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秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

冬の風景 夜話

2009年12月05日 | Weblog
戦後まもない食糧難に嫌気がさして浪花の大都会から芋食を腹いっぱい
食べたいがため、東祖谷に飛び込んだX線技術者夫婦の活躍を紹介しよう。


X線技術者の落人生活     平井 正雄著  抜粋

「深山幽谷とはここを指すのであろうか」昭和23年3月、大都会の騒音のなかで
育った私は妻と共に京上の土を踏んでこう思った。
朝から晩までほこりと音響に疲れ、食生活にノイローゼになっていた私どもは安堵の
感が湧いてきた。
ここの診療所のX線技術者になろうとは夢想だにしなかった、運命の神様の悪戯だったか
いや、正直いうと食生活へのあこがれだった。闇買いに悪鬼羅刹とならうより、のんびりと三度の芋食で腹を膨らましたいといったその頃の都会人が持つ共通の具現であった。

ある夜のこと「こんばんは」と眉目秀麗の青年が訊ねてきた、徳さんで通る中学の先生
である。徳さんは話が弾むと親指と中指で額を挟む癖があり先ほどから何十回となく
挟んだり外したりしていたがやがて「楽団をふくんだ軽演劇団を作って山の人たちを
あっと云わそうじゃあないか」と瞳をキラキラさせていった。

この山に来て日が浅い私は、戦い敗れて惨めな国に愛想をつかした青年が拠り所の無い
心の空虚へ何かを充たそうとあせっていることが映っていた。
「面白いわね、わたし断然賛成よ」と妻はわたしが云おうとするところを万事引き受けた
ような顔で、編み物の手を休めて答えた。
そこへ「こんばんは、平井さんお茶を一杯くれんかい」と「光ちゃん」で通用する愉快な
青年がはいってきた。四者会談のすえ、話は纏まって実行の一歩を踏み出した。

当時落合集落で郵便局長の大上さんをリーダーとする渓流連盟という団体があって、楽団の編成が進んでいた。徳さんはこの落合と京上を一つに併せた音楽同志会を結成した。

会の名を祖谷文化協会と改めて会長は徳さん、副会長は大上局長と私、企画は徳さんの弟
芳文さん、阿佐正勝村長を顧問に、河井岩夫、庄司為市、木村唯夫、松原秀一さんといった人々が大変な力の入れようで、いまも忘れられない。

疎開してきたヴアィオリニスト松村淳先生が応援に駆けつけてくださるし、ときおり
商用で入山する楽器なら何でもOKという重宝な人、栃の瀬出身の鳥首さんも参加して
まずは楽団の編成も出来、吉田豊、田辺猛、曽我部露子さんたちが、歌手となって
ヤンヤの喝采をはくす役となり、おまけに久保で開業している婦人科医の松原先生までが
「赤いリンゴに唇よせて」を希望する盛況であった。

村民は「おれのへぜひどうぞ」といった引き手あまたで、菅生から和田まで夜に
昼にと駈けずりまわった。
歌に寸劇にと演じて村民を喜ばせた団員は、演劇が終わると深夜の渓谷沿いの道を
三々五々と我が家に帰ってゆく、1銭の報酬も受けなければ一椀の食を求めてもない
みんな黙々と与えられたキャストに忠実であった。

このような企画と実施が村の人々の心をなごやかにし、青年の荒んだ気持ちを矯正
したことかわからない。
とにかくみんなが喜んでくれたことだけは事実であった。村の人たちは「若い人に
こんな犠牲を払わせてはすまん」とばかりにご祝儀が集まって、私のメモを取り出して
みると、後援資金 1万3千3百二十円也、支出 9千4百6拾円也とある。

25年に私はこの村を去って浪花に帰ったが、再び徳島に戻って、いま、地形も祖谷に
似る那賀川渓谷の宮浜に仮寓している。
夜になって山の斜面に点々と明かりが灯ると妻は云う「よかったわね、祖谷に居た頃は」
浪花から来た夫婦ものは、祖谷びとの人情の濃やかさに惚れ込んでしまったからである。

発行者 祖谷刊行会、徳島県文化財専門委員会  書物 「祖谷」 昭和31年発行




菜菜子さんの携帯写真 久保 クヌギ林も冬枯れて
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