か・感謝なことにやっとペンが終わったと思ったら、ジョージのヘヤ―スタイルが古いままでした。
60代になったので、少し前髪を後退させていたのに下絵で気がついていましたが、ペン入れの時忘れていたわけで、いま感謝しつつ手直ししています。
うっかりミスが多いので、色々直しが出てしまう事が良くあります。
こんな時こそ、イライラしないで、感謝×∞
慶応大学の創立者・福澤諭吉とキリスト教の関係は深いものがあります。
文久2年(1862)、諭吉が27歳の時、ヨーロッパ使節団としてロンドンにいた時、全員に新約聖書の英訳がイギリス聖書協会から配られました。
諭吉は翻訳係りでしたが、それが幕府御禁制の聖書だと分かり、全員が返却したのです。
諭吉は、キリシタン禁制下で捕まり拷問を受けていた二川一謄を助けるために一肌脱いでいます。
また、禁教令撤廃直後の1873年に来日した英国国教会(聖公会)の宣教師ショウや女性宣教師アリス・ホアなどとも深いつながりがあり、慶応の一角に住まわせています。
しかし、1877年、クララの日記では、諭吉は彼らの教会の権威や儀式を重んじる思想が気に入らなくて、ショウたちは慶応から出たとあります。
それでも、ショウは長く、諭吉と交際が続きます。
このショウは、軽井沢を保養地として発展させた方です。
諭吉は、自分の命を助けてくれた、昔は宣教医だったシモンズも慶応の敷地内に住まわせました。
それと、原罪や三位一体を否定する自由主義のユニテリアンの宣教師にも援助をしています。
津田梅子の父親である、津田仙は、諭吉のことを「クリスチャンではないが、クリスチャンの良い友人」だと言っています。クララは、日記の中で「東京の三著名教師(津田仙・中村正直・福澤諭吉)の中で福澤諭吉が一番好き。」だと言っていますが、最後の方で自分の父親がアメリカに帰るのを見送りに来なかったので、パーティで会っても無視したことが出てきます。
その後、仲直りしたのかどうかは分かりません。
福澤諭吉のキリスト教に対する考えは年代とともに、大きく変化しているのが面白いですね。