさに人生の並木道。泣きながら、唄っても無理はなかった。

私は、父と妹の36年ぶりの再会に、また、連れて行かれた。

叔母さん、そしてその家族に、初めてあった、緊張感。
あの時の大阪は、幼い私には、ただ夢心地で、異常に続いたアスファルトが、不思議だった。
叔母さんは、大手の保険会社の主任さん、ご主人は、会社の部長職だった。
生まれて初めて見た、大阪の住宅街。
従姉妹にあたる方は、社会人で、掛け離れた大人に見えた。
「鏡台」が二階の廊下の隅に、あった。たくさんの、小物が目に映り、私は、それらを見て、ただ驚いていた。すべてが、祖谷の暮らしの中には、存在しないものだった。

あくる日、
叔母さんは父と私を
ある場所に、連れて行ってくれた。
今でも父との、大切な思い出の場所の一つになった。

『宝塚劇場』
での観劇体験。
当時の私には、理解しがたい世界だった。
父は、場の空気を読めない大人だった。
当時の私でさえ、あの高級な空気を理解できたのに、父はワンシーンが終わると、隣の席の私に、内容を説明した。普通の大きな声で、説明した。もちろん、九州弁だ。
前の席の方が、迷惑気に私たちを振り返る。
斜めから、振り返る。そして、とどめに後ろの席から、
『ちょっと、静かにして下さい!』

私は、真下をずっと向いていた。恥ずかしかった。観劇どころではなかった。
少しだけ静かになった父が、演劇のクライマックスで、感動の余り、立ち上がった!!!

父の右腕を叔母さんが、引っ張って、小声で甲高く叫んだ。
『ちょっと、お兄ちゃん!』



初めての宝塚は、散々だった。
私は、あの時、父に聞いた。
「タカラズカのどこがええん~?」
父は、劇場を振り返りながら、一言言った。
「大人になって来たらわかるばい!ここの良さは、子供にはわからん!」

別の意味を、込めて、大人になって、大変理解できました。
父ちゃん、劇場は、黙って見るものです。
競艇で、観戦した時と、同じではイケマセン!

今でも、覚えている。叔母さんの、「お兄ちゃん」と呼ぶ声。
そして、振り返る父の顔は、私も母も多分、見た事のない、顔だった。「お兄ちゃん」の顔だった。


最近、父への回想を、書き出してから、なぜか気が付けば、「人生の並木道」を口ずさんでいる。
なぜだか、涙が、勝手に零れてくる。


時空を越え、幼い兄と妹の、線路を歩くふたつの影を、想い浮かべてしまうー。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 追憶 祖父の遺産 | トップ | 追憶 兄と弟 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事