8月15日は66年目の終戦の日を迎える。
昭和20年8歳の時、祖父が部落会長をしていたためか、わが家に近くの人々が20人ほど集まってきてラジヲで天皇陛下の声を聴いた記憶がある。
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」。
当時「玉音放送」といわれた。
古びたラジオで雑音で聞き取れにくかったが、みんな真剣な顔をして
涙を手の甲で拭っていた様子もおぼろげながら記憶している。
放送が終っても誰一人腰が抜けたように立ち上がる人もなく放心したようだった。
その後はどうしたか記憶は定かでない。
わがマチのとなり旭川には「旧陸軍第7師団」があった。
日露戦争の激戦地「203高地」にはじまり、太平洋戦争ではアツッ島、ノモハン、ガダルカナル、沖縄と激戦地に若者たちが送られほぼ全滅している。
戦地に赴く兵隊さんが通った駅前の「師団通」はいまから40年前に「平和通買物公園」となって同じ年代の若者たちで賑わっている。
戦争を体験して復員してきた人もすでに90歳にもなり生存者も少なくなった。
8月15日が近くなると、北海道新聞社発行の百人の証言「戦禍の記憶」を読み直してみる。
戦争は悲惨だ。
日本は戦争でアジア諸国に多大な被害を与え、310万人も日本国民の犠牲者がでた。
道庁の調べでは北海道の戦没者は109,500人という。
いま日本は戦争を知らない世代が76%を占めている。
憲法改定や自衛隊海外派兵の話を積極的に進めようとしている人達もいる。
ふたたび戦争を起こさせないためにも「終戦の日」は戦没者を追悼し歴史の重みをかみ締める大事な日としてほしい。
昭和20年8歳の時、祖父が部落会長をしていたためか、わが家に近くの人々が20人ほど集まってきてラジヲで天皇陛下の声を聴いた記憶がある。
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」。
当時「玉音放送」といわれた。
古びたラジオで雑音で聞き取れにくかったが、みんな真剣な顔をして
涙を手の甲で拭っていた様子もおぼろげながら記憶している。
放送が終っても誰一人腰が抜けたように立ち上がる人もなく放心したようだった。
その後はどうしたか記憶は定かでない。
わがマチのとなり旭川には「旧陸軍第7師団」があった。
日露戦争の激戦地「203高地」にはじまり、太平洋戦争ではアツッ島、ノモハン、ガダルカナル、沖縄と激戦地に若者たちが送られほぼ全滅している。
戦地に赴く兵隊さんが通った駅前の「師団通」はいまから40年前に「平和通買物公園」となって同じ年代の若者たちで賑わっている。
戦争を体験して復員してきた人もすでに90歳にもなり生存者も少なくなった。
8月15日が近くなると、北海道新聞社発行の百人の証言「戦禍の記憶」を読み直してみる。
戦争は悲惨だ。
日本は戦争でアジア諸国に多大な被害を与え、310万人も日本国民の犠牲者がでた。
道庁の調べでは北海道の戦没者は109,500人という。
いま日本は戦争を知らない世代が76%を占めている。
憲法改定や自衛隊海外派兵の話を積極的に進めようとしている人達もいる。
ふたたび戦争を起こさせないためにも「終戦の日」は戦没者を追悼し歴史の重みをかみ締める大事な日としてほしい。