祖谷はもっとも美しい風景の山里になってきた、祖谷らしいひそかな風景というのだろうか
古くから沁みこんでいる落ちびとの風景であり、かくれ里の風景が秋の淡い色彩とマッチする
美しくもはかない風景に魅せられるのはこれからの季節だね
過去のことを考えるとき、遠くに見える山のように遠い風景としてしか
見ることが出来ないようだ、それはもうちょっと近い過去のことでも同様だね
そして、はるかに遠い感じがするので、定かでない山の同定と似たような感覚だよね
山頂から何回も眺めているのだが、霞んで、ぼーとしか見えなかったり、一部分が
雲に隠れていたりすると、忽ち自信がなくなり、そうだろうと思うけど間違いかもなあと
あやふやになってしまうよね
ましてや、細部にわたって点検するとなるとあのあたりの山襞はどうなっていたかな?
木々の種類は何だったかなとか、季節ごとの色合いはどうなんだろうと全く手探り状態と
なり、あの山とこの山の区別さえ、定かにならず、お手上げになってしまうよね
目の前にある現在のものごとは割りとリアルに考えることも出来るし、想像することも
できるよな、まあ、あまりにも近すぎると現在でさえ見えないこともあるけどね
遠い過去もかっては現在だったのだけどなあ
遠い過去のつらいものごとなどをリアルに想像できるとやりきれないし、耐え難いけど
霞んでみえたり、ぼーとしか想像出来ないとそれはそれでほっとした感じになるよね
離れて見える雪山の稜線のように冷たく過酷ではあるが美しいよなあ、あの稜線は
辛かったように思うがほんとはどうだったんだろうと微かな想像だけだよね
遠い過去のことはどうしても、温度や触感や匂いが無くなっていて思い出せないのかも
知れない、まるで、絵のようになってしまうからだろうか
日記などを書いていても、文字としては、ああそうだよなとおぼろげに判るとしても
それを鮮明に想像することはなかなか難しいよね
生きていくのに都合がいいように、リアルに想像して過去に囚われないように
脳のしくみが出来ているのかもしれないよね
このようなことは、未来についても云えることと思うし、人と人の関係にも云えるよなあ
とくにひととひとの関係には微妙な距離感が大事になってくるように思うよね
微妙な距離感によっていい関係になったり、ぎくしゃくしたりするよなあ
近くにいると、判るいいこともあるけど、離れて想像すると、ああ、いいよなあと
思うこともあるよね
ものごとをリアルに考えたり想像するよりは、遠近感の能力によってあまりリアルに
ならず、ぼやーと考えたり、想像するほうがものごとがスムーズに運ぶのかも
しれないよなあ、そのほうがひとには適しているのだろうかなあ
山雨過ぐ盃を傾け蓼の花
旅の世を沈みしづみて酔芙蓉