ついに、ついに、ついに、小野不由美さんの「十二国記」最新作が出版されました。
「十二国記」...それは、私が「ライラの冒険」に並ぶ不世出の傑作と思っているシリーズものです。
「yom yom」という文芸誌の一編として載ったサイドストーリー的な短編ですが、それでもよいのです。十二国記の世界を存分に堪能することができ、私は今最高に満足だーーー!!!
しかしこれだけ時間がないと言ってるのにどうやって読む暇があったのか。
いいえ、もちろん暇などありませんでした。
でも仕事以外の時間を全て読書に振り向ければ、短編の一つくらい読めるものです。
それでも、中断の連続でえらく時間がかかりましたけどね。
サイドストーリーといっても、そもそもこの作品は何が本筋と呼べるのか分からないところがあります。
同じ場所を舞台とし、共通の人物が登場してはいても、時代設定も主人公も作品ごとに違いますから。
しかし私にとって心配なのは、「十二国記」は舞台設定がわりかし複雑なので、この文芸誌でいきなりこの作品を読んだ人はまったく訳がわからないんじゃないかってことです。
たとえば記念すべき第一作『月の影 影の海』から読んでいれば、現代日本から突然この異世界に連れてこられた主人公・陽子の視点をとおして我々読者も未知の世界を徐々に知ってゆくことができるのですが、この作品では何の前触れもなく主人公は百数十年同じ職に就いているとかとんでもないことが語られて、何も知らない人はぶっ飛ぶんじゃないでしょうか。
えー、じゃ、例によって私メがお節介な解説をひとくさり。
でも多分ホワイトハートの既刊を読んだ方が役に立つ気がしますが(笑)。
まず主人公が百数十年生きているという件、これはべつにこの世界の人がおそろしく長命なわけではなく、一種の国家公務員になると原則、不老不死になるのです。
この世界で一定以上の地位の役人になることは、仙籍に入ることを意味します。つまり仙人になっちゃうのですね。
仙籍に入った途端、年をとらなくなり、外見はそのときのまま止まります。ついでに、よほどのことがない限り死にません。普通の武器じゃ倒せません。
罷免されたり自ら籍を返上したりしなければ、永遠に生きることも可能なのです。
今回の主人公・丕緒(ひしょ)氏も、その能力を認められて百数十年の永きにわたって同じ職に就いているようです。
役人が不老不死になるのは、王様も不老不死だからですね。
王になるともはや神です。なんかエジプトのアメン=ラー信仰みたいな話だな。
しかしこの世界では別に王様は信仰のよりどころではなく、本当に「一度人間として死に、神として生まれ変わる」ことで王になるのだとか。
不死の王様が暴君だったら、とんでもないことになってしまいます。
そこで、王が万一道を踏み誤った場合のみ、王は病んで退位...つまり死んでしまいます。
失敗したら死んじゃうんだよ。おそろしい世界だねえ。そこまでして王になりたくないよね。
しかし王に課せられた責とは本来それほどまでに重いもの。判断一つで、幾千万の民の生死が決まってしまうのですから。
この作品では、王たる責任の重さが繰り返し語られ、それを軽んじた王がたどる凄惨な末路が容赦なく示されます。
しかしその一方で、賢政をしいて数百年にわたって国を平和に導いている王も登場します。
名君さえ得られれば、その治世が数十年数百年と続いた方が同じ方針で国を治めてゆくことができるというわけです。
そういう優れた王様たちは誰もみな人間として魅力的です。それぞれが自分の個性にあった方法で統治しているのがよく分かります。
今回の短編の舞台である慶国は、もう長いことそういう名君に恵まれていません。
すると歴代の王は皆短命で、そのせいで国は荒れ放題です。
主人公・丕緒も百年以上におよぶ職務の中で、歴代の王の悪政によって仲間を奪われ、王に対して、国に対して絶望と猜疑を抱き、いまや自分の仕事への情熱もすっかり失っていました。
そんなおり、慶に新しい王が誕生します。
丕緒の仕事は祭事に使う品を誂えること。一種の職人です。
しかし、もはや王のために作る品など何一つ思い浮かばず、とめどなく過去を追憶しているうちに、彼の考えはある結論に達します。
丕緒はいったい何を思い、どんなものを作り上げたのか。
そして、それを目にした新王の思いがけない反応と、丕緒自身の心境の変化とは...!?!?
...とまあ、物語の詳細は文芸誌「yom yom」をご覧くださいまし♪
とはいえこの雑誌、あまりの小野不由美人気ゆえ売り切れ店続出なのだそうです!!!
書店で手に入らない場合は、ぜひ増刷を待つ間に第一作『月の影 影の海』をお読みになっておくことをおすすめします。
のちに『丕緒の鳥』を読んだ際、ラストで短いながら印象深い言葉を残す「新王」にニヤリとすることうけあいです。
「十二国記」...それは、私が「ライラの冒険」に並ぶ不世出の傑作と思っているシリーズものです。
「yom yom」という文芸誌の一編として載ったサイドストーリー的な短編ですが、それでもよいのです。十二国記の世界を存分に堪能することができ、私は今最高に満足だーーー!!!
しかしこれだけ時間がないと言ってるのにどうやって読む暇があったのか。
いいえ、もちろん暇などありませんでした。
でも仕事以外の時間を全て読書に振り向ければ、短編の一つくらい読めるものです。
それでも、中断の連続でえらく時間がかかりましたけどね。
サイドストーリーといっても、そもそもこの作品は何が本筋と呼べるのか分からないところがあります。
同じ場所を舞台とし、共通の人物が登場してはいても、時代設定も主人公も作品ごとに違いますから。
しかし私にとって心配なのは、「十二国記」は舞台設定がわりかし複雑なので、この文芸誌でいきなりこの作品を読んだ人はまったく訳がわからないんじゃないかってことです。
たとえば記念すべき第一作『月の影 影の海』から読んでいれば、現代日本から突然この異世界に連れてこられた主人公・陽子の視点をとおして我々読者も未知の世界を徐々に知ってゆくことができるのですが、この作品では何の前触れもなく主人公は百数十年同じ職に就いているとかとんでもないことが語られて、何も知らない人はぶっ飛ぶんじゃないでしょうか。
えー、じゃ、例によって私メがお節介な解説をひとくさり。
でも多分ホワイトハートの既刊を読んだ方が役に立つ気がしますが(笑)。
まず主人公が百数十年生きているという件、これはべつにこの世界の人がおそろしく長命なわけではなく、一種の国家公務員になると原則、不老不死になるのです。
この世界で一定以上の地位の役人になることは、仙籍に入ることを意味します。つまり仙人になっちゃうのですね。
仙籍に入った途端、年をとらなくなり、外見はそのときのまま止まります。ついでに、よほどのことがない限り死にません。普通の武器じゃ倒せません。
罷免されたり自ら籍を返上したりしなければ、永遠に生きることも可能なのです。
今回の主人公・丕緒(ひしょ)氏も、その能力を認められて百数十年の永きにわたって同じ職に就いているようです。
役人が不老不死になるのは、王様も不老不死だからですね。
王になるともはや神です。なんかエジプトのアメン=ラー信仰みたいな話だな。
しかしこの世界では別に王様は信仰のよりどころではなく、本当に「一度人間として死に、神として生まれ変わる」ことで王になるのだとか。
不死の王様が暴君だったら、とんでもないことになってしまいます。
そこで、王が万一道を踏み誤った場合のみ、王は病んで退位...つまり死んでしまいます。
失敗したら死んじゃうんだよ。おそろしい世界だねえ。そこまでして王になりたくないよね。
しかし王に課せられた責とは本来それほどまでに重いもの。判断一つで、幾千万の民の生死が決まってしまうのですから。
この作品では、王たる責任の重さが繰り返し語られ、それを軽んじた王がたどる凄惨な末路が容赦なく示されます。
しかしその一方で、賢政をしいて数百年にわたって国を平和に導いている王も登場します。
名君さえ得られれば、その治世が数十年数百年と続いた方が同じ方針で国を治めてゆくことができるというわけです。
そういう優れた王様たちは誰もみな人間として魅力的です。それぞれが自分の個性にあった方法で統治しているのがよく分かります。
今回の短編の舞台である慶国は、もう長いことそういう名君に恵まれていません。
すると歴代の王は皆短命で、そのせいで国は荒れ放題です。
主人公・丕緒も百年以上におよぶ職務の中で、歴代の王の悪政によって仲間を奪われ、王に対して、国に対して絶望と猜疑を抱き、いまや自分の仕事への情熱もすっかり失っていました。
そんなおり、慶に新しい王が誕生します。
丕緒の仕事は祭事に使う品を誂えること。一種の職人です。
しかし、もはや王のために作る品など何一つ思い浮かばず、とめどなく過去を追憶しているうちに、彼の考えはある結論に達します。
丕緒はいったい何を思い、どんなものを作り上げたのか。
そして、それを目にした新王の思いがけない反応と、丕緒自身の心境の変化とは...!?!?
...とまあ、物語の詳細は文芸誌「yom yom」をご覧くださいまし♪
とはいえこの雑誌、あまりの小野不由美人気ゆえ売り切れ店続出なのだそうです!!!
書店で手に入らない場合は、ぜひ増刷を待つ間に第一作『月の影 影の海』をお読みになっておくことをおすすめします。
のちに『丕緒の鳥』を読んだ際、ラストで短いながら印象深い言葉を残す「新王」にニヤリとすることうけあいです。
感激です。ならば早速手を取り合って病に倒れましょう(←失道すな)
壱、私は氾王&氾麟が大好きです。おお、このどマイナーな趣味、同好の方でもなければ通じまい。
尚隆さまとの掛け合い漫才もたまりません。氾王には絶対、10年後の早乙女太一君を推します。
弐、尚隆さまは金城武さんキボンヌ。というより彼を見ると尚隆さまにみえてなりません。
参、景麒のキャラは原作でもわりかし好きですが、妄想が暴走ぎみの二次創作上の景麒くんの方がさらに好きです。
なぜみなそんなに彼を変態にしたがる.....。あのマジメボケっぷりに妄想欲が膨らむのか.....。
ちなみに私がバカを莫迦と書くのは完全に小野先生の影響です。