記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

大相撲の歴史に触れた小旅行。大川~柳川(旧大和町)

2007年08月20日 22時37分56秒 | まちづくり
 お盆を挟んだ怒濤の一週間が過ぎた。じっくり執筆等に専念するつもりが、
飛び込みで入った企画仕事数件は私に忙しくも楽しい時間をくれた。気がつく
と一週間ブログを書いていない(笑)。仕事に熱中すると時を忘れてしまうの
は絶好調?それとも悲しいB型の性か(笑)!

 18日の土曜日、大川市へ打合せに出掛けた。以前は知人がいたので度々出
掛けていたが、最近は疎遠となり久しぶりに市内の町並みや日本唯一の昇降橋
を観ることができた。打合せは3時間におよび気がつくとお昼を廻っている。
15時過ぎには福岡市へ帰りたかったが、せっかくなのでずっと行ってみたか
った旧大和町(現柳川市)の雲龍資料館へ足を運んだ。

 大川市の中心地から柳川までは僅か15分ほど。暑い盛りだが、北原白秋の
生家などの前を通り川下りの景観を横目に観ながら、今は合併して柳川市に入
った旧大和町へ約10分。旧役場(現大和支庁)前に雲龍資料館はあった。

 大相撲の雲龍といえば、横綱の土俵入り「雲龍型」に今も名を遺す第10代
横綱である。活躍したのは幕末、浦賀へ来航したペリー一行の前で相撲披露も
行っている。前後に活躍した横綱不知火と並び横綱土俵入りの型に名を遺して
いるが、相撲界の通説として横綱の土俵入りはそれまで型に決まりがなく、中
でも最も美しかった二人の型に後に強引に分けられたようである。

 しかも二つの型は実は全く逆に伝えられているともいう。主な相撲語のサイ
トやブログでも実は雲龍の型は今の不知火のカタチに近く、不知火型は雲龍の
当時の型に近いらしい。雲龍については写真等も残っておらず、錦絵などでそ
の一端が判る程度。伝承によって後年伝えられただけに記憶も曖昧なまま今に
至っているようである。

 資料館の展示にはその事については一切触れられていなかったが、巡業など
の際には歴代の「雲龍型」の横綱はゆかりの神社などへ参拝したという。北の
湖や千代の富士など、私が大相撲大好きで毎場所独自の星取表まで作っていた
時代の人気力士たちである。

 昭和50年代から平成に入る頃が大相撲の人気の最盛期だと思う。千代の富
士の連勝記録更新の時だ。当時、変わった消しゴムが学校で流行った。スーパ
ーカー消しゴムに始まり、大相撲の人気力士の消しゴムも「ガチャポン(ガチ
ャガチャ)」の人気アイテムであった。それがキンケシ(キン肉マン消しゴム)
へと引き継がれる?

 相撲好きだった私は7つ離れた弟とよく、力士消しゴムで本場所さながらの
オリジナル場所をして遊んだ。番付や星取表を自分たちで作り、取り組みをト
ントン相撲の要領で二人で楽しむ。けっこうリアルだった力士消しゴムは、技
も多彩でちゃんとつき押し相撲の朝潮や高見山は押し相撲、上手投げなどが得
意な千代の富士は投げ技で勝負が決まることが多かった(笑)。

 今から思えば、これらの遊びを自分たちで細密に再現していたことが、企画
力や統計資料・マーケティングなどの下敷きになっている気がする。勝率を出
したり、対戦成績を表やグラフで表したり、かなり凝って遊んだのだ。

 雲龍資料館には歴代横綱の肖像や写真もあり、名場面などを映像で楽しむこ
ともできる。柳川といえば今は琴奨菊関が幕内で活躍中、琴奨菊のノボリの横
に「第10代横綱雲龍」のノボリがはためいていた。

今日の写真は、雲龍公園内にある雲龍資料館前の記念土俵。

アンティーク絵葉書に観る懐かしの風景・町並み
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鳥瞰図絵師・前田虹映

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