記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

博多湾と君が代の繋がりは?古代史の宝庫・博多湾一帯。

2007年06月18日 17時59分27秒 | 博多湾
 2年前に絵地図「博多湾周遊絵巻」を作家・村松昭さんに描いて
もらう際、多くの博多湾に関する資料・文献を読み解く機会、そし
て実際に現地へ出向き確認するという機会を得た。福岡市に住んで
いてもなかなかこれらを全て訪ねる機会など、そうあるものではな
い。600カ所ほどを数十日の踏査取材で巡った訳である。

 その中で私にとって最大の「衝撃」は、志賀島資料館で見かけた
「君が代の故郷は博多湾」の記事コピーである。平成2年頃の週刊
誌掲載記事の切り抜きであったが、著者の古田武彦氏の名は「邪馬
台国はなかった」等の本で存じていたので、のちに書店でこの論文
をまとめた「君が代は九州王朝の賛歌」を見つけて以来、この本の
謎解きの面白さ、土着の神々新興の尊さに興味を持つことになった。

 言わずと知れた国歌「君が代」は明治政府、言い換えれば薩長政
権が古今集などに載っていた「題知らず」「読み人知らず」の歌に
メロディを付けて全国へ国歌として広めたものである。その歌がど
こで誰によって読まれたものなのか、これは歴史学などの世界では
永年にわたり現在に至るまで調べることもタブーとされているテー
マである。

 この本を読む機会があれば、そのタブー視されたテーマに挑んだ
市民学者や多くの郷土史研究家の苦労と、それ以上の謎解きの喜び
と感動に接することができる。これは丁度、吉田初三郎の資料探し
や解読と通じる部分があり、ひとつの限られた視点だけでなく全く
別の、どちらかというとタブー視されている領域からも新しい発見
があるかも、という発想の基となっている。

 西区まるごと博物館で一緒に活動している方々は、地元の小戸公
園内にある「小戸大神宮」が、日本書紀や古事記に記されている、
「筑紫の日向の橘の小戸のアワギ原」の小戸にあたる聖地だと信じ
て疑わない。一般的には天孫光臨の地である高千穂峰のある宮崎の
一帯がその地であるというのは歴史の本でも学ぶ「周知の事実」で
あるが、この説以上に信憑性があるのが博多湾一帯なのだ。

 筑紫(つくし)とは言うまでもなく博多湾を中心とした福岡地方
一帯の別名である。日向は宮崎であろう、との意見があるが、実は
小戸を望む博多湾岸から山手側に「日向峠(ひなたとうげ)」があ
る。峠から山の尾根つたいに博多湾を一望できる。

 博多湾岸には伝説の「神功皇后」にまつわる伝説、そして実在し
た最初の天応であると言われる応神天皇の誕生にまつわる伝説地が
数多い。仲哀天皇の后であった神功皇后は、三韓征伐(遠征)で訪
れた筑紫の地で、遠征に望む前に急死した仲哀天皇に代わり、お腹
に子供(応神天皇)を宿したまま朝鮮半島へ出発した。

 仲哀天皇が亡くなった地は博多湾の東奥にある香椎宮(古宮)で
あり、天皇家神事の際の勅使が来る地である。また、神功皇后が三
韓遠征に旅だった地が「小戸大神宮」のある入り江である。帰還後
に応神天皇を生み落とした地が宇美八幡宮であり、それら伝説に纏
わる所以地、古地名が博多湾岸を中心に集中している。邪馬台国の
女王・卑弥呼のモデルもしくは本人が神功皇后との説もある。

 さらに博多湾一帯には住吉三神、八幡三神、志賀三神の産み落と
しに纏わる伝説も点在し、実際に住吉宮の総本社・住吉神社、全国
海神の総本社・志賀海神社、皇室ゆかりの筥崎宮、香椎宮などが志
賀海神社を起点にした二等辺三角形の中に、互いに同距離の位置に
存在してる(誤差は僅か20m足らず)。

 周辺に域を広げても、北部九州には神社の総本社・総本宮が多く
歴史の古い格式高い神社ばかりである。これら状況証拠に付して、
志賀海神社で古来から神事「やまほめ祭」等の祝詞で「君が代」と
同じ歌詞が伝えられていた事実につきあたると、「君が代伝説」に
ついて博多湾だというのも現実的になってくる。

 さらに博多湾沿岸には、君が代の歌詞に登場する地名や神社など
が全て揃っている。千代(八千代は千代の強調系)、細石(さざれ
いし=細石神社)、いわほ(井原=現地発音いわら、岩厳の崎、現
在の糸島半島一帯は鎌倉時代まで糸島水道で博多湾と唐津湾が直線
で結ばれ、井原一帯は湾岸であった。井原一帯からは日本最大の銅
鏡はじめ大量の国宝出土、細石神社はその中心にある)、そして、
桜谷神社の苔産霊神(こけむすびのかみ)である。古くは「古計牟
須姫命」。

 国宝「金印」は志賀島で見つかり、魏志倭人伝に記される奴国は
和の国の中心地のひとつ。井原遺跡や平原遺跡など伊都国遺跡群の
ある地一帯は、奴国の「王家の谷」だった地。その谷を越えて博多
湾岸へ出る途中にある「日向峠」…わずか数キロの圏内にこれだけ
古代史の謎に関係するような状況証拠があると、地元のひいき目な
しに、全て読みが正しいとまで断定できなくても、無視できないの
ではないだろうか。

 博多湾岸には70m級の前方後円墳など地方の有力豪族の墓と思
われる遺跡も数多い。とくにその全体像が見える西区の大塚古墳に
登ると、教科書で見た前方後円墳の全体像のお手本と見まがうほど
の正確な形状が判る。日向峠を博多湾側に下りた地には吉野ヶ里遺
跡以上の大規模な弥生集落跡である「吉武高木遺跡」もある。まさ
に博多湾一帯は古代史の宝庫である。

 古代史や郷土史を楽しむには、教科書や辞典などだけでなく、そ
の地の伝承・伝説、地名の由来、神社由来記などを丹念に調べてい
くことだと改めて認識させられる。かの吉田初三郎は、各地に眠る
地域伝承にも耳を傾け、その中から朝日長者伝説にちなんだ「久住
飯田高原・長者ヶ原」など現在まで伝わる観光地名を命名してきた。
戦後の日本人が失った、地方伝承の大切さを初三郎鳥瞰図に視るこ
とができる。

今日の写真は絵地図「博多湾周遊絵巻」の小戸・日向峠など部分。
絵地図の製作ドキュメントや頒布方法は以下ページ
http://www.asocie.jp/map/hakatawan/index2.html

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