これは昨年の秋に撮ったものだが、小山のような櫓跡はほぼ樹木で覆われている。
手前に見えるジグザグの階段は、老朽化が激しく、大分前から通行止めになってる。

その階段の左下に、埼玉県の立てた説明板がある。

その説明板には、次のように書かれている。
富士見櫓跡(ふじみやぐらあと)
所在地 川越市郭町二丁目
御嶽(おんたけ)神社が祀られているこの高台は、かつては川越城
の富士見櫓が建てられていたところである。
櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは
防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられ
た建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北
の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱(ひし)櫓、西南の隅に三層の
富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見
櫓が天守閣(てんしゅかく)の代わりとなっていたと思われる。
今日では木々や建物のため、すっかり眺望も失われて
しまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名
の通り遠く富士山までも望めたことであろう。
元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、
その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は
分からないが、江戸末期の慶応(けいおう)二年(一八六六)に川越
城を測量した時の記録によれば、この富士見櫓は長さ八
間三尺(約十五メートル)、横八間(約十四メートル)あ
ったと記されている。
昭和五十七年三月
埼 玉 県
この写真は、先ほどより少し前、彼岸花が咲く頃に撮ったので、樹々がまだ青々としている。
「川越城富士見櫓跡」の石碑が立つ所から、上を見上げると大きな石碑が見える。

その石碑の右に階段があり、その上が頂上だが、今はなにも建っていない。


石碑の左下に白い説明板が見える。

現在この場所は立ち入り禁止だが、以前に撮った写真によれば、つぎのように書かれている。
県指定・史跡
川越城跡
川越城は、長禄元年(一四五七)
に太田道真、道灌父子によって築城
され、上杉氏六代、北条氏四代の持
城であったが、当時は後の本丸、二
の丸を合わせた程度のものであった。
江戸時代になって、松平信綱が城
地を拡大し、八郭・三櫓、十二門を
もつ徳川家の親藩、譜代の大名の居
城として有名であった。
しかし、明治維新後、堀は埋めら
れ、土塁は壊されて、現在ではこの
富士見櫓の跡と、本丸御殿の一部が
残るのみとなった。
富士見櫓は築城当初に、本丸西南
の隅櫓として建てられた三重の櫓で、
城内第一の高所として天守閣の代わ
りをつとめた。
平成五年三月
川越市教育委員会
中院と同様に、埼玉県と川越市の説明が共存している。
埼玉県のものは富士見櫓について、川越市のものは川越城について書かれている。
古い階段は通行禁止だが、右側の階段は中央に手摺りがついて使いやすくなっている。

階段を上ると、いくつかの社がある。
埼玉県の説明板にある御嶽神社は、写真の左側にある石鳥居の所がそうである。
この御嶽神社の左上が、富士見櫓跡の頂上になるが、上述の通り立ち入り禁止になっている。

12月の初め、この神社で初詣の準備をしていた。
現在でも、ここにお詣りする人は多いのだろうか?
大正時代の小説だが、内木村治の「大地の園(第三部)―ロマンの門―」で、元旦に多くの人がこの頂上で初日の出を拝む様子が描かれている。
初日の出を拝んだ後、北側のがけを下り、川越中学(現在の川越高校)のグラウンドを通って氷川神社に初詣する人がいたことも書いている。
→「大地の園(第三部)―ロマンの門―」
現在、ここから見る初日の出はどんな感じなのか、そもそも初日の出が見えるのか。
周囲には色々な建物が建ち、櫓跡の樹木も成長しているので、かなり様子が違うだろう。
気にはなるが、元日にここに来るのは少しつらい。
そもそも立ち入り禁止では、どうしょうもない。
早く、立ち入り禁止が解除されることを期待したいが、当分無理そうである。