川越雑記帳2(川越見て歩き)

成田山開山の墓は中院に/生前の日づけ亡き師の碑文(中院)

成田山川越別院の山門前にある説明板の一部を再録する。
成田山川越別院(なりたさんかわごえべついん)
              所在地 川越市久保町
(中略)
 当寺は、江戸時代も末の嘉永(かえい)六年(一八五三)、ペリー
が黒船を率いて浦賀に来航した年に、下総の国新宿(にいじゅく)(現
葛飾(かつしか))区)の石川照温が、廃寺となっていた本行院を成田山
新勝寺の別院として再興したのが始まりといわれている。石川照温については、次のような話が伝えられている。
 農家に生まれた石川照温は、三十歳の頃に目が見えなくなってしまった。光明を失くした照温は、ある日のこ
と自ら命を絶とうとしたが、その時不思議なことに光を失った眼前に不動明王が見えたので、にわかに仏道に目
覚め、それまでの生活を改めるとともに、有名な成田山新勝寺のお不動様を熱心に信仰するようになった。
 そのかいあってか、失明した目もいつか昔のように見えるようになったので、いよいよ仏道に励み、当地に寺
を建立し、多勢の信者から慕われるようになったとのことである。
 なお、照温の碑が、近くの中院墓地に建てられている。
  昭和五十七年三月
                川 越 市

本文の最後に、「照温の碑が、近くの中院墓地に建てられている」とある。

なぜ中院にあるのか不思議な感じがしたが、確かに中院の墓地の入口にあった。
石の柵で囲われた中にやや大きな石碑が建っている。
その柵の外に立て札があり「成田山川越別院 開山上人之墓」と書いてある。


石碑はほぼ三角形の石で、高い台座の上に乗っている。
上の円の中に書かれているのは梵字だろうか。


その下が碑文で、漢文で書いてある。
漢文だが、楷書ではなくくずし字で書かれている。
漢文というだけでも読みにくいのに、さらに文字がくずされているのは見た事がない。


それでも一応解読に挑戦してみた。
前半はなんとか文字にできたが、後半は読めない字が多く虫食いのようなってしまった。
したがって、内容はほとんど分からず、保留したままになっている。

この碑文の最後を見て、疑問が出てきた。
そこには、つぎのようにある。
「 明治己卯十二年十一月下澣
     下之□列成田山新勝密寺住職
      少教正原口照輪撰并書 」

石川照温は文化2年(1805)に生まれ、明治21年(1888)2月8日に84歳で没している。
碑に書かれている明治12年(1879)11月は、まだ照温が生きていたときである。

また、原口照輪は、成田山川越別院の開山堂前の石碑に、
「成田山新勝寺の貫主原口照輪大阿闍梨に就いて灌頂を受けた」
とあるので、照温の師にあたる。
原口照輪は成田山中興の祖といわれた人で、文化12年(1815)に生まれ、明治15年(1882)11月、67歳で亡くなっている。
照輪は照温より10才ほど若いが、先に亡くなっていることになる。

したがって、この碑文は石川照温の生前に書かれたものである。
碑文の内容が分かれば良いのだが、今のところ見通しはたっていない。

中院では江戸彼岸や枝垂桜が咲き始めたようのなので、この碑文の解読は、当分後回しになりそうだ。

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