6月30日と7月1日に横浜へ出張した。
目的は2つ。ひとつは現在執筆中の「ニッポンの客船黄金史(仮称)」取材。
そしてもうひとつが、30日から後半展示開幕となった横浜都市発展記念館「昭和はじめの『地図』の旅」展の観覧のためだった。
後者は、大正広重と呼ばれ日本の観光イメージである「富士山・芸者・桜」を創り出した人物で、鳥瞰図で著名な吉田初三郎の作品を中心に展示されていて必見の企画展である。特に神奈川県庁の地下倉庫から発掘された「神奈川県観光図(昭和8年)」絹本彩色原画は、その素晴らしい構図と圧倒的な美しさで観る人を魅了する。
朝いちのANA便で福岡から羽田へ。そして午前中に浜松町界隈で仕事の打合せを済ませ、横浜へ移動。初三郎など鳥瞰図研究の第一人者・藤本一美氏と会場で合流した。
前半の展示でも観たのだが、やはり展示のメインは「神奈川県観光図」原画。以前訪れた時よりも照明が落とされ、展示にも気を使っているのが判る。某鑑定で500~600万との鑑定額が付いたとの事。私はこれまでに初三郎の肉筆鳥瞰図原画を200点余り閲覧してきたが、その中でもかなり状態や構図が良い方なのは間違いない。
ちなみにこれまでで最高の原画は「若松市(昭和8年)いのちのたび博物館蔵」である。大きさと圧倒的な迫力で言えば、「霊山英彦山(昭和8年)英彦山修験道館蔵」や「萩市(昭和8年)屏風絵=萩博物館蔵」も最高水準であるが、「若松市」はとにかく保存状態が良い。海の青さや原画全体の状態は、まるでつい昨日描かれたように美しい…。
初三郎原画で私が気に入っている作品を列記したところで、ふとある事に気が付いた。それは何れも昭和8年の作品であること。そしてその日本画的タッチから、実際に彩色したのが初三郎の高弟で一番弟子であった前田虹映(こうえい)だと思われることだ。これを裏付ける資料が、今回発見された「神奈川県観光図」原画と一緒に出てきたと、前田虹映の長男・稀(まれし)さんに聞いた。
その稀さんと、扶桑文庫の井上氏とはこの会場で合流予定であったが、月末の交通渋滞に巻き込まれて遅れ、会えたのは展示が終了した17時過ぎであった。赤煉瓦倉庫へ場所を移し、稀さんから「虹映が実際に描いた証拠」の県庁記録文章コピーを見せていただいた。その後、ひととき歓談し再開を誓って別れ、この夜は横浜に泊まった。
目的は2つ。ひとつは現在執筆中の「ニッポンの客船黄金史(仮称)」取材。
そしてもうひとつが、30日から後半展示開幕となった横浜都市発展記念館「昭和はじめの『地図』の旅」展の観覧のためだった。
後者は、大正広重と呼ばれ日本の観光イメージである「富士山・芸者・桜」を創り出した人物で、鳥瞰図で著名な吉田初三郎の作品を中心に展示されていて必見の企画展である。特に神奈川県庁の地下倉庫から発掘された「神奈川県観光図(昭和8年)」絹本彩色原画は、その素晴らしい構図と圧倒的な美しさで観る人を魅了する。
朝いちのANA便で福岡から羽田へ。そして午前中に浜松町界隈で仕事の打合せを済ませ、横浜へ移動。初三郎など鳥瞰図研究の第一人者・藤本一美氏と会場で合流した。
前半の展示でも観たのだが、やはり展示のメインは「神奈川県観光図」原画。以前訪れた時よりも照明が落とされ、展示にも気を使っているのが判る。某鑑定で500~600万との鑑定額が付いたとの事。私はこれまでに初三郎の肉筆鳥瞰図原画を200点余り閲覧してきたが、その中でもかなり状態や構図が良い方なのは間違いない。
ちなみにこれまでで最高の原画は「若松市(昭和8年)いのちのたび博物館蔵」である。大きさと圧倒的な迫力で言えば、「霊山英彦山(昭和8年)英彦山修験道館蔵」や「萩市(昭和8年)屏風絵=萩博物館蔵」も最高水準であるが、「若松市」はとにかく保存状態が良い。海の青さや原画全体の状態は、まるでつい昨日描かれたように美しい…。
初三郎原画で私が気に入っている作品を列記したところで、ふとある事に気が付いた。それは何れも昭和8年の作品であること。そしてその日本画的タッチから、実際に彩色したのが初三郎の高弟で一番弟子であった前田虹映(こうえい)だと思われることだ。これを裏付ける資料が、今回発見された「神奈川県観光図」原画と一緒に出てきたと、前田虹映の長男・稀(まれし)さんに聞いた。
その稀さんと、扶桑文庫の井上氏とはこの会場で合流予定であったが、月末の交通渋滞に巻き込まれて遅れ、会えたのは展示が終了した17時過ぎであった。赤煉瓦倉庫へ場所を移し、稀さんから「虹映が実際に描いた証拠」の県庁記録文章コピーを見せていただいた。その後、ひととき歓談し再開を誓って別れ、この夜は横浜に泊まった。