久々の書き込みである。
先日、吉田初三郎の「景勝の長崎(昭和9年)」原画及び「南九州の聖都宮崎市(昭和25年)」原画を手に入れた。研究を始めて約10年、これまでに各地の企画展やお孫さん宅訪問などで200点ほどの原画を拝見してきたが、鳥瞰図原画を1点でもほしいと考えていた。
これまでにも初三郎の肉筆原画(絹本彩色)=日本画=は数点所有していたが、いずれも美人画などだったので、初三郎鳥瞰図ファンとしては嬉しい限りである。
先に入手していた原画のひとつ「筥崎宮と博多小女郎伝説=原題(九州大神宮)」は、昭和11年頃の作画で、未確認ながらおそらく「筥崎宮鳥瞰図(未発見)」もしくは福岡市博物館が所蔵する「福岡市鳥瞰図(昭和11年)」の印刷パンフレット表紙用に描かれたものと推測される。
構図は「敵国降伏」の額が掲げられている小早川隆景が建設した筥崎宮楼門を背景に、戯曲などでも有名な博多小女郎を配している。縦60cm×横90cmのサイズは、美人画等の原画としては標準サイズながら、友禅工房の丁稚から出発した初三郎の画業ならではの繊細なタッチで、博多織の伝統的な図柄を見事に表現している。
初三郎の功績は、誰もが認めるように鳥瞰図にあるのだが、私はその画歴、制作行程を調べる中で印刷技術の発展との密接な関係に改めて気づいた。原画のタッチを年代順に並べると、印刷手法の移り変わりに合わせて次第に繊細なタッチへと移行した事が判る。大正期は石版画(リトグラフ)であったものが関東大震災以後に普及したオフセット印刷に変わり、さらに昭和7~9年のカラー写真製版技術の一定の完成期に合わせて、画風はより繊細になっていく。
ファンや研究者は円熟期にあたる昭和10年以後の作品は、力強さが欠如していくと指摘する方も多いが、原画と合わせて見ていくと意識的に日本画特有のボカシや濃淡を印刷物で表現できるようになって、本来の初三郎タッチを打ち出したと考えている。
今回入手した「長崎市」原画は、まさに原画制作の変換期の作品。実際に彩色したのがのちに養子に入り二代目となる吉田朝太郎だと判明しており、印刷版と比較すると濃淡やボカシ、建物の描き方などが写真製版へと移行する直前である事が判る。実はこの「景勝の長崎」印刷版は昭和9年春に開催された「長崎国際観光博覧会」に合わせて作成されているが、観光社の資料等を調べていくと昭和6年頃に依頼を受けて現地踏査取材は6年後半から翌7年にかけて行われ、作画も7年頃には完成していた事が判る(初三郎新聞スクラップ=鳥瞰図の周字屋CD-ROM)。また、原画と印刷物の相違点を調べると、印刷物で長崎港に「日満連絡発着所」と描かれている部分は、原画では「日華連絡発着所」であり、これは昭和7年に満州国が建国される前の名称である。他の部分では相違点がほとんど無いため、この推測は当たらずも遠からずだと考える。
http://www.asocie.jp/map/oldmap/nagasaki/43002.html
この時期以後、初三郎には大きな転換期が訪れる。即ち10数年拠点としてきた愛知・犬山の蘇江画室を廃止しての青森・種差海岸への画室移転であり、初三郎二世の呼び声も高く「神奈川県観光図」製作時をはじめ、初三郎代理として実際の踏査・取材・作画・ディレクションを工房で担当していた前田虹映をはじめとする優秀な工房画家の離脱である。
これらについては次回記す事にする。
先日、吉田初三郎の「景勝の長崎(昭和9年)」原画及び「南九州の聖都宮崎市(昭和25年)」原画を手に入れた。研究を始めて約10年、これまでに各地の企画展やお孫さん宅訪問などで200点ほどの原画を拝見してきたが、鳥瞰図原画を1点でもほしいと考えていた。
これまでにも初三郎の肉筆原画(絹本彩色)=日本画=は数点所有していたが、いずれも美人画などだったので、初三郎鳥瞰図ファンとしては嬉しい限りである。
先に入手していた原画のひとつ「筥崎宮と博多小女郎伝説=原題(九州大神宮)」は、昭和11年頃の作画で、未確認ながらおそらく「筥崎宮鳥瞰図(未発見)」もしくは福岡市博物館が所蔵する「福岡市鳥瞰図(昭和11年)」の印刷パンフレット表紙用に描かれたものと推測される。
構図は「敵国降伏」の額が掲げられている小早川隆景が建設した筥崎宮楼門を背景に、戯曲などでも有名な博多小女郎を配している。縦60cm×横90cmのサイズは、美人画等の原画としては標準サイズながら、友禅工房の丁稚から出発した初三郎の画業ならではの繊細なタッチで、博多織の伝統的な図柄を見事に表現している。
初三郎の功績は、誰もが認めるように鳥瞰図にあるのだが、私はその画歴、制作行程を調べる中で印刷技術の発展との密接な関係に改めて気づいた。原画のタッチを年代順に並べると、印刷手法の移り変わりに合わせて次第に繊細なタッチへと移行した事が判る。大正期は石版画(リトグラフ)であったものが関東大震災以後に普及したオフセット印刷に変わり、さらに昭和7~9年のカラー写真製版技術の一定の完成期に合わせて、画風はより繊細になっていく。
ファンや研究者は円熟期にあたる昭和10年以後の作品は、力強さが欠如していくと指摘する方も多いが、原画と合わせて見ていくと意識的に日本画特有のボカシや濃淡を印刷物で表現できるようになって、本来の初三郎タッチを打ち出したと考えている。
今回入手した「長崎市」原画は、まさに原画制作の変換期の作品。実際に彩色したのがのちに養子に入り二代目となる吉田朝太郎だと判明しており、印刷版と比較すると濃淡やボカシ、建物の描き方などが写真製版へと移行する直前である事が判る。実はこの「景勝の長崎」印刷版は昭和9年春に開催された「長崎国際観光博覧会」に合わせて作成されているが、観光社の資料等を調べていくと昭和6年頃に依頼を受けて現地踏査取材は6年後半から翌7年にかけて行われ、作画も7年頃には完成していた事が判る(初三郎新聞スクラップ=鳥瞰図の周字屋CD-ROM)。また、原画と印刷物の相違点を調べると、印刷物で長崎港に「日満連絡発着所」と描かれている部分は、原画では「日華連絡発着所」であり、これは昭和7年に満州国が建国される前の名称である。他の部分では相違点がほとんど無いため、この推測は当たらずも遠からずだと考える。
http://www.asocie.jp/map/oldmap/nagasaki/43002.html
この時期以後、初三郎には大きな転換期が訪れる。即ち10数年拠点としてきた愛知・犬山の蘇江画室を廃止しての青森・種差海岸への画室移転であり、初三郎二世の呼び声も高く「神奈川県観光図」製作時をはじめ、初三郎代理として実際の踏査・取材・作画・ディレクションを工房で担当していた前田虹映をはじめとする優秀な工房画家の離脱である。
これらについては次回記す事にする。