埼玉は、昨日の夜と今夜、雨が降っています。
雷も遠くで鳴っています。
涼しくなって本当に助かります。
まんが「使徒の働き」の手直しを時間がある時にしていますが、かなり時間がかかっています。
ページを2ヵ所増やしましたが、註解書などを読んでいるうちに1ヵ所はやはり入れないことにしました。
どうすべきか祈っていましたが、やはり良く分からないことを追加するのは、躊躇があったので止めたのです。
何でも、見分けが必要ですね。
お笑いの新人ネタ見せ番組が相次いで無くなりました。
今は、一発芸よりトークの時代だそうです。
一発芸は、すぐにあきるので、次々と新しい芸を生み出さないと駄目ですが、やはりトークの面白い人の方が長続きすると思います。
芸人の浮き沈みは激しいので、昨日売れていても、来年は売れないという方が結構いますね。
どの世界でも、一線で活躍できる方はわずかですが、それを保つ方は、もっと少ないですね。
まんがの世界の同じで、漫画賞などで、デビューしても、2~3回描いただけで終わってしまった方は何百人もいると思います。そして、キリスト教のまんがは、読んでくださる方が少ないため、経済的なことを中心に十字架をおった歩みになります。
しかし、そこを通らないと用いられないのです。
厳しい道ですが、やりがいのある人生です。
ヘボンがアメリカに帰国する前に、明治学園学院長は井深梶之助牧師になりました。
この梶之助さんには、八重さんと言う姪がいました。
両親は、八重さんが7歳の時離婚し、お父さんは国会議員で多忙なため、八重さんは伯父さんの梶之助さんに預けられました。
そして、同志社女学校で8年間寄宿舎生活をした後、長崎の女学校で英語の教師として働いていましたが、皮膚病が治らなかったので病院に行くとハンセン病の疑いがあるというので、カトリックの隔離病院に入れられます。
しかし、3年後ハンセン病ではないことが分かりましたが、カトリックの神父さんの献身的な姿を見て、病院に残り看護婦の資格を取ります。やがて、看護婦長になり極貧の中で、生涯をハンセン病の患者さんの救済に捧げました。
そして、世界的に評価されて昭和34年に聖十字勲章を受章し、36年には、第18回フローレンス・ナイチンゲール記章を受章しました。
昭和38年には遠藤周作が彼女をモデルに「わたしが・棄てた・女」を書き、後に浅岡ルリ子主演で映画にもなっています。
ソニーの創設者・井深大さんは、その遠縁にあたります。
昭和50年には、雑誌タイムで「マザー・テレサに続く日本の天使」として紹介されましたが、平成元年に召天されています。八重さんも神様によって召しだされた生涯だったと思いますが、ご本人の選びにもよりますね。