秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

菜菜子の気ままにエッセイ   SANE著

2007年08月15日 | Weblog

八月十四日、朝5時30分家を出発。主人の眠る集落のお墓に向けて車は、祖谷の曲がりくねった山道を走る。渓谷の川は、静けさをとりもどし悠々と流れている。まるで、白い大蛇がこちらに向かって、這っているようにも見える。白い水しぶきが、幾つもの曲線を描いている。遠く剣山の方角の山々の空が、朝焼けに輝いている。ひとつ、二つ、三つ、淡く燃えたつようなオレンジ色は、盆を迎える新しい魂の発しているシグナルのように、煌々と光りを放している。主人の気配を空に感じながら、位牌を持つ娘の顔をミラーで確かめながら走る。30分で、主人のもとに到着する。丁度村のスピーカーから6時の鐘が流れる。目の前に広がる、折り重なる山々の緑が、朝方降った雨に鮮やかにその姿を見せ付けているかのように、静かに動かない。霧が流れていく。一瞬、対岸の民家が姿を隠す。廃墟さえ、その存在を誇示するように、霧の合間の風景は水彩画の世界にかわる。私は、この時間が一番好き。近くの親類が集まり、祖谷の風習のもとに、主人の初盆が始まる。お墓の前に、四本の竹を組んで作った棚。先日主人の友人が作ってくれた。雨の雫が竹の葉先に、しがみついている。
おこした火の中心に集めた竹を一本ずつ、沈めていく。小さな炎が生まれる。やがて炎が大きくなっていく。八月一日から主人の仏壇の横にお供えしていた、松結わいを炎の中に置く。松の木を割って、10センチに切った2センチ角のものと、みつまたの木の10センチに切った枝を、合わせて結わい、煩悩の数、百八つの二年分を燃やして仏様を供養する。竹の節が大きな音を起てる程、供養になると伝えられている。解釈の仕方は、集落に依って若干違うかも知れないけど、仏様を純粋に迎える現世の者達の気持ちは、同じだと思う。「死」を持ってこの世での全ての邪念を終わらせているように思うのに、仏様となっても煩悩の数を燃やす。奥深く過ぎて、今の私ではまだまだ悟ることが出来ない。日本の宗教はつくづく意味が深い。竹が「パンッ」と高く鳴り響く。怯んでいた足元を思わず引っ込める。数回、竹の鳴き声を聞きながら、去年の八月十四日、主人と何をしていたのか、想いだしていた。一年後の今日のことなど、誰が想像できただろう。もうすぐ、十ヵ月。毎日主人の気配を探してきた。炎はやがて小さくなり、灰に変わろうとしている。「カチッカチッ」と小さな音が消えかけた灰の中から聞こえる。少しずつ灰の形が小さくなる。荼毘の時の主人の火葬の後に聞いた抜け殻から発した最期の音。「カチッ」「カチッ」同じ時間の空間を感じた。初盆の儀式は恙無く終了した。遥か山々を携帯の画像に取り込みながら、娘達がはしゃいでいる。互いに想うことを、決して言葉にすることもなく、帰りの車に乗り込む。「絆」だけを互いに感じながら、私はアクセルを踏み込む。霧は流れ去り、くっきりと対岸の山々が青い空に抱かれていた。
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