橋の下部は青に塗られ、川の水面にも薄く青い影を落している。
貝塚橋を渡ったすぐ先の交差点の角に「小仙波貝塚跡」がある。
貝塚橋の袂に石碑が建てられている。
石碑は歩道沿いの青フェンスの中にあり、新河岸川の下流の方を向いている。
そばに「小仙波水理組合管理地」の看板がある。
石碑は歩道より少し下にあるが、歩道からでも上部は少し見上げる位置にある。
上部には「記念碑」と大きな文字があり、脇に「星東居士」と彫られている。
その下の碑文には、つぎのように刻まれている。
夫れ農地は食糧の母体である母体が健全でなくては食糧の増産は
おろか優良の品種も望み得ない乃ち近時土地改良と言ひ耕地整理と
唱へて盛に之が叫ばれる所以である 抑々川越東部耕地整理組合は
昭和二十年六月三十日を以て設立認可を得て川越市小仙波大仙波岸
の三区と高階南古谷及び古谷の隣接三箇村の西部とを合せて計二千
零七十九筆百七十七町二反八畝九歩の水田耕地整理事業に着手した
処が時方に大東亜戦争の終りに近く空襲の煩数に怯えて工程停頓す
ること幾度か加之其の間資材の入手困難ばかりでなく其の昂騰は人
件費労銀と伴ひ当初の予算額は全く問題とならない情勢になつてあ
らゆる苦難に堪へ窮乏と戦ひながら漸く昭和二十六年四月工事完了
同二十七年七月組合解散の運に到つた 今や田面画然道路水路整然
赤間川縁には揚水機場を四ヶ所に設けて一毛田は二毛田と化した事
は即ち是れ食糧の母体改良事業を達成したもので一に組合員の一致
協力と役員の献身的奉仕の賜である依て今茲に碑を建て文を勒して
永く此の事業の記念とするものである
昭和二十七壬辰年七月 岩澤新平撰併書
本文の後から4行目にある「赤間川」とは今の「新河岸川」のことである。
フェンスの脇から中に入ることができる。
石碑の裏面は逆光で見にくいが
川越東部耕地整理組合役員 組合員三百九十名
とあり、その後に多くの人の氏名が彫られている。
その最初に、
組合長 岩澤新平
の名前がある。
組合長が撰文と書を自ら行ったようで、かなりめずらしい。
石碑の下部には苔が生えているが、その上に小銭が置かれていた。
信仰の対象にはならないと思うが、誰か勘違いした人がいたのかもしれない。
この石碑が建てられた昭和27年(1952)頃、この辺りは水田が拡がっていたのだろうか。
今この碑から東を見ても、高架の道路や建物があるだけで水田などは見えない。
高架が見える所は国道が交差しているが、その先へ少し行くと水田が見えてくる。
その水田地帯にも徐々に建物が増えてきている。
耕地整理記念碑はここだけではなく、東部には数多く見ることができる。