「さっきは、上手く切り抜けられたわね。校長先生かぁ~まさか、父親の職業を訊かれるとは想定外だったわ~」
美香さんは、ハンドルに両手の甲を乗せて、チョコレートの箱から残りの一個を取り出していた。
「危ないですよ…前…殆どハンドルに触ってないですよ…」
僕は助手席から、ヒヤヒヤしながら前方を見ていた。
美香さんはチョコレートを口にいれて、その空箱を僕に渡した。
「記念に取っておいてねっ」
「空箱ですか?」
「そうよ、私は思い出の品はいつも大事にとっておくのよ。お婆さんになった時に思い出せるように」
「認知症になったら、思い出せないじゃないですか?」
と僕が真顔で訊くと、
「その時は子供達が、処分してくれると思うわ。ゴミとしてね」
「ゴミですか…」
「そう、形見分けで誰かに頂いた物も、いつかは貰った当人も死ぬからね、ゴミを眺めて暮らしているようなものよね。
物に執着するのじゃなくて、思い出に執着するのよね。人間って」
「森田くんが、さっきついた嘘は、絶対にばれないけどね、私は市内に祖谷出身の同級生とか
先輩とかが近くに住んでいるから、私の私生活なんか、全部村に筒抜けよ。大阪にも同級生がいてね
その人も近くに同級生がいてね、近況報告なんてしなくても、全て同級生が、ネットワークで流してくれるから
市内とか、大阪とかに住んでいても、なんか、煩わしく感じることがあるのよ」
「大阪に住んでいてもですか?」
「そうよ、だから森田くんのお母さんは、故郷から遠い遠い東京を選んだんだよ。賢い選択だったと思うよ」
「ありがとう…ございます」
「なあに?そのありがとうございますって。うけるわ~」
「お母さんの生家も見たし、お墓参りも出来たし、とりあえずは目的達成ね。
あっ…と父親探しは無理かも知れないね。今のところお母さんと接点があったのは
その高知の行商の住所不定の妻子ある人くらいだもの。で、私の父親も少し面識はあったかも知れないけど
父は絶対にそんな間違ったことをする人ではなかったからね。論外だよっ!絶対の絶対に関係ないからねっ!」
「はい…美香さんのお父さんだとは、僕も思っていません…」
「本当に偶然よね、私の父の名前の一文字と森田くんのお母さんの一文字で、智志だなんて」
「そうなんですか?」
僕は美香さんの横顔を見た。
美香さんはチラッと僕を見て、呆れたような顔で
「もしかして?鈍感?」
「え…と似たようなことを、高校の時に彼女に言われました」
僕は膝に乗せた両手を、擦ろうとして、咄嗟に拳を握ってズボンの上から太ももを思い切りツネって「痛っ」と声を出してしまった。
美香さんは大笑いしながら、スピードを上げて行った。
「八月に二人でお母さんの初盆しようね。私も父の初盆があるからね。私も身内にちょっと看病したい人が出来たから
岡山に数ヶ月蒸発するからね、暫く祖谷には、帰れないから。それまで会えないけど、また時々は連絡してね」
「美香さん…ありがとうございました。今度会う時のお土産も、やっぱりチョコレートでいいですか?」
「そうよ。チョコレートはナッツとか混ざってない、純粋のチョコレートにしてね。
チョコレートは、チョコレートだけで勝負するの」
美香さんのチョコレート愛には、何か理由があるように思ったけど、詮索するのは止めようと思った。
僕は美香さんの車に、阿波池田まで同乗させて貰った。急行の発車時刻まで、数時間あったから
地元の三好市に少しでも貢献したくて、少し伸びすぎた髪を切りに、町の中を散策した。
駅前通りから信号を渡り、うだつの町並みを抜け、右に曲がると、信号機の手前に理髪店のサインポールが見えた。
中を覗くとお客さんが座っていて、引き返そうかと迷った時に、すぐにお店のご主人が僕に気づいてドアを開けてくれた。
「見慣れない方ですが、どちらから」と訊かれ、「ご先祖様のお墓参りに祖谷に行って来ました」と応えると
ここのご主人のお母さんも、祖谷出身だと聞いて僕は偶然は必然なんだと、思った。
「また、来てもいいですか?」
と帰り際に言うと、
「また、帰って来て下さい」と顔を綻ばせてくれた。
店の奥で優しそうな奥さんと、猫を抱いたお母さんが並んで僕を見送ってくれた。
うだつの上がらない36才の男は、うだつの理髪店で、優しい人に出会えた。
猫の名前は、マーロンだと教えてもらった。
石鹸の懐かしい匂いに包まれて、僕は東京へと帰って行った。