2024年4月6日(土)
#366 ジージー・ヒル「Down Home Blues」(Malaco)
#366 ジージー・ヒル「Down Home Blues」(Malaco)
ジージー・ヒル、1982年リリースのシングル・ヒット曲。ジョージ・ジャクスンの作品。トミー・カウチ、ウルフ・スティーブンスンによるプロデュース。アルバム「Down Home」(82年)に収録。
米国の黒人シンガー、ジージー・ヒルことアーゼル・J・ヒルは、1935年テキサス州ネープルズ生まれ。20代でゴスペル・グループ、スピリチュアル・ファイブに参加して、プロのキャリアをスタート。ダラスやその近辺のクラブで、バンドのフロントマンをつとめていた。
その頃からのジージー(Z.Z.)というステージ・ネームは、かのB・B・キングにならって付けたものだという。
スター歌手オーティス・レディングがそのステージを観て、ヒルにレコーディングを勧める。兄のマット・ヒルがレコード・プロデューサーをつとめる、ロサンゼルスのMHレーベルより64年に最初のシングル「You Were Wrong」をリリース。
この曲が全米チャートインしたことでケントレーベルと契約、シングルとアルバムをリリース、メジャー歌手への道が始まる。
とはいえ、ケント時代にはヒットが出ず、カプリコーンレーベルに移籍、そこでも芽は出なかった。マンカインドレーベルを経て、再びロサンゼルスへ戻る。
そこでシングル「Don’t Make Me Pay for His Mistakes」を71年にリリースしたところ、ついに全米62位、R&Bチャート17位のスマッシュ・ヒット。この曲で、ジージー・ヒルの名が米国中に広まったのである。
以降、いくつかの曲をチャートインさせる。70年代はアルバムもUAレーベル、コロムビアレーベルなどからコンスタントにリリースして、時にシングルもヒット、活動を続けていくが、次第に低迷期を迎えるようになる。
79年にコロムビアの本拠地ニューヨークから離れて、ミシシッピ州ジャクスンのマラコレーベルと契約。これが功を奏して、80年代はもっぱらこのレーベルで活躍することになる。
その最大の成果が、本日取り上げた、82年のヒット曲「Down Home Blues」だ。
マラコでの最初のヒット曲は82年リリースのシングル「Cheatin’ in the Next Room」という不倫を題材にしたバラード・ナンバーだが(R&Bチャート19位)、この曲を作曲したシンガーソングライター、ジョージ・ジャクスン(1945年生まれ)に再び依頼して作られた、ブルース・ナンバーが「Down Home Blues」。
ブルースといっても、ヒル流のソウル感覚に溢れている、いわばブルーズンソウルなナンバーだ。ちなみにジャクスンは日本でもヒットしたオズモンズの「One Bad Apple」の作者でもある。
これが連続ヒットしたことで、2曲を収めたアルバム「Down Home」は大ベストセラーとなった。
全米で209位まで行ったのも、ブルースのレコードとしては極めて異例なのだが、本当にスゴいのはそれが最大瞬間風速的なヒットではなく、コンスタントに売れ続けたということだ。なんと2年近くチャートインしており、アルバムの売り上げ総計は、50万枚以上だという。
マラコというローカルレーベルにおいては、80年代、会社を支え続けた大ヒットであったのだ。
この勢いをかりて、ヒルは83〜84年にアルバムを3枚もリリースする。もちろん、いずれも好セールスを記録している。
このシングル連続ヒット、アルバム連続ヒットにより、ヒル自身の人気や評価も復活して、ヒルの黄金時代が続く…かに見えた。
しかし、好事魔多し。84年2月のツアー中に自動車事故に遭い、その後遺症で4月に亡くなっている。享年48。これからのさらなる活躍が期待されていただけに、本当に惜しい死であった。
さて、長々とヒルの生涯を紹介してしまったが、その一生を一曲に象徴しているのが、この「Down Home Blues」だろう。
ブルースそのものがテーマの、ブルース。
Down Home(ダウンホーム)とは南部風、素朴で気取らない、飾らないという意味の英語表現。
タフで少しハスキーな歌声で、「彼女は一晩中、ダウンホームなブルースが聴きたい」とシャウトするヒル。どんな都会に出ていってパリピになっても、素朴な南部人の心を忘れずに生きてきた彼そのものを、反映した曲なのである。
この真摯な歌声が、黒人白人を問わず、多くのアメリカ人の心を揺さぶってやまないのだ。大ヒットしたのも、至極当然だろう。実にシンプルで、分かりやすいメロディと力強いビートが、グイグイと迫ってくる。
80年代におけるブルース界の最大級ヒット「Down Home Blues」を、今一度聴き直してみよう。きっと一生ものの、フェイバリット・ソングになるはずだ。
米国の黒人シンガー、ジージー・ヒルことアーゼル・J・ヒルは、1935年テキサス州ネープルズ生まれ。20代でゴスペル・グループ、スピリチュアル・ファイブに参加して、プロのキャリアをスタート。ダラスやその近辺のクラブで、バンドのフロントマンをつとめていた。
その頃からのジージー(Z.Z.)というステージ・ネームは、かのB・B・キングにならって付けたものだという。
スター歌手オーティス・レディングがそのステージを観て、ヒルにレコーディングを勧める。兄のマット・ヒルがレコード・プロデューサーをつとめる、ロサンゼルスのMHレーベルより64年に最初のシングル「You Were Wrong」をリリース。
この曲が全米チャートインしたことでケントレーベルと契約、シングルとアルバムをリリース、メジャー歌手への道が始まる。
とはいえ、ケント時代にはヒットが出ず、カプリコーンレーベルに移籍、そこでも芽は出なかった。マンカインドレーベルを経て、再びロサンゼルスへ戻る。
そこでシングル「Don’t Make Me Pay for His Mistakes」を71年にリリースしたところ、ついに全米62位、R&Bチャート17位のスマッシュ・ヒット。この曲で、ジージー・ヒルの名が米国中に広まったのである。
以降、いくつかの曲をチャートインさせる。70年代はアルバムもUAレーベル、コロムビアレーベルなどからコンスタントにリリースして、時にシングルもヒット、活動を続けていくが、次第に低迷期を迎えるようになる。
79年にコロムビアの本拠地ニューヨークから離れて、ミシシッピ州ジャクスンのマラコレーベルと契約。これが功を奏して、80年代はもっぱらこのレーベルで活躍することになる。
その最大の成果が、本日取り上げた、82年のヒット曲「Down Home Blues」だ。
マラコでの最初のヒット曲は82年リリースのシングル「Cheatin’ in the Next Room」という不倫を題材にしたバラード・ナンバーだが(R&Bチャート19位)、この曲を作曲したシンガーソングライター、ジョージ・ジャクスン(1945年生まれ)に再び依頼して作られた、ブルース・ナンバーが「Down Home Blues」。
ブルースといっても、ヒル流のソウル感覚に溢れている、いわばブルーズンソウルなナンバーだ。ちなみにジャクスンは日本でもヒットしたオズモンズの「One Bad Apple」の作者でもある。
これが連続ヒットしたことで、2曲を収めたアルバム「Down Home」は大ベストセラーとなった。
全米で209位まで行ったのも、ブルースのレコードとしては極めて異例なのだが、本当にスゴいのはそれが最大瞬間風速的なヒットではなく、コンスタントに売れ続けたということだ。なんと2年近くチャートインしており、アルバムの売り上げ総計は、50万枚以上だという。
マラコというローカルレーベルにおいては、80年代、会社を支え続けた大ヒットであったのだ。
この勢いをかりて、ヒルは83〜84年にアルバムを3枚もリリースする。もちろん、いずれも好セールスを記録している。
このシングル連続ヒット、アルバム連続ヒットにより、ヒル自身の人気や評価も復活して、ヒルの黄金時代が続く…かに見えた。
しかし、好事魔多し。84年2月のツアー中に自動車事故に遭い、その後遺症で4月に亡くなっている。享年48。これからのさらなる活躍が期待されていただけに、本当に惜しい死であった。
さて、長々とヒルの生涯を紹介してしまったが、その一生を一曲に象徴しているのが、この「Down Home Blues」だろう。
ブルースそのものがテーマの、ブルース。
Down Home(ダウンホーム)とは南部風、素朴で気取らない、飾らないという意味の英語表現。
タフで少しハスキーな歌声で、「彼女は一晩中、ダウンホームなブルースが聴きたい」とシャウトするヒル。どんな都会に出ていってパリピになっても、素朴な南部人の心を忘れずに生きてきた彼そのものを、反映した曲なのである。
この真摯な歌声が、黒人白人を問わず、多くのアメリカ人の心を揺さぶってやまないのだ。大ヒットしたのも、至極当然だろう。実にシンプルで、分かりやすいメロディと力強いビートが、グイグイと迫ってくる。
80年代におけるブルース界の最大級ヒット「Down Home Blues」を、今一度聴き直してみよう。きっと一生ものの、フェイバリット・ソングになるはずだ。