何もない。本当に何もない・・・。秋の風が頬を撫でながら
通りすぎていくばかりで不思議な感覚に襲われた
思わず「何も無いって、本当に贅沢だ」という言葉を洩らしていた。
全てが変化して何も無いことが、こんなに素晴らしい事か、幸せなことか
すべてが単純化されて流されてゆく。
複雑に絡まったように見える心が意かに単純なことなのか、これがブッタが
教える空なのか。
すべての現象を複雑に絡み合ったものと錯覚していたものをブッタは
単純な現象として本質なものを解きほぐして単純化して空と説いた。
和尚は物にあふれ過ぎて、「ある」ことばかりを崇めているような物質主義に
陥っている社会に対する強烈な嫌悪感を感じた。
今日ほど「何も無い」こと、それがいかに贅沢な豊かなことであるかを
求められる社会であって欲しいと和尚は願っている。
通りすぎていくばかりで不思議な感覚に襲われた
思わず「何も無いって、本当に贅沢だ」という言葉を洩らしていた。
全てが変化して何も無いことが、こんなに素晴らしい事か、幸せなことか
すべてが単純化されて流されてゆく。
複雑に絡まったように見える心が意かに単純なことなのか、これがブッタが
教える空なのか。
すべての現象を複雑に絡み合ったものと錯覚していたものをブッタは
単純な現象として本質なものを解きほぐして単純化して空と説いた。
和尚は物にあふれ過ぎて、「ある」ことばかりを崇めているような物質主義に
陥っている社会に対する強烈な嫌悪感を感じた。
今日ほど「何も無い」こと、それがいかに贅沢な豊かなことであるかを
求められる社会であって欲しいと和尚は願っている。
消えた集落 里の江は荒涼とした風景だが、何か懐かしく幸せが漂い
居心地のよい集落跡だと雲上寺の和尚は感じていた。
秋風に雲は流れ十三夜の月は見え隠れしながら里の江を照らし、
霧が微かに湧きあがる風景に、ここに住まわれし人達が幻のように現れては消えてゆく。
その人達の笑顔や悲しみからは幸せな山村の生活が浮かび上がっていたが
それはいまの世の暮らしよりはずっと豊かな心の暮らしぶりであったようだ。
すべてのものは変化して滅び去り消え去り流されてゆくのが常であり、空の空なり。
ブッタの教えである般若心経(智慧の完成の教え)に
全てのものの本質が)説れる。
この世の全てのものは空なり、全ての現象は変化して流され
一時も存在する事なし、すべては変化して空となるのが常なり
感情も、概念も、意思も、知識も変化してゆくものなり
世の中には変化してゆくという定めがあるだけである。
それ故、眼、耳、鼻、身体、心、も無く、色、声、香り、味、
感触、現象も感じることなどできない。
すべてを生成変化とすれば生も死もない、生死が無いから苦悩もない
過去も現在も未来もすべては智慧の完成を求めるものである。
雲上寺の和尚は今更のようにブッタの教えが、里の江の光景に似ているような
錯覚に襲われ感嘆にも似た声で般若心経を唱えた。
居心地のよい集落跡だと雲上寺の和尚は感じていた。
秋風に雲は流れ十三夜の月は見え隠れしながら里の江を照らし、
霧が微かに湧きあがる風景に、ここに住まわれし人達が幻のように現れては消えてゆく。
その人達の笑顔や悲しみからは幸せな山村の生活が浮かび上がっていたが
それはいまの世の暮らしよりはずっと豊かな心の暮らしぶりであったようだ。
すべてのものは変化して滅び去り消え去り流されてゆくのが常であり、空の空なり。
ブッタの教えである般若心経(智慧の完成の教え)に
全てのものの本質が)説れる。
この世の全てのものは空なり、全ての現象は変化して流され
一時も存在する事なし、すべては変化して空となるのが常なり
感情も、概念も、意思も、知識も変化してゆくものなり
世の中には変化してゆくという定めがあるだけである。
それ故、眼、耳、鼻、身体、心、も無く、色、声、香り、味、
感触、現象も感じることなどできない。
すべてを生成変化とすれば生も死もない、生死が無いから苦悩もない
過去も現在も未来もすべては智慧の完成を求めるものである。
雲上寺の和尚は今更のようにブッタの教えが、里の江の光景に似ているような
錯覚に襲われ感嘆にも似た声で般若心経を唱えた。
里の江に着いた頃には夕暮れはしずかに深く降りてきていた
遠い昔の日本では「秋は夕暮れ」の美的感性が培われていた。
和尚は今の世の様変わりを浦島太郎のように眺めているのであろうか
それも仕方の無いことかもしれない、なにしろ奥祖谷も1000m近い
標高にある雲上寺の和尚で世情に疎い変わり者である。
里の江は確かにあったが、荒涼とした廃墟と化した集落となっていた
草木が絡まり生い茂りススキは延び放題でなんの風情も無い有様であった。
和尚はその辺りに転がったいる大きな石に腰掛けていたが、住んでいた
住人の庭石であったであろう形のよい石であった。
山村の夕暮れはさすがに寒くなってきた、風も出てきて樹木がざわめき
雲の多い空には月が見え隠れしていた。
里の江の光景は風情のある景色とはあまりにもかけ離れて鬼気迫るものさえ
感じられたが、和尚は意に感じなかったのである。
十三夜の月夜は更けて、和尚は動かなかった。
遠い昔の日本では「秋は夕暮れ」の美的感性が培われていた。
和尚は今の世の様変わりを浦島太郎のように眺めているのであろうか
それも仕方の無いことかもしれない、なにしろ奥祖谷も1000m近い
標高にある雲上寺の和尚で世情に疎い変わり者である。
里の江は確かにあったが、荒涼とした廃墟と化した集落となっていた
草木が絡まり生い茂りススキは延び放題でなんの風情も無い有様であった。
和尚はその辺りに転がったいる大きな石に腰掛けていたが、住んでいた
住人の庭石であったであろう形のよい石であった。
山村の夕暮れはさすがに寒くなってきた、風も出てきて樹木がざわめき
雲の多い空には月が見え隠れしていた。
里の江の光景は風情のある景色とはあまりにもかけ離れて鬼気迫るものさえ
感じられたが、和尚は意に感じなかったのである。
十三夜の月夜は更けて、和尚は動かなかった。
秋めいてきた小道は両側にススキがびっしりと伸びていて見渡す事は出来ずに
僅かに小道がすーと付いているのと、天空のみが広がりを見せている。
所どころに猪か鹿であろうか獣道がそれと判るぐらいに薄っすらと出来ていた
人の気配が無く静寂に包まれたこの道を雲上寺の和尚はとぼとぼと歩いていた。
ときおりススキの穂が顔を撫でるように掛かるのを手で払いながら
立ち止まっては考え事を纏めていたのであろうか頭を左右に振るしぐさを
してはゆっくりと歩いてゆく。
やがて前面をススキが立ちはだかり覆い隠すように伸びている後ろに
見覚えのある赤い屋根の民家が二棟見えてきた、ひょうごいしの二連の廃家である。
和尚はそっとススキを両手で分けて民家の様子を見ようとして身体を前のめりに
して覗こうとしてギョッとして立ちすくんだのだが、なんと縁側には、菜菜子さんと
江美さんがいてにっこり笑いながらこちらを見ている。
和尚は目を疑った、急いで右手で目を擦った。
ふたたび目をしっかりと見開いて縁側を見つめるとそこには二人の姿は跡形もなかった
和尚は深いため息をついて、「まぼろしであったのか!現実であればのう」と落胆した。
和尚は思った、「わしは小説の世界にどっぷり浸かりすぎたのかも知れんのう」
ひょうごいしは静まり返っている、ススキが微かに揺れて。
どの位の時間が経ったのだろうか、和尚は頭を振り物思いに耽りながらそっと
ひょうごいしの廃家をあとにしてとぼとぼと歩き出した。
初秋の風景も10月になって秋色が鮮やかになりかけたある日の夕ぐれ
霧に覆われた山道をとぼとぼと背を丸めて歩いているお坊さんがいた。
もう70歳は越しているあろうか、よれよれの袈裟を纏いながら長靴を
履いているのを見ると間違いなく雲上寺の宮の内和尚であった。
どうも里の江に下りてゆくようであったが、里の江という集落があったが
今では跡形も無く消えた集落になってしまっている。
だが、和尚はがんとして言い張った「里の江は今でもあるんじゃあ」というのも
一年半ばかり前に「江美」という名の綺麗な女の人が恋人の生まれ故郷である
里の江を訪ねて来たことがあった。
和尚は江美さんが今でも気になってしょうがないのである、
一度会っただけであるが、憂いを含んだ顔立ちは幸せ薄い子のような
気がしていたから、行く末が幸せであって欲しいものだと念じていた
からでもある。
そんな事を考えながら宮の内和尚は深い霧のトンネルに消えていった
はたして霧のトンネルの向こうには里の江はあるのであろうか?
それとも何も無い荒涼とした世界なのか、迷える子羊のように彷徨い
歩いて野垂れ死にするのであろうか、誰が知りえようぞ。
今日の世界のような?。
霧に覆われた山道をとぼとぼと背を丸めて歩いているお坊さんがいた。
もう70歳は越しているあろうか、よれよれの袈裟を纏いながら長靴を
履いているのを見ると間違いなく雲上寺の宮の内和尚であった。
どうも里の江に下りてゆくようであったが、里の江という集落があったが
今では跡形も無く消えた集落になってしまっている。
だが、和尚はがんとして言い張った「里の江は今でもあるんじゃあ」というのも
一年半ばかり前に「江美」という名の綺麗な女の人が恋人の生まれ故郷である
里の江を訪ねて来たことがあった。
和尚は江美さんが今でも気になってしょうがないのである、
一度会っただけであるが、憂いを含んだ顔立ちは幸せ薄い子のような
気がしていたから、行く末が幸せであって欲しいものだと念じていた
からでもある。
そんな事を考えながら宮の内和尚は深い霧のトンネルに消えていった
はたして霧のトンネルの向こうには里の江はあるのであろうか?
それとも何も無い荒涼とした世界なのか、迷える子羊のように彷徨い
歩いて野垂れ死にするのであろうか、誰が知りえようぞ。
今日の世界のような?。