秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

空の道標  SA-NE著

2009年09月30日 | Weblog
子供の頃、オンボロ家の窓から見た空は、とても大きかった。
やがて、気が付けば、欅の木々は高く茂り、私の空は、小さくなった。
空が、見えなくなった。

ほんの少しだけ、
見上げる場所を変えれば、果てしなく広がっていく、空があった。
深緑の山々の、稜線に縁どられながら、広がっている、あの頃と同じ空があった。


主人の、一周忌を無事に終わらせた日から、毎日、生きている事が、辛かった。
自分の糧としていた、娘達の成人式、母親を看取る事、そして、主人の生命を、温めながら生きた年月の幕切れ。
「頑張る」意味を無くした時、人間は孤独になる。

優しい言葉をかけてくれる友人、馬鹿を言って、笑い飛ばしてくれた友人、「食べなきゃダメ!」と叱る友人、「声を聞いたら、安心した…」とさりげなく電話をくれた友人、花を届けてくれた友人。
印刷されたような、励ましの言葉は、耳からすぐに抜けていったが…。
主人の存在が、抜けた場所に、溢れる程の優しさを注いで頂いても、そして、娘達との絆が強く存在しても、

私は、孤独だった。
一日を、適当に終わらせ、その積み重ねた月日に、季節というものが、摺り抜けて行った。

孤独とは、仲間の存在など、計りにかけられない程、深い、喪失感から生まれる。

一周忌が過ぎ、二年目の命日の夜、
いつもの時間に、父と母の仏壇に、お線香を上げ、座り込むと、不意に大粒の涙が溢れて、止まらなくなった。
昔、祖父の葬儀の夜、夜行列車で流した涙と、全く同じ涙の味がした。
泣きながら、不意に口にでた言葉が、
「父ちゃん…どうしよう…」

気が付けば、仏壇の傍に置いてあった、大切な箱を開けていた。

祖父からの、手紙。
父と母の巡業のノート、父と初めて唐津に行った時の、数枚の絵葉書。
大泣きしながら、一枚、一枚、見た。
どれ位、泣いただろう。泣き疲れて、暫くすると、心の中に、スーと届いた声を、感じた。
それは、祖父の姿だった。
唇をきっちりと結び、曲がりかけた腰を、伸ばすように、手を後ろに組んだ、祖父の凜とした、姿だった。

「元気バ、出せ!」
一喝した、祖父の声を 聞いた。
それは、遥か空から届いた、一本の道標のようだった。


そして、今日まで、
頑張れた。


三年前、
共に、夫に置き去りにされた友人が、
初めて髪型を変えた。新たな自分探しなどではない。
ただ、今を生きる為に。
ただ、今を繋ぐ為に。

私は、
初めて髪を伸ばした。浮かれた自分探しなどではない。
ただ、今を生きる為に。
ただ、今を繋ぐ為に。
三年前、
父を亡くした少年は、数日して、壁を相手に、キャッチボールをしていた。
昨日まで、お父さんと、投げあっていた。
お父さんは、一言、二言、何かしら息子をからかいながら、
息子のミットの真ん中に、確かなボールを、投げていた。

彼が投げたボールを、受け止める大人は、二度と現れないだろう。彼の時間は、お父さんと別れた、夏の時間、あの強い西日の中で、止まっている。
彼は、これから先、
自分自身に向かって、ボールを投げ続けるんだ。

そして、
いつの日か、大人になった自分自身が、必ず答を出すだろう。
私が、そうで在ったように。


彼岸の秋晴れの空の下
親類が集まった。
幼い子供達の、声が、原っぱにこだました。私と従姉妹の駆けた小道を、新しい命が、駆けて行った。

『昭和』という、悠々と流れた時代に、抱かれて駆けた、この場所で、
やがて空に帰る、その日まで、
私は生きていく。
まっすぐに生きていく。
秘境と言う名の山村からーー。







過去と未来の放物線    SA-NE著

2009年09月29日 | Weblog
誰の人生にも、幾つかの、分岐点がある。
二十歳の頃、一度だけ、荷物をまとめて、「祖谷脱出」を決意した時が、あった。
父を亡くした日から、自分の中で諦めた「夢と未来」
堪えながら、積み重ねた様々な現実。
何処かで、やり直したかった。
もう、「村」は、懲り懲りだった。
心が、悲鳴をあげていた。

「母さん!ワタシ、祖谷から出ていくけん」
「何を言よんな?」
「もう、絶対に決めたけん!」
「出て行って、何の仕事するんな?」
「スナック!若いけん、いけるわ!」
問答を繰り返した、その晩から、母は二、三日、寝込んだ。
そして、電話をかけた。いつもの、母の愚痴のはけどころは、実の姉さんだった。
天地がひっくり返ったような、強烈な口調で、私を説得に掛かった。
折れた形で、私は断念した。
叔母さんは、自慢げに喜んでいたが、私は母が寝込んだ時点で、脱出は、諦めていた。

あの時、私の分岐点で、腕を引っ張った叔母さんも、最近、病気になり、達者な頃の、面影もない。壊れかけてはいるが、声の勢いだけは、昔と同じだ。

脱出を決意した要因のひとつ。初めての強烈な挫折があった。


四年制の分校の、三年間を終了する年の冬。担任が、私を職員室に呼んだ。
「あのなあ、ちょっと聞いた情報なんだけど、村の方で今度、公務員の試験があるらしいわ!18才以上の条件もクリアしとるけん、これからのお母さんとの生活とか、考えたら絶対に固い話しだと思うよ―」

私は、突然の降って湧いた話しの内容が、全く理解出来ないで、一気に話す、担当の顔をじーと、見ていた。

「先生、公務員って、何ですか?」
そんな質問をしたのは、覚えている。

担任は、事細かく、色々と説明してくれた。早い話しが、理解出来たのは、母娘の暮らしが安定するという、私なりの解釈だった。

私は、願書をきっちりとだし、
ひたすら、勉強した。「初級公務員」の問題集の厚い本が、手垢で倍近く膨らむ位、勉強した。
過去の人生に於いて、あれ程勉強した記憶がない位、夜の時間、没頭した。
全て、記憶した。応用問題、苦手な英語も、絶対の自信を持って、クリアーした。

時々、担当が声をかけてくれた。
「やっとるかあ~」
私は、なんか照れて、恥ずかしかった。

数週間すると、
役場に勤める方から、電話がかかった。
願書の受け付けは、終了し、男子若干名、女子1名の採用枠。女子で願書を出したのは、私一人なので、合格したようなものだから、安心してとの、気遣いだった。
そして、余りヒドイ点数だと、採用されないので、そこそこの点数は、取るようにとの、優しい助言だった。

『脱、貧乏生活!公務員って、なんかカッコイイ!』
夢見る少女ではないけれど、自分の就職先は、近場の縫製工場と、諦めていたので、未来が少し開けた感じで、嬉しかった。

あの時、担任も、私も村の事情等、全く知らなかった。


90パーセントの正解率の自信を持ち、終えた試験。
結果の通知が届いた。

『不』の文字に、全身が凍りついた。
『不』の文字が、紛れも無く、印刷されていた。


合格したのは、
私の中学時代の同級生。
私が、受験した事も知らずに、数ヶ月後、彼女が立ち話で言った。

「村に帰る気、なかったのよ~、母親から電話がかかって、役場に入れるようになっとるけん、帰って来いって~!うちの母親、偉いわあ~」

あの時の試験で、合格したのは、選挙がらみの世話役さんの子供達。誰が、見ても、明確な顔ぶれだった。

その日の夜、母はぽつりと言った。
「やっぱり…」

担任は、私に謝った。
「村の事情、知らんかった、悪い事したなあ~」


最近、酒の場で、
役場を退職したある人が、私に酒を注ぎながら、ぽつりと話した。

「昔の話しになるけど~あの時は、気の毒な事したのう~まあ、選挙があったけん、しよなかったんじゃ、まあ、気の毒だったのは、覚えとるんじゃ~」


合否に関わった者達は、退職後も、悠々自適に、暮らしている。


私が得られなかった枠を、得た彼女も、いつでも、退職金が用意されている年齢になった。


全ての事実が、
過去の事と、片付けられても、
私は、その過去の延長線で、生きている。

あれから、
『村』が嫌いになった。『組織』が嫌いになった。『一生懸命働かない一部の公務員』が、大嫌いになった。


過去から延びた、放物線の時間の中で、私は生きている。
私は、やっぱり
『一生懸命』な人間で在りたい。
新たな放物線を、自分のチカラで、放つ為に。




菜菜子の気ままにエッセイ(2009ジャズフェスタin祖谷)  

2009年09月28日 | Weblog
10月3日、東祖谷武家屋敷〈大枝〉にて、 ジャズフェスタが、勇気ある?高齢者、あっ、失礼しました
勇気ある、実行委員会にて、催しされます。
実行委員会のメンバーは、『てんごの会』の適当なメンバーと、
コテージの管理人の妻、Tまちゃんに、一瞬、目が遭ってしまった、不幸な?方々です。その不幸な?方々は、道で立ち話をしていた数名のおばちゃん軍団とか、
必死で仕事をこなし、帰ろうとしている、同僚とか、
その年々で、とにかく、メンバーが、変わります。
山の景色と同じです。

Tまちゃんから、今年の、『オフレ』が出たのは、
〈菅生小学校のみのりっちの運動会〉
の時でした。

あの時、私は、必死で食べていました。
普段の味噌汁定食とちがい、バラエティにあふれたメニューに、感動してました。
みんなも、喜んで、普通に食べていました。

管理人も、その妻も、お願いします!
の用件の時は、語尾に必ず、小さな『ぇ』と『ぉ』が付きます。

黙々と食べるメンバー達。
必死で、食べる菜菜子
しばし、続く沈黙……

『あー、そうそう、今年もジャズ、よろしくねぇ♪』

「早いなあ~、もうジャズの季節なん?」

『そうよぉ、あっ、テラオの兄さんと、菜菜子さん、また飾り付け、よろしくねぇ♪』

「ハイ、ハーイ」
箸を止めずに、優しく返事をする私。
テラオの兄さんは…
一度も顔を上げないで…黙々と食いながら…、一言、低い声で呟いた。
『ふう…ん…』


味を噛み締めていたのか?
人生を、噛み締め過ぎているのか?

とにかく、来年も行きます!
運動会!



のランチタイム♪


毎日行進!の
お留守番!
頑張りました。私の手元には既に、ここのブログの主様から、私の生い立ちのエッセイを、印刷した小冊子が、届いています。
ありがとうございます。
毎日、超早起きの主様!
私がアップしてると、勘違いされて、何人に聞かれたことか…
『なっ、何時に起きとん?』
あのアップの時間、私は深夜の老犬のムダ吠えで、二度寝入りをして、倒れている時間です。

御礼の電話を、主様にかけました。
御礼は、『声』で届けるのが1番!

「モシモシー、M・iyaさんですか~、菜菜子ですぅ♪」

『ぁーもしもし〆』

間違って、市役所の出納係にかけたんでは?と思ってしまう、
第一声!
超! 紳士!偉っ!

30日で、毎日行進生活は、終わります。
……が、携帯電話をリニューアルして、綺麗な画像で祖谷を、届けたいと思います。
これからも、宿かり生活のような私ですが、よろしくお願いしました!
本日も、訪問!
ありがとうございました〆


2008ジャズフェスタin祖谷(大井貴司ジャズメンバー熱演マクロビオテック料理)





菜菜子の気ままにエッセイ (深夜の臨時コテージ管理人)!

2009年09月27日 | Weblog
水曜日、19時30分、コテージの管理人〈男子〉から、電話がかかった。
嫌ーな胸騒ぎがした…

「あ~、モシモシ、菜菜子さん、今大丈夫ぅ?」

「はい?大丈夫です?」
優しく答えた、私。

「あのねぇ~、今さっき、コテージに泊まりたいって言って、外人さんから電話が入ったんですよぉ~」

「……」

「それで~、ワタシねぇ、今徳島の市内に出てきちゃってて、あー、今日は、定休日だしねぇ~」

「ヘェ~?」

「大丈夫ですかねぇ、開けて頂けますかぁ?今から、20分位したら、付くみたいなんだけど~」



『水曜日の定休日でも、祝日だろう!シルバーウィークの最終だろ!貴重な観光ラッシュ!儲けないかん、天下の祝日じゃあ!なんちゅ?市内?はあ~?娘んくへ行ってるばあいか!観光を嘗めたらアカンゼヨ!』


と心の中で叫びながら、
『大丈夫よ!任せて下さい!』
と優しく返事をした私


暫くして、考えた…
管理人は、以前のガラクタ集めを最近、少し控えて、やたらと、はまっていることがある。

『エコ……な生活!』
『節約……節電!』

『ケチな?……生活!』

つまり、早い話が、
誰~も、泊まっていないコテージの、回りは、家もなく、ひたすら山に囲まれた、まーーーーーー暗な闇!また闇!真っ暗!
百メートル先のバーベキュー棟に、飾りのように点いている、小さな電灯がひとつ。


そこで、思いだした。
今朝、1番で長女から電話が入っていた事を!

『母ちゃん、あのなあ、歯が抜ける夢みたけん、気をつけなよ!』

24才にもなって、母ちゃんと呼ぶ、長女の事はさておいて、
もしや、この電話の内容の行き着く先が…、夢のお告げ?

明日の新聞の見出しに
『深夜の悲劇!
美人臨時管理人、
マムシに噛まれて重体!
正義感が、招いた悲劇か!』


なんて事に…

その前に、
普段から、管理棟の壁に飾ってある、
妻が海外で購入した
「一枚の絵」

まさか、深夜にここに一人で来る事は、絶対、絶対にない!!!
と思っていたので、さんざん管理人に言ってきた…

『あの絵、なんかヤバイよ!なんか、怨霊がこもっている感じ…』

『悪い事、言わんけん、あの絵、家に持って帰って、見えない場所に、置いたら?』


言い過ぎて、思い出せない位、管理人に言ってきた。

真っ暗な、真っ暗な
管理棟に、入った。
車のライトを頼りに、カギを開けた。
とりあえず、電気を点けた。

なぜか、管理棟の中に、テントが一つ。
誰か、寝ているような?
そーーーと近付いてみた。

『エッ…?』

『何ッ…?』


『寝、寝ぶくろ~~!』

『なんで、寝袋あるんじゃ~、まぎらわしい~』
独り言を言った。

例の絵をチラッと見ながら、

素早く、二人分のシーツ等の、用意をした。
チラッと 絵を見た。

初めて、歌った事のない ハミングが、口から 出た。
再生も、出来ない。


暫くすると、
二人のカップルが着いた。管理人いわく、日本語大丈夫!通じるから!との事。

通じると、言われても、なぜか外人と話す時は、大きめな声になり、手話になり、口をゆっくり、大きく開けて、話す私…

「コンニチワ」
お~、きれいな日本語!
「オソクナッテ、ゴメンナサイ」
お~、常識あるじゃん♪
『い・い・え・、だい・じょう・ぶです』
爽やかに対応する私。
申込書を渡して、住所を書いて頂いた。

サッパリ、読めない!二歳児の落書きに、似てる 筆跡。

いつもなら、駐車場の説明をする時、
「この上の、公園に適当に停めて下さいね」
だけど、
まわりは真っ暗!
そんな説明、絶対に相手に伝わる訳がない。何よりも、危険過ぎる!
私が、一緒に、先導した。

公園に着く!
私は降りて誘導!
先に行ってて、部屋の電気は、点けてあげていた。少しは、見える!

『もう少し・前に行って』
カップルの車が、
ブーンと三回位、吹かして、前に出た!

前方には、コンクリートの 固まり!
見えて、なかったの?


思わず、
私の 隠しておいた、
高度なイングリッシュが、炸裂した!!!



『ストップ!』
『ストップ!』


車は 無事に停止した。

私のイングリッシュがポロッと 口から出た。

『オッケー!』

カップルは、嬉しそうだった。
私が、英語を話せる事が判って、安心したんだ。

また、必死で、駐車場から降りた。
『あとは、シーラナイ』

外人さんに、管理人が留守なのは、
『定休日なので、町にここの、買い出しに行っているんです、ゴメンナサイね!』
と優しい嘘をついた私!
若き女性よ!
こんな優しい嘘が
平気でツケル、女に成りなさい!

成ったとしても、
フラれる時はフラれるので、
潔く、フラれなさい♪

マムシに噛まれる事もなく、
無事にゴンの待つ、家に帰った菜菜子でした。
サンキュー、バイバイ!



彼岸に寄せて(最終章 東祖谷賛歌)

2009年09月26日 | Weblog
一年前から、返さないでいる、大切に飾っているものがある。
〈フォークギター〉

娘から、借りたまま、わざと返さないでいる。
「弾いとるん?」
とリアルに聞かれて、
「うん!たまにはね!」
なんて、答えてはいるけれど、正直、眺める時間が多い。
でも、返したくはない。手を伸ばせば、弾ける…それだけで、安心する。

人には、何かしら、依存するものがある。
それが、家族だったり、恋愛だったり、ギャンブルだったり。はたまた、EXILEだったり?。

祖谷で母と、暮らし続ける事が、義務のようで、若い頃は、正直辛かった。
年に数回、垢抜けて帰省する友人達が、キラキラして眩しくて、心は二歩も、三歩も後ずさりしていた。

地元の四年制の、分校を卒業し、仲間達は分散し、半分が都会に行った。
残った友人の一人が、かけがえのない、彼だった。
男と女の友情は、成立しないと、度々問われる話題だけど、
友情なんかでもなく、さりとて、愛してる!なんて感情でもなく…血の繋がらない兄弟みたいな、
とにかく、かけがえのない、友人だった。

私が、初めてノートに書いた、根ぐらい『大失恋』の歌詞に、
ある日、彼が曲を付けてやってきた。
「ちょっと、聞いてみ!この曲、イケルわ!」
ドスンと座って、肩を上下してから、立て膝を立て、ギターをスクッと持ち、あぐらをかいて、チューニング。一人で、何かしら発声練習をして、
『ヨシッ』と一言言って、一度左に首を振る。
一人で、歌い始める。
私は、膝を立て、座りそんな彼のしぐさが、可笑しくて、笑った。
初めて作った曲を、カセットテープに録音し、私に内緒で、
『ヤ〇ハのポ〇コン』
の徳島大会予選に出した。
なぜか、予選突破をし、
なぜか、その年のグランプリ!

そのままいけば、
アラジ〇と、決勝を戦うステージに立つ筈だった。

多事多難、悲喜こもごも。
乗り越えるには、心が幼かった。
感情だけが、暴走し、即席で組んだ、グループは解散。出場辞退。
一年余りして、気が付けば、やっぱり彼と、曲を作っていた。

私も彼も、それぞれに結婚し、子育てと仕事に追われる日々。

数年して、気が付けば、長電話を掛け合う日々。
一時間余り、途中でどちらかが、受話器を落とした。でも、話は続いた。

お互いに、止められない、
『音楽馬鹿症候群』
次の目標を立てた。
『CD自主制作』

数曲が、完成していた。
残り、一曲を、完全化する事。

彼の口癖は、
「〇〇〇が、男だったら、楽なのに!」
私が、男だったら、世間の偏見を、気にしなくて済んだ。何処にでも、行けた。

CDのジャケットも、タイトルも決めていた。満開のそばの花の中に、フォークギターを置いたジャケット。タイトルは、〈ローカル風景画〉漠然としながらも、形は見えていた。

母の介護に、夫の通院、子育て、仕事、時間に追われる日々の中で、唯一見えた、生きる『糧』

「今の仕事、片付いたら、曲完成さすわ!もうちょっと、待ってくれえよ!」
そう言いながら、彼は手を軽く上げ、走り去った。
私は、いつものように、笑って彼の車を、見送った。

軽く上げた、手は
サヨナラのあいさつのように、
それが私の見た、彼の最期の姿だった。



彼が逝って、十年目の秋が来る。

「これは、マイナー調でいこう!」
「ゆずの夏色、聞いた?」
「ハモる練習してみ!」
「ムリッ!私、声悪いもん!」


満開のそばの、小さな花の波を、
風が渡っていく。


彼の歌った、東祖谷賛歌が、彼と共に、遥か空を渡って行くー。



彼岸に寄せて(拝啓叔父さま)

2009年09月25日 | Weblog
祖谷地方の、葬送の古い風習のひとつに、
『オオジョウイシ』と『オガミイシ』がある。
オオジョウイシは、六角の棺桶を、埋めた後から、土を被せて、その上に置く、厚さが10~20センチ位の、平らな石。
オガミイシは、その平たい石の真ん中に、据わらせるように置く、両手で軽く持てる位の、小さな二等返三角形をした石だ。

爺やんのお葬式の朝、叔父が、私を河原に連れて行った。
「川へ石探しにいくか?」
と聞かれて、訳が解らないまま、山を下りて、付いて行った。

叔父は、私の母親の弟で、私とは27才の年齢差。大の酒好き。私も、従姉妹達も、この叔父さんには、『さん』という敬語を付けないで、なぜか呼び捨てにしていた。
今、考えると、全く失礼な話だ。
『おじよお!』
と呼んでいた。

30分かけて、河原に着いた。
叔父は、石を抱えては、置き、ウロウロと同じ動作を、繰り返していた。私は、少し後から、叔父に付いて歩き、聞いた。
『何しよん?』
叔父は、三角形の小さな石を、私に見せながら、
『爺やんの石の上に、乗せないかんのぞ』
と答えた。

暫くすると、叔父は、『これでええわ…、中々丁度のはないのう…』と言いながら、大事そうに、石を抱えた。
私は、私で、三角形の石を見つけて、叔父に見せた。
「どうせ、ダメなんだろうな」
それ位の軽い気持ちで、見せた。
叔父は、一言、
『お~、この石、ええのー、よう見つけたのー』と声を上げて、すぐに私の手から、受け取った。嬉しかった。
爺やんのお墓に、墓石が出来るまで、置かれた、そのオガミイシは、叔父との、貴重な想い出だ。

私は本来、同情と言う言葉は、余り好きではない。
しかし、叔父の人生を顧みる時、心から胸が締め付けられる。

叔父は、28才の時、婿養子として、17才年上の奥さんと結婚をした。奥さんの実家は、酒屋兼、雑貨屋。
奥さんに、ひたすら、惚れられたという、私からみれば、
「色男、金と力は……」のパターン。
元々、酒好きなのに、酒屋に婿養子に入れば、もう誰も止められない。歌が上手で、ギターが上手いとなれば、鬼に金棒!

結婚して、すぐに女の子を授かった。しかし、幸福の調べは、いつまでも、続かなかった。突然に、ギターの糸が、切れるように、突然の不幸が、叔父夫婦を襲った。

酒屋は、道路に面していた。家の前は、バス停。
女の子は、愛らしく、二歳のヨチヨチ歩き。近所の人からも、可愛がられた。
いつもの夕方の時間。定期バスが、止まった。乗客が下りる。運転手は、顔なじみ。軽い世間話をして、
発車と同時に、
悲鳴が起こった。


即死だった。
誰かが、抱いているだろうと、油断していた、悲劇の結末だった。
それから後、妻が亡くなるまでの九年間。
叔父は、酒びたりになった。
私と河原に行ったのは、死別した翌年だ。

爺やんの死を境として、叔父は、故郷を捨てた。徳島市内で、ひっそりと晩年を過ごした。
内縁の女性に、口癖のように漏らしたという、
「無縁仏には、なりたくない…」
の言葉。

叔父は、一度だけ祖谷に、ひっそりと帰った事があった。徳島市内の、知人のつてで、祖谷に入る行商の人の車で、家族で暮らした、家を見て、帰ったらしい。
「祖谷を見れたら、充分だ」と言ったらしい。行商の人が、後で、近所の人に、話したと言う。
叔父の瞳には、何が映ったんだろう。悲劇が、起きなければ、永遠に続いただろう。幸福な家庭生活。
もし、生きていれば、私よりひとつ年下だった。

叔父は、61才で、ひっそりとこの世を去った。
葬儀は、親類で、密葬とし、葬儀費用にお墓代、すべて姉妹で割り勘。
叔父の懐に残っていた、僅かな現金は、内縁の女性に、渡した。
「世話をかけました」
頭を下げた、姉妹達。中々、カッコよかった!

叔父、爺やん、従姉妹酒好きが、一列に並ぶお墓のスペシャル席!
拝啓、叔父さま。
私も割り勘、母の代わりに、出しました。
覚えておいてね!
私は、ガメツイのよ。拝啓、叔父さま。
なぜか、私もギターが大好きです。
合掌




彼岸に寄せて(もんてこいよ)

2009年09月24日 | Weblog
幼い頃から、姉妹のように育った、ひとつ違いの従姉妹がいた。 従姉妹は、私の母の妹の娘。
従姉妹の、生みの親は、従姉妹を生んで、再婚をした。育ての親は、今86才になる、長男の嫁であり続ける、山の上の叔母さんだ。
従姉妹は、私とは全く正反対の女の子だった。わかりやすい説明すると、従姉妹はどこか垢抜けていた。
目が、パッチリで、小さな鼻がかわいらしく、拗ねたような仕草が、似合っていた。
私が、山の上の家で過ごした幼少期の思い出の中に、贅沢な時間がある。
昔、日曜日の朝になると、行商の松〇のおばちゃんが、山道を荷を背負って、やってきていた。
段ボール箱、二段重ねの中身は、お菓子!

「オルカエ~、おはようござんした~」
の声が、庭に響く。
叔母さんは、すかさず、「オルゾヨ~」と答えて、障子を開ける。
私と従姉妹は、布団の中で、その声を聞きながら、ニンマリと笑う。呼ばれるタイミングを待つ。

「起きいよ~松〇のおばさん、キトンゾ~欲しいもん、来て見いよ~」

この声がかかったら、私達は、布団から一気に脱出し、縁側に走る。
箱には、色とりどりのお菓子が、びっしりと列んでいた。
その中から、二つを叔母さんが、買ってくれた。
いつしか、喧嘩しないように、私達は同じお菓子を選ぶ癖が、ついていた。

今、仲良く遊んでいたと思えば、すぐに喧嘩が始まる。

「喧嘩ばっかりするんなら、庭のツボクサでもせえ!」
と叔母さんに怒られた。
ツボクサとは、草むしりのことだ。
ツボクサをしていても、また口喧嘩が始まる。真ん中に枝で線を引き、
「絶対に入ってくな!」
と言いながら、暫くして、また口喧嘩が始まると、お互いに手に握っていた、草を投げ付けあうという始末。

従姉妹は、中学生になった頃に、髪に巻く〈カーラー〉を持っていた。夜眠る前に、前髪を外向きにクルッとまく。私は、それを始めて見た時に、
「外に向けて巻いたら、髪の毛、上に持ち上がって、おでこ見えて、変だろ~」
と言うと、
従姉妹は、自信満々に鏡を見て、ドライヤーをあて、素早く形を整えた。
カーラーを巻いた前髪は、緩やかなカーブをえがき、前から少し斜めに綺麗にまとまっていた。
従姉妹は、数年、そのオシャレな前髪を、チャームポイントとした。
私といえば、伸ばしっぱなしの、ただの横分け。
カッターシャツを着ても、従姉妹は第二ボタンまで外し、私は首までボタンをかけていた。
中学を卒業し、私達は、全く別々の道を進んだ。

私生子として、この世に生まれ、社会の波に投げ出され、縁薄く、数回の離婚を経験した。寂しさを酒で紛らすだけの日々。

12年位前、従姉妹から電話が入った。故郷に新しい家族を紹介がてら、一晩泊まりで、帰りたいと言った。

三度目の、結婚相手だった。
従姉妹とは、離れて暮らすようになってから、疎遠になっていた。それは、お互い様だった。

『故郷・祖谷』を、新しい家族に見せたかった、従姉妹の純粋な望郷心を、私は大事にしたかった。

相手や、その家族には正直いい印象は、受けなかったが、従姉妹の育った家で、私は郷土料理に腕を振るい、精一杯の持て成しをした。
台所に立って、一人でお酒を沸かしていると、従姉妹が小声で、言った。
『ゴメンよ…迷惑かけて…』

その夜は、賑やかに更けて行った。

あくる日、
従姉妹達が、帰る時、私は従姉妹に、そっと言った。
『いつでも、もんてきなよ。ここが、〇〇〇の家なんじゃけん!』
従姉妹と、直接会ったのは、それが最後だった。
二年後、心不全により、呆気なく、逝ってしまった。
38才だった。


今日は、従姉妹の命日。
あの頃、ツボクサを投げあった庭は、とても広く感じたのに、今では小さく見える。

従姉妹は、約束通り、故郷に帰ってきた。
酒好きな爺やんの隣に陣取って、毎晩浴びるように、飲んで騒いでいるだろう。

私はいまだに、
カーラーを上手く、巻けないでいる。




彼岸に寄せて(永遠の白黒写真)

2009年09月23日 | Weblog
夜になると、囲炉裏端は、大人達に、陣取られた。
集落の知らない人や、何度か顔を見た親戚の人達が、爺やんを眺めるように、座っていた。私は、大人の身体の、少しの隙間をみつけて、その肩の間に、納まった。
爺やんが、寝間に寝かされていた。いつもと別の方向に、寝かされていた。
私は、大人達の隙間で、たくさんの声を聞いた。囁くように話していても、子供の耳は、高度抜群に、根こそぎ、声を集められた。

「淵の底に、引っかかとったんじゃと~」
「何回か、竹で突いたら、上がってきたんじゃと!」
「竹で突いた傷、手に残っとるわ、ムゴイのうや~」
「酒、姉さんに取り上げられとったんじゃと!」
「淋しかったんじゃのう、ムゴイのう…」
「殺されたようなもんじゃの…」


記憶の中に、私の母親の、映像が映らない。きっと、母屋で、寝込んでいたのだろう。

深夜になって、集落の人は、帰って行った。隠居部屋は、少しだけ静かになった。

爺やんには、十人の子供が、いた。
昔は、どこの家も、子沢山だった。でも、今のように医療は進んでいなかった。
原因不明の病を始め、食べ物を喉に引っかけたり、様々な原因で、数人の幼い命が、消えていた。
爺やん達も、女の子を一人、亡くしている。
十人の中に、酒癖の悪い、伯父さんがいた。酒に、飲まれてしまう、大人がいた。

一人の伯父さんが、泣きながら爺やんの布団を、一緒に被ろうとした。
兄弟達が、馬鹿な事をするなと、止めていた。
「わしは、おやじが惨いんじゃあ!今日は、おやじと一緒に、寝てやるんじゃ~」
鼻水を垂らしながら、泣き叫んでいた。

騒がしい子供達とは、対象的に、爺やんは、静かに死んでいた。

昔、祖谷地方は、土葬だった。火葬場もその年位に、建てられたが、まだまだ、土葬の風習が残っていた。墓地に、大きな穴を掘り、仏様を六角の柩に納め、埋葬する。
柩は、1メートル位の高さで、幅が70センチ位だっただろうか。

あくる日の夜、爺やんが、埋められていた。また、大人達が、眺めるように、回りを囲んでいた。
十月の終わり、寒かったのか、回りを照らす明かり代わりなのか、大きな火が、焚かれていた。
私は、また、大人の肩の隙間に、潜り込んで、爺やんを見ていた。啜り泣きが、聞こえる。隣で、泣いていた大人に、私は顔を見上げて、聞いた。
「爺やんは、殺されたようなもんなん?」
少し間を置いて、
その人は、頭を縦に
振った。
そして、人差し指を自分の口に、あてて、私に目で、合図した。
私は、黙って、ずっと爺やんを見ていた。


爺やんの「死」を境にして、暫く故郷、そして生家と、疎遠になった、兄弟姉妹達。


あれから、36年が、過ぎた。
爺やんの子供達も、既に四人が、他界している。
私は、覚えている。
叔母さんは、爺やんの世話を、長男の嫁として、精一杯、やっていたことを。
酒に溺れた、爺やんの身体を、心配していた事を。

そして、爺やんは、寂しかった事を。

あの日、
爺やんが言った独り言。
私は、数ヶ月後、家で爺やんと同じ恰好で、天井を見た。
細長い電灯の、器具の部分に、規則正しく、穴が開けられている。カタカナで書いた、ハの字に見える。
『ハッハッハーノハッハッハ』
声に出して、歌ってみた。


私の心の白黒写真。囲炉裏端の爺やんが、永遠に、そこにあるー。

彼岸に寄せて(笹の道)

2009年09月22日 | Weblog
山の家に着くと、知らない大人達が、大勢集まっていた。
記憶は、断片的に、残っている。母はあの時、どこにいたんだろう。私は、誰といたんだろう。
晩御飯の時に、
『〇〇さん、あんまり食べんのう?調子悪いんかえ…』
と誰かが、私の父に言った。
父は、お腹を摩りながら、
『腹が張って、食べれん…』と答えた。


地区の消防団の集が、全員、捜索にでた。
池〇町の、病院に入院していた、友人を訪ねて、道に迷ったのか?母の家に向かって、途中でどこかに転落したのか?
何の、足取りも掴めないままに、二日が過ぎた。
その日の夜、誰かが、私と父を、家まで送ってくれた。あくる日、私は学校に行かなければならなかった。
運転していた、男の人が、ライトが照らす、真っ暗な道の途中で、『〇〇さんくへ、オヤッサン、歩いてイッキョッて、どこぞで、まくれとんじゃあ、ないかのう~』
と父に話した。
〇〇さんとは、母の名前だ。

36年前の村には、外灯の数等、殆どなかった。行き交う、車の数も限られていた。山の真っ暗な道の、茂みの中から、爺やんがスーと現れそうで、必死で、目を凝らして前を見た。私は、爺やんは、母に会いに、家をでたのだと、子供心に、感じていた。
爺やんが、姿を消してから、大人の女の人は、隣の家にきらした醤油一本を借りに行くことさえ、嫌がった。毎日、捜索にでている男衆に、三度三度の御飯の支度があった。
何かしら、足らないものがでてくる。
百メートル位の、小道は真っ暗で、誰もが、嫌がった。
「さみしいて、いけんわ!」
さみしいとは、恐ろしいという、意味を持つ。
それを聞いた私は、
「わたし、取りにいく!」
と手をあげた。
「なんで?、おとろしいないんか?」
と近所のおばさんが、目をキョロキョロ、させた。

真っ暗な小道を、一人で歩いた。やっぱり、爺やんを、探しながら歩いた。
他人には、恐ろしくても、わたしには、爺やんだ。大事にしてくれた、囲炉裏の仲間だ。怖いなんていう、感情はなかったが、出てくるんなら、血だらけは、勘弁してよ!
そんな事ばかり、想像していた。
従姉妹の、トイレにも、ついて行かされた。
当時、行方不明者の捜索なんて、滅多になかった。
大体、歩くことさえ、不自由だった、爺やんが、そんなに遠くまで、行ける筈がなかった。

数回、捜索したある場所があった。
家のすぐ下の、杉林と竹林に覆われた、小道。落ちた笹の葉が、びっしりと敷き詰められた傾斜のきつい道。昼間でもあまり、光りはなく、薄暗い道。
その道の先に、淵があった。


三日後の午後、
消防団の一人の男性の手に依って、爺やんは、発見された。
私が、12才の秋だった。







彼岸に寄せて(爺やんの独り言)

2009年09月21日 | Weblog
私は幼い頃から、学校の長い休みの季節には、母の生家に泊まりに行った。
ひとつ違いの、従姉妹がいたせいもあり、自然の中で、様々な冒険をしながら、育った。
道路に面した、自分のオンボロ家とは違って、山の家は、車も走らない。田ンボの回りには、れんげ草が咲き乱れ、王冠を編んだり、タニシを見つけたりして、遊んだ。
あの頃、爺やんや、回りの大人は、タバコの葉の栽培をしたり、蚕を飼っていた。

爺やんは、いつも汚れた浅黒い服で、畑にでたり、薪をこしらえたり、家の周辺で、何かしら、働いていた。
そんな爺やんも、時々バスに乗って、私の家まで遊びに来ていた。そんな時の、爺やんの身なりは、きちんとしていた。シャツを来て、その上から、ブレザーのようなものを、はおり、ズボンをはき、細いベルトをしていた。帽子も、被っていた。
山の上の爺やんとは、別人みたいで、少しかっこよかった。


せっかく、訪ねてきても、食堂が忙しい時は、父にも母にも、構って貰えず、一人でテレビを見たり、ごろ寝をしていた。
私も、退屈した日は、一人遊びをしていたので、退屈そうな爺やんが、なぜか仲間に見え、爺やんの傍にいた。

いつだったか、天井を見ながら、仰向けに寝転び、突然、
『ハッハッハーノハッハッハ』
と高い声で、独り言を言った。
私はびっくりして、『何?それっ』
と聞くと、
爺やんは、寂しそうに小さく笑って、
『ハッハッハーノハッハッハ』よと答えた。
その訳がわかったのは、爺やんが、死んでしまったあとだった。

私は山の上の家に行くと、必ず真っ先に、爺やんの隠居部屋を訪ねた。
叔母さんは、足の裏が真っ黒になるから、行くなと止めたが、爺やんの座る場所は、囲炉裏端。
正面に座って、爺やんのする何もかもが、珍しかった。

爺やんは、
必ず最初に、
『いも、食うか?』と私に聞く。
お腹は空いてなかったが、取り敢えず、『うん!』と答えた。
爺やんは、手品のように、炊いたいもを「するり」と取り出す。
しばらく囲炉裏の網で焼いてから、次に必ず聞く。『味噌、付けるか』
どうでもよかったけど、
『うん!』と返事をした。
サビだらけの、小さな缶の蓋をあけ、味噌を取り出し、細いヘラのようなもので、味噌をいもに塗る。節々に染み付いた、煤だけの手で、私にそれを差し出す。そして、聞く。
『うまいか?』
「うん、旨い!」

私に一番最初に、マッチのつけ方を、教えてくれたのも、爺やんだった。
父は、危ないからと、私にマッチを触らせてくれなかったが、爺やんは、
『なんでもやらな、なんにも出来んぞ!』
と言って、
マッチを何回もすらせてくれた。
爺やんの真似をして、小枝を囲炉裏の火の中にいれて、火の粉が天井に上がっていくのを見て、遊んでいた。囲炉裏端は、爺やんと私の陣地のようなものだった。

元気だった、爺やんも、酒の量が次第に増えて言った。

爺やんは、次第に薄暗い寝間で、一日中、寝る事が多くなった。

遊びにいっても、
囲炉裏端に座る事もなく、私が帰ると、いうと、必ず『まて…』と言って、奥の寝間から出てきて、また這いながら、寝間に何かを取りに行って、また戻ってくる。
そして、手に10円玉を握りしめて、私にくれた。
そんな日が、いくどとなく、続いた。

私の家に、
ある朝早く、山の家から電話がかかった。
『爺さん、朝から姿が見えん!』

爺やんが、
いなくなった。


栗枝渡集落から見る落合集落(重要伝統的建造群保存地区)

彼岸に寄せて(囲炉裏の爺やん)

2009年09月20日 | Weblog
風のない午後、祖谷の集落の畑の、あちらこちらに、見えてくる、まっすぐな煙。
『集め焼き』 の光景

畑の草をむしり取り、一カ所に集めて置いて、乾かしてから火をつける。実の付いた草を、再び畑の中で、蔓延らせない為の、昔から伝わる、農家の光景。
その火は、焚火のような大きな炎ではない。
真ん中から、少しずつ、燻していく。
真ん中は、丁度、鳥の巣を乗せたような形に似ている。
方言なのか、私達は昔からこのような火を『くいらす』と言う。
か細い煙は、まっすぐに立ち上がる。
あの匂いを、文字で表現できたなら…
伝えられない、あの夏草の焦げる香り。
化学製品を焼いた時の、臭いが鼻につく臭いとしたら、夏草の焦げた匂いは、心に付く匂い。「スー」と心に突いてくる。

私には、あの匂いは、『爺やん』の匂い。囲炉裏端の匂い。

母親の生家には、〈時々登場する86才の叔母さん〉兄夫婦と、隣の隠居部屋には、両親が住んでいた
私の祖谷の、『爺やん、婆やん』だ。
回りを山々が囲む、標高800メートル位の場所。
今でも、当時の面影が残る、今は作らなくなった、田んぼの周辺。湿地帯で、サラサラの清水が水草の透き間から、小さな音をたてて、流れている。水が、息をたてている。


昔は、下の道路から30分近くかけて、歩いて登った細い小道も、今では車に乗らない、近所の方が、利用するだけとなった。
家ごとに、私道が抜けて、足腰の疲労を抱えた高齢者、郵便配達人をはじめ、生活する上では、欠かせない道となった。

婆やんが、亡くなったのは、私が七歳の春。今でもはっきりと覚えている、光景が二つある。
隠居部屋の奥の暗い寝間の、豆電球のあかりの下で、婆やんは、寝巻姿で、いつも寝ていた。私が、遊びに行った時、丁度お医者さんが往診に来てくれていた。
婆やんのお尻には、お茶碗程の、床擦れがひとつできていた。
その窪んだ穴の奥に、白いものが、見えた。それは、骨だった。生まれて初めてみた、骨に、正直、恐ろしかった。

婆やんはそれから暫くして、亡くなっているが、婆やんのお葬式の記憶が、全くない。
ただひとつ、知らせを聞いて、父と母と、田んぼの側の小道を登った記憶がある。私は、駆け登って行った。後ろを振り向くと、父と母の姿が見えない。
私は、駆け登った道を、また下に引き返した。
母は、少し歩いて立ち止まっていた。父が、後ろから、母の肩を抱き上げるように、支えていた。
母が、両脇の草を掴んで、座りこんだ。
父も、しばらく、その場から、動かなかった。
立ち上がりながら、声を出して母は、泣いていた。
生まれて初めて、母の泣く姿を見た。


茅葺き屋根、黒光りの屋根の梁組、
囲炉裏には、朝になると、火が入る。
爺やんは、〈パチパチ〉と弾く無数の枝の、囲炉裏端。
正面に座って、火の守をする。

隠居部屋の囲炉裏端。爺やんは、
ひとりになった。





菜菜子の気ままにエッセイ   

2009年09月19日 | Weblog
留守番生活、23日目!ただ今、21時30分!今日も行進、頑張ります!
中学時代の同級生の数、103名!
その中で、ずーーーと祖谷で暮らしているのは、2名だと思います。2名の中の一人が、私です。
今は、廃校になってしまいましたが、祖谷分校という、池田高校の農業科がありました。私は、その高校を卒業し、今に至ります
早い話が、エッセイの話の中で、父親が息を引き取るシーンが、ありましたね。あの時の、12才のガキの決意を全うし、そのまま、おばさんになってしまったと言う、寸劇?じゃなく、現実です。
『あなたはいつか後悔します。あなたの人生は、二度とないのよ!親の犠牲になってはイケマセン!悪い事は言いません!祖谷から出て、〇〇高校を出て、立派に成りなさい!』
と昔、叱咤激励して下さった、恩師様。

ありがとうございました。

私、後悔していません!
何故なら、今になって考えたら、何が立派か?だなんて、本人のモノサシで決まるからです。
私の思う『立派な人』と、その他、モロモロの職業の方々の思う『立派な人』とは、全く価値観が違うからです。
ちなみに、暇なんで、『立派』という字を国語辞典で、調べてみました。
さあ~、山のブログがナゼカ、ひとつき限定!の『みんなでお勉強コーナー』
みんなで、お勉強して、立派な人に成ろう!

『立派』とは
①堂々として見事なようす
②すぐれているようす
と書かれています。
これは、やっぱり、私からみれば、祖谷に住み続ける、肥刈りに勤しむ、『老婆の方々』!でしょう。
家の中では、顔色が悪いのに、畑に出せば、地を這う、妖怪のように、生き生きとします。
同一人物か?
と疑いたくなる、身のこなし!

場所は、いつもの叔母さんのお友達の広ーーい、茅畑。暑ーい日中
茅を刈っている、お友達に、叔母さんは用事ができ、私が軽トラに乗せて、いざっ、同行!
『これ、持っていてやるのよ。』
と叔母さんは、手に小さーなヤ〇ルトを持っています。
合計4本!
〈叔母さんと私の分も入れて〉

目の前に広がる、山、山、山

束ねた茅!刈ったばかりの茅!さらに拡がる茅、茅、茅。


の中に埋もれるように二人の老婆。

前略、私は黙って叔母さんの後ろを付いて歩いているだけです。


『おった、おった!やりよるかえ~』

『まあ~、こんがなとこまでこいでも、わたしが、降りていくのに~』

『……』

『ネエサン、足きいつけな、ガイにシシ、悪いことしとるぞよ~』
『……』


『まあ~、菜菜子さんも気の毒なのうや~、見てくれえや、荒い事、穴掘っとろ~』

「うん、スゴイナ!」爽やかに笑う菜菜子
『これ、持ってきたぞよ~♪』
ヤ〇ルトを、高々と上げて、振り回す叔母さん!意気揚々!


『まー、気の毒な、これはおご馳走じゃあ、ありがとうゴザイマス~』


隣で地を這っていた、老婆が、私に気付く。彼女とは、数年ぶり!

『まあ~、〇〇やんの娘さんかえ?、お母さん、元気にシヨルカエ?』

菜「はいっ、ありがとうございます。もう亡くなって、七年です。」

『まあ~、ソウカエ~、知らなんだわ~』


『菜菜子さんは、ムコさんも死んだんぞよ!今おるのは、犬びゃあじゃわ~、のうや~』

祖谷弁のオンパレード!
通訳するのは、面倒くさいので、パス!
『……』は、
叔母さんの無言。
早い話しが、聞こえていない!!!!

最後の会話なんて、都会のアスファルトの住宅街で、言われたのなら、問題発言にも、成り兼ねません!
『この人は、母親もご主人も亡くなって、犬だけが残ったのよ、おー、ホッホッホー!』
なーんて、会話に近い。

しかし、場所は自然のど真ん中!
風は、心地よい山風!
茅、茅、地を這う妖怪?じゃない、老婆!
まったく、楽しく、笑い合えるから、不思議。悪意のない、澄み切った彼女の言葉は、ただ、愉快!

ヤ〇ルトを、チョビチョビと飲んだ老婆三人!
散乱するヒモ、カマ、茶瓶、湯飲み!
いかなる菌も、関係ない!


今日は叔母さんへの一言。
『補聴器は、今買わなければ、いつ買うの』
明日から彼岸エッセイです。
彼岸に向けて 合掌ー




菜菜子の気ままにエッセイ   

2009年09月18日 | Weblog
お留守番生活、22日め!
早いものですね。
〈毎日行進!今に足の裏、タコデキルわ~毎日は、続かんだろう~〉と心配して下さった方々、
ありがとうございます。
途中から、訪問して下さった皆様、
このブログは、
『急性肝臓ガンと綱引きに於ける因果関係を立証』したり、
『金銭感覚が鈍い母娘の招いた相続失敗例』を実証したり、
『40年前に三嶺に登り剣山を越える!エエ山たいっ!と叫んだオッサンの水筒は子供のだった!』などと、いうお笑い系ではありません。
あしからず!


エッセイに夢中になり過ぎて、肝心な祖谷の「歳時記」をお伝えする事を、忘れていたわけではありません!
がほぼ忘れてました。ゴメンなさいね。

『ゼェ~ゼェ~』
とゴンの嬉しそうな?声を聞きながら、毎日の散歩コース。
エッセイでも登場しました、〇石土建のおっちゃんの、ひ孫にあたる小学生のヤンチャ?少年、かわいいです。
私に、磁石がついているのか、近寄ってきます。
私と歩くゴンを見て、一言、叫びました。

『あ~~、ちっちゃくなってる~!』

ヘルペスの老犬柴犬を見て、ストレートに言いました!
返す言葉も、ありません。

そして、今日、
ゴンが散歩途中で、水を飲んでいると、ガキいやっ、少年が近寄って来て、一言。
少し、真剣な顔で、聞いてきた。

『なあ~、おばちゃん、おばちゃんとこにおった、おっちゃんはどこへ行ったん?』
「おっちゃん?」
『おばちゃんの家の前で、いっつもおった、おっちゃん!』
「あー、おっちゃんは死んだよ」
『あー、それでおらんようになったんかあ~』
ストレートな質問、
返す言葉も、ありません。
同じ言葉でも、大人に言われるのと、子供から聞かれるのは、随分違います。
それは、子供には悪意と、余計な干渉がないからです。
生まれたばっかりの、言葉です。

少年達が、大人になった頃、
私は下界か?天界?
彼らが、故郷の事をいつか作文に書く時があったら、こんな風に、書くのかな?

『僕の家の近くに、死にそうな茶色い犬を、毎日連れて歩く、おっちゃんが途中から、いなくなった、独り言の好きな、綺麗なおばちゃんがいました。ミミズを探していると、おばちゃんが必死で、花壇を掘りました。三匹位でてきたので、「もういいよ~」と言ったのに、おばちゃんは聞いていなかったのか、僕達がいなくなっても、花壇をぐちゃぐちゃに、掘り返していました。とても、綺麗なおばちゃんでした。』


今、祖谷の風景は
肥刈りと、そばの花と、イキナリ咲いた彼岸花!
コオロギの声。


最近、家の壁に潜む、
ネズミの声。

気温は、一気に朝晩が冷え込み、
上着、必ず持参して、遊びに来て下さいね。星も、キレイな季節ですよ!


今日の若者への一言。『相続権、拒むな!怯むな!ゼニ1番』

彼岸に向けて
合掌。



追憶 (最終章) 父への贈り物

2009年09月17日 | Weblog
ひとつき以上が過ぎた。慌ただしい日常の中で、私は心のどこかで、諦めていた。叔父さんによって、繋がっていた「故郷」だったと諦めていた。そんな時、納骨を終えた叔母さんから、葬儀のお返し物が届いた。私はすぐにお礼の電話をかけた。
最愛の伴侶を失った叔母さんの声は、今まで聞いた事のない、弱々しい声だった。そして、何よりも、歳月の流れが、そこにあった。
ある日、叔母さんから祖父の十七回忌を、今年営むとの、知らせが届いた。
いつも電話を切る時に、
「家族で遊びに来なさい」と言ってくれていた。
私は私で、父の二十五回忌を控えていた。
私は、迷わずに、叔母さんに相談した。
「父の法事を、唐津で一緒にさせて頂けませんか?」
叔母さんは、ひとつ返事で、心よく承諾してくれた。

『父は再び、故郷に帰れる』
私の唯ひとつの夢が、今、叶おうとしていた。


平成十年十一月末、
十六年ぶりの再びの故郷に。
私はあの日の父のように、中学生になった娘達二人を、連れて帰る事にした。
主人は、
『ゆっくり、三人で行ってこい』
と言ってくれた。
正直、体調のすぐれない主人を遠出させる事に、一抹の不安はあった。

家を出る朝、
仏壇から、父のお位牌を下ろし、真っさらな風呂敷にそっと包んだ。
大きな、リンを鳴らして、大きな声で父に言った。
『父ちゃん!帰るよ!一緒に唐津に帰るよ!ついてきなよー』


娘達と、三人の家族旅行。

新幹線、そして博多、乗り換えて、汽車。

唐津に差し掛かると、汽車の窓から、少しずつ海が広がった。
沈みかけた、太陽の雫を浴びて、父の愛した、青い青い海が、輝いていた。私は、バックの中から、そっと父の位牌を取り出し、窓際に置いた。
娘達が、私を見て、ニンマリと笑った。


父の生家は、区画整理とともに新築され、道路も広くなり、昔とは随分様子が変わったと、叔母さんから、聞いていた。

夕方、唐津駅に着いた。タクシーを降りた。
娘達は、少し不安げだった。
私は、旅行かばんを両手に持ち、ある一軒の家の灯りに向けて、ゆっくりと歩き始めた。不思議な感覚だった。迷いはなかった。
真っ直ぐに、歩を進めた。
表札を確認した。

「駅から電話かけてくれたらよかったのに、家が、よくわかったなあー」
叔母さんは、びっくりしていた。

私達は、叔母さん達家族と、叔父さんの生前の話しを、沢山聞いた。叔父さんが、私をとても心配していたこと。話しは、尽きなかった。
時間は、瞬く間に過ぎた。
叔母さんは、二階の部屋に、布団を出してくれた。
布団が三組、枕が、みっつ。
娘達と、川の字になって、天井を見た……。「感無量」
それ以外、何の言葉も浮かばなかった。

翌日、
二十人程の、親戚が集まった。
私達を、誰もが、歓迎してくれていた。
高齢の方が、一人、父を知る唯一の、方だった。
私を見て、何度も何度も、頷いて泣いていた。私も、言葉に出来ない熱い思いに、自然に涙が頬を伝った。

今でも可笑しい想いだす。
お経が始まる前に、叔母さんが、父の位牌を私から受け取り、祭壇に置いた。
祖父のお位牌と、父のお位牌は、余りにも高さが違い過ぎた。
本家のお位牌は、立派だった。少しだけ、心の中で、父に詫びた。
晴天白日、
窓からは唐津の風、
静々と、流れる時間。
祖父と父の高さの違う、
並んだ二つの位牌を、お経が包んでいく。
時折、聞こえる九州弁が、父にはお経以上に、浸みる筈だ。

光陰矢の如し

人生という名の、頂上を目指し、そこに到達し、導かれたすべての生命に手を合わせ、永遠の風になる、そして、空に還る。
それが「生ききる」
ということ。

『人間は最後に笑うたもんが勝ちたいっ!』父ちゃん、
どうだ、笑ったでしょう!
最後には、笑えたでしょう。

『よか、人生!』
だったでしょう。
父ちゃん
大好きだったよ
父ちゃんー







追憶 兄と弟

2009年09月16日 | Weblog
祖父亡き後も、縁の糸は繋がったまま、深く結び付いていった。叔父さんから数回、便りが届き、毎年、叔母さんは、お手製の「粕漬け」を送ってくれた。
数年、お互いに声の便りを届けながら、何か届く度に、父にお供えした。
そんな時は、いつもより力強く、お仏壇のリンを鳴らした。

お礼の電話をかけると、いつも真っ先に叔母さんが出る
次に必ず、叔父さんと話す。
後で、叔母さんに聞いた話によると、テレビで四国や、祖谷地方と流れるたびに、叔父さんは、画面を食い入る様に見つめながら、
「あの、近くに住んでいるのか…」
と、話していたと言う。
私も私で、テレビで『唐津』の話題が流れたり、九州ナンバーの車を見つけると、胸がワクワクしたものだった。
数年の間に、父の弟、妹も、亡くなっていた。皮肉にも、莫大な遺産を手に入れた、二人は、病気で呆気なく、この世を去った。手に入れた敷地を、手入れに出掛けても、〈後には売却〉本家の叔父さんを訪ねる事は、なかったそうだ。
今でもふと思う。叔父さんが私の事を大切にしてくれたのは、私が遺産を放棄したからではなく、叔父さんは、そんな私の中に、私の父を見たのではないだろうか。
腹違いの兄弟だとしても、他人には入る余地のない、深い愛惜の念がある。


叔父さんとの別離は、すぐ側まで、来ていた。
平成八年、十二月一日、
大雪が降った早朝、
唐津から訃報が届いた。
叔父さんが、急逝した。
事故だった。
その日は、祖谷に数年に一度降る位の大雪で、町まで出かける事も出来なかった。

私は、葬儀にでる事を、断念した。
ありきたりの、電報を打った。
余りにも突然の別れに、涙も出なかった。


「あー、もしもーし、〇〇〇~元気にしちょらしたかばい!」
その声の便りは、二度と届かなくなった。

心の奥の深い谷間で、故郷が壊れる音がした。